ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

暮れずともよし

2018-03-26 21:28:57 | Weblog

                    

                                     

 3月26日

 春の青空が広がっている。
 小さな雲が出たり、少し薄雲が流れたりした時があったにせよ、何と今日でもう、まる四日、快晴の天気の日が続いている。
 私の記憶の中では、この九州でも北海道にいた時でも、これほど快晴の日が続いたという経験はないのだが。さらに快晴の日は、あと二日も続くという。
 全くの所、この時期に残雪の山を縦走していればと思うのだが、もちろん今の私には、そうした計画を立てるだけの元気も、それだけの体力もないのだけれど。

 ”夢は千里を駆けめぐる”・・・青空の下、まだ冬山のように雪に彩られたられた山々が立ち並び、私はひとり足あともついていない雪の稜線をたどって行く・・・その一日の終わりの夕べの時と、次の日の始まりの早朝の時間に、真紅色に染められた山々の姿に見入ってしまうだろう。
 その神秘の時間に、対面している私がいることこそ、何よりも強く生きている自分知ることができるからだ。
 並び競い合うのは、他人とではなく、もちろんこうした山々とでもない。
 それは、いつも自分の心の中にいる、弱く狡猾で自堕落な気持ちになりたがる、もう一人の自分との、勝ち負けのないせめぎあいがあるだけなのだけれども。

 雪の後の快晴の日が、またもや週末にまたがっていたために、私は山登りにはいかなかった。
 その代わりに、近くの丘陵地帯の道なき道を歩き回っては、春まだ浅き青空の下の、枯草色の斜面やまだ冬枯れの木々のたたずまいを楽しんだ。
 2時間余りの、山麓歩きの彷徨(ほうこう)のひと時だったが、山登りの時と変わらないほど汗をかき、わが家に戻りついた時には、さすがに疲れていたが、庭に咲く梅の花の香りが、やさしく私を包んでくれた。
 山の中の樹々は、そのうちのいくつかが、ようやく枝先に新緑の若葉のつぼみをふくらませてはいたが、ほとんどはまだ冬の枯れ枝のままだった。
 しかし、山を下りてきて人家近くになると、あちこちで植え込みのアセビがいっぱいに咲いていて(冒頭の写真)、その下の黄色いスイセンの花とともに、確かな春を感じさせてくれた。

 このところの陽気で、全国各地では、桜の花が満開になっていて、花見客でにぎわっているとのことだが、わが家のヤマザクラの花が咲くのは、まだまだ先の話であり、今では、ようやく梅の花が満開になったところで(写真下)、いつもの年にまして、あの甘ずっぱい香りが周りに満ち満ちている。 
 去年は、梅の実の収穫量が少なかっただけに、”今年は頼むぞウメちゃん”と、ことあるごとにせっせと私の体内から出る肥料をかけているのだが、空の上から”馬鹿じゃないの、生肥やしが効くわけないでしょ”と母の声が聞こえてきそうで。


 

 それにしても、この青空に映える梅の花は、何とも見栄えがする。
 奈良時代、万葉の人々が、まず何よりも春に先駆けて咲くこの大陸渡来の梅の花を、春そのものの姿として讃えて、数多く歌に詠(よ)みこんだのも分かる気がする。 
 
 ”春されば まづ咲くやど(宿)の 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ”(山上憶良、やまのうえのおくら、『万葉集』巻五 818)

(『万葉集』 伊藤博訳注 角川文庫 以下同様)

 私も、同じようにベランダに出て、青空の下の梅の花を見ていた。
 一面の青空の下、温かい日差しが降り注いでいて、梅の花はその香りとともに咲き誇り、このまま同じ時間が続いて行けばいいとさえ思って、ふと”暮れずともよし”という一節が思い浮かんできた。
 それは、あの江戸時代の越後の国で、清貧の乞食修行を続けた、良寛(りょうかん)の一句である。

 ”この里に 手まりつきつつ 子どもらと遊ぶ春日(はるひ)は 暮れずともよし”

(『良寛 旅と人生』松本市壽編 角川文庫)

 春の日差しの中に、子供たちと手まりをつきながら、遊び笑う良寛和尚の姿が、目の前に浮かんでくるような。
 そしてこのままの、無心になれる時間が、ずっと続いてほしいと願う良寛の思いが伝わってくるような。

 もともと良寛の歌には、”本歌取り”とまでは言わないまでも、おそらくは深く読み込んでいたに違いない『万葉集』からの、引用句のように思われる歌が幾つも見受けられるのだが、この年下の仲間たちと一緒に遊ぶ楽しさを詠んだ歌は、例えば『万葉集』の巻十の”野遊”と題された4首の歌の一つ(1892)が思い出される。

 ”春の野に 心延(の)べむと 思うどち 来し今日の日は 暮れずもあらぬか”
 
(私なりに訳すれば、”春の野原で、仲間たちとのびのび遊ぼうと、やってきた今日の一日は、このまま続いて暮れないでほしい”)
 上記、良寛の歌に、この歌のことが頭にあったことは言うまでもないことだろう。 
 私たちから見ても、遠い昔の奈良時代にも江戸時代でもそうであったように、春の日差しを浴びて仲間と連れだち遊んでいるのは楽しいことなのだ。
 テレビ・ニュースで流さている人々のように、春、花の下で浮かれ騒ぐのは、何はともあれ、次代を超えて、誰もが春を迎える喜びで、じっとしてはいられなくなるからなのだろう。

 そうして、離れた所にまで出かけて行って、春の喜びを仲間と分かち合う人々がいるかと思えば、一方では、自分が生まれ育ったところから一度も離れずに、今の暮らしを過不足なく思いながら、暮らしている人たちもいるのだ。 
 一昨日たまたまチャンネルを変えて見た、民放の番組だけれども、そこで私は深く考えさせられたし、一方では、まだこうした人々がいるのだということで、心強い思いにもなったのだが。 
 それは前にも、何度か見たことがあるのだが、テレビ朝日系列の『ポツンと一軒家』という番組であり、今回はその2時間半にも及ぶ番組の中で、二つのエピソードを見ただけだったが、それでも十分だった。

 一つは、徳島県の山奥、というより山の尾根の頂きの辺りに、先祖伝来の畑を作って住む老夫婦がいると聞いて、番組スタッフが急な雪の山道をたどり行ってみると、確かに山の上が少し開けていて家があり、そこに90歳を超える老夫婦がいたのだ。
 そのおばあさんは40歳のころ夫に先立たれ、子供を抱えて困っていたところ、夫の弟が助けに入ってきて、そのまま一緒になり暮らしてきたが、最近ではその高齢の二人を心配して、70近い娘夫婦がやってきて、今では四人で住んでいるとのことだった。
 彼らは、急斜面にワラビ畑を作って、その山菜収穫などで生計を立てているとのことだが、生活物資は娘夫婦が下の町まで軽トラで買い物に行き、戻ってきてクルマは下に停めておいて、そこから上は、簡単な運搬用のモノレールを取り付けていて、それで荷物を運び上げ、自分たちは家まで20分もかかる斜面の山道を歩いて戻って来ていたが、なんとこの道を時には、あの90歳を超えたおばあさんまでもが往復するとのことだった。
 
 電気も来ているし、何と光ケーブルまでもひかれているとのことだが、しかし灯油などを使う暖房は使わずに、炊事の煮炊きをはじめ、すべては鉄板製の薪(まき)ストーヴ一つだけでまかなっているとのことだった。
 その薪は近くの山で出る間伐材を譲ってもらい、娘夫婦が二人で背負子(しょいこ)に20kの丸太を載せて一日6往復をして運んでいるとのことだった。
 北海道の家で50mと離れていない自分の家の林から、丸太を腕に抱えて運び出している私にとっては、他人ごとではない作業に思えた。
 ただ年寄りになって、丸太を割って薪を作るのは大変だからと、おじいさんが上手に薪割り器を使って、簡単な手仕事にしていたのには感心した。

 そして、おばあさんはようやく雪が消え始めた急斜面の畑で、ワラビの球根の周りに生えている雑草取りに精を出していた。 
 4人それぞれが、それぞれの仕事をもって、都会の便利さとはかけ離れた、山奥の一軒家で暮らしていて、それでもここにいることが幸せだと言っていた。
 
  もう一つは、長崎県の五島列島のさらに沖にある離れ小島に住む、これまた高齢の母娘の二人の話しだ。
 今でも、この島には数十軒の家があり、ちょっとした漁村集落に見えるのだが、何と母娘の暮らす一軒を除いて、他はすべて住民が出て行った後の空き家だという。
 昔は、漁業や真珠養殖などでにぎわったこの集落では、祭りの時には夜店も出るほどだったそうだが、それが水質変化などで、真珠や漁業が立ちゆかなくなり、人々が出て行ってしまって、残ったのはおばあさんひとりに、そこで娘が心配して介護を兼ねて戻って来て、今では、二人で住んでいるとのことだった。
 生活必需品は、定期的に本島から通う船に運んでもらい、あとは畑で野菜などを作って暮らしているとのことである。

 今年99歳になるおばあさんは、雪の降る今の時期はコタツで寝てばかりだというが、そのこたつの中からは、ネコがぞろぞろと十数匹あまり。昔この集落の家々で飼われていたネコが、その飼い主たちがいなくなり、いつしかこの家にすべて集まってきたそうだ。
 最後に、取材スタッフの一人がおばあさんに、何か趣味とか楽しいことはありませんかと尋ねると、おばあさんは、もう少し暖かくなったら、好きな草むしりがしたいと言っていた。

 ”山椒(さんしょう)は小粒でもピリリと辛く”、さらにそこには、たくましく生きている”一寸の虫にも五分の魂”があることを、今さらながらに思い知らされたような・・・。
 ”傲岸不遜(ごうがんふそん)”な態度であることが、自分の強さだと信じている偉い人々たちがいて、その対極にある名もなき庶民たちの、”剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)”な生き方しかできない人たちがいて、どちらが”仁”に近いのか・・・。
  

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