3月27日
他に咲く花とてない冬の時期に、少しずつ咲き続けてくれた、サザンカの花が終わりを迎え、代わってツバキの花の時期になった。
母が家のそばに植えていた、絞(しぼ)り八重咲のツバキの花が咲き始めた。(写真上)
昨日、屋根や雨樋(あまどい)にたまった落ち葉の様子を見ようと、はしごをかけて屋根に上った時に、上の写真の光景を見た。
このツバキの木の下のほうでは、花数も少なく、形も小さかったのだが、日差しあふれる屋根の上まで枝葉を伸ばした先には、その日の光の恵みを受けて、鈴なりにあふれんばかりの花が咲いていたのだ。
屋根に上がらなければわからなかった、花の咲き具合。
毎年、このツバキの花は見ていたし、色も淡く弱々しい気がしていたのだが、上のほうで、これほどあでやかな色の花が咲いていたとは。
ここに何度も書くことだが、物事にはいろいろな側面があるのに、私たちはただその時に自分が見た、ただ一つの方向だけから、唯一の判断の結果として決めつけているのではないのか。
さらに、屋根に上ったことで、もう一つ見つけたのは、前回書いたウメの花のことなのだが、なんと屋根の上からやや俯瞰(ふかん)する形になって、初めて満開のウメの花の広がりを知ることができたのだ。(写真下)
初夏のころには、この木にたくさんのウメの実がなって、それをジャムにして、私の一年分の健康食品になるのだ。
よく高齢のお年寄りが、幾つになっても学ぶことがあってと、話されているのを聞くことがあるけれども、若いころには生意気にも、”もう後がないクソジジイが今さら学んで何になる”と内心思っていたものだが、自分がその年寄りへの道を歩み出し始めると、今さらながらに、世界はまだまだ不思議に満ちあふれていて、これから先もなお、いろいろなことについて知りたいと思っていることに気づくのだ。”三つ子の魂(たましい)百までも”。
ところで、わが家の庭にある、このツバキとサザンカの違いについて、私は大まかにいって、冬に咲くサザンカと春に咲くツバキの差であり、さらにサザンカは花弁が一枚ずつ散るのに対して、ツバキは花ごと落ちるから、”落首(らくしゅ)”と言って、生け花には使われないぐらいのことしか知らなかったのだが、その両者ともに上の写真にあげたように様々な栽培種があって、区別つけがたいものもあるのだが、今回ネットなどで調べてみて、恥ずかしながら初めて、葉の形や葉脈などによって、ツバキとサザンカのはっきりした違いがあることを知ったのだ。
そこで、私たちのようなおじさん世代の、昭和歌謡に慣れ親しんだ人間たちにとっては 、ツバキやサザンカについて思い出すのは、あの小林幸子の”花は越後の雪つばきー”と歌う「雪椿」(星野哲郎作詞・遠藤実作曲、1987年)であり、また大川栄策が”咲いて寂しいさざんかのやどー”と歌う「さざんかの宿」(吉岡治作詞・市川昭介作曲、1982年)であり、その前の歌詞の流れから、その描かれた花の哀感を知ることができるのだ。
こうしてウメやツバキの花のことを書いていると、それでは家のヤマザクラはと見てみるが、まだまだツボミは小さく、さらには今日のようなぐずつき気味の寒い日が続いているから、まだまだずっと先のことだろう。
そこで最近、その時々の感興のおもむくままに、万葉集や古今和歌集、西行歌集などの歌をここにあげているのだが、確かに歌それぞれには今も昔も変わらぬ、人々の思いのたけが吐露(とろ)されていて、その一首を詠(よ)んで、その感想を書き立てていくだけでも、それは今の自分には十分に意味のあることなのだが、一日一首だとしても、万葉集だけでも約4千5百首もの歌があり、とても私の手に負えるものではなく、こうして思いつくままに書いていくほかはないのだが。
今回は、”万葉集”の第十三巻、長歌を多く集めた巻でもあり、その中の”挽歌”(ばんか、亡くなった人をしのんで詠んだ歌)の項の中からの一首である。(その全文をあげると長くなるので中略している。)
”隠口(こもりく、枕詞)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 鵜(う)を八頭(やつ)潜(かづ)け 下(しも)つ瀬に 鵜を八頭潜け 上つ瀬の鮎(あゆ)を食はしめ 下つ瀬の鮎を食はしめ 麗(くは)し妹に 鮎を惜しみ・・・遠離(とおざか)り居て 思うそら 安けなくに 嘆くそら・・・玉こそは 緒の絶えぬれば 括(くく)りつつ またも合うと言え また逢わぬものは 妻にしありけり”(3330)
(『万葉集』(三)第十三巻 中西進訳注 講談社文庫、以下同)
私なりに大まかに訳すれば、”泊瀬川の上の瀬のほうに、八羽の鵜を潜(もぐ)らせ、下の瀬のほうにも八羽の鵜を潜らせて、それぞれに鮎を飲み込ませて捕まえて、愛しい人に食べさせてやっていたのに、今は遠く離れた空のかなたにいて、ひと時も心安らかな時はなく、空を見ては嘆くばかりで、(破れた着物はつくろえばその裂けたところが重なり戻るし)、穴の開いた玉を通すひもが切れても、また新しいひもでくくれば、隣の玉と並んだ形に戻るのに、もう二度と会えないのは、死んでしまった私の妻なのだ。”
まず、この長歌の中では、何度か同じ言葉が繰り返されていて、その語調を整える言葉の連なりが心地よいし、着物が破れ玉の緒が切れても、大抵のものは再び元に戻るのに、緒が切れた魂(たま)は戻っては来ない、死んだ妻はもう再びは戻ってはこないのだと嘆く、夫の哀しみが、日常の漁の仕事の中につづられていて、今の時代に生きる私たちの心にも、痛切に伝わってくる。
まるで、目の前に流れる川で、鵜飼いの漁をしている、その人の顔の表情が大写しになるかのように。
この歌だけで、一編の映画が作れるような情景描写、情感描写になっていると思うのだが、まるで冥界(めいかい)に亡き妻を求めて下りて行く、あの『オルフェウスとエウリディーチェ』の物語のように、一筋の清らかな川の流れに彼の思いに重なっているようだ。
これは、名前も記されていない”詠み人知らず”の人の歌一首であり、なんという時代だったのだろうと思ってしまう、千数百年も前の天平・飛鳥の奈良時代とは。
実は昔、通して万葉集を読んだ時に私が印をつけていたのは、この二つ後の歌だったのだが、今回その歌について書こうと思っていたのに、その二つ前のこの長歌を再び読んでみて、改めて深く感じ入ってしまったのだ。
ということで、この長歌の挽歌の後に、続いて載せられている歌(3331)は、上の長歌とは枕詞と地名以外はあまり関係はないようにも思われるが、”隠口(こもりく)の 長谷(はつせ、泊瀬)の山 青幡 (あおはた)の 忍坂(おさか)の山は・・・”と、万葉集では数少ない、山の姿かたちを詠んでいる歌であり、また別な機会に、この歌の意味も考えてみたいところだが、今回あげるのは上に書いたように、その次に置かれた歌である。
” 高山と 海こそは 山ながら かくも現(うつ)しく 海ながら 然(しか)真(まさ)ならめ 人は花物(はなもの)そ うつせみの世人”
これは、伊藤博訳注による角川文庫版では、少しその表記が異なっていて、特に最後の一節が、” ・・・うつせみと人と”になっているのは、少し気にはなるが、それでも全体の歌の意味が変わるほどではなく、これも自分なりに解釈してみると。
”高い山と海を見てみると、山はこのように目の前に厳然としてそびえ立ち、海もまた本当に豊かに目の前に広がっている。しかし人間は、咲いては散る花と同じようなものだ。セミの抜け殻のように移り変わるこの世の中に、はかなく生きているだけで。”
なんという、自然の景観、現実の情景を前にしての無常観だろうか。
もっともそれだけに、高い山の姿や大きな海の広がりが目の前に見えるようでもあるのだが。
こうして、私のような浅学の徒が、思いつきのままの言葉を並べるのは気がひけるのだが、あくまでもこれは私の日常の思いをつづっただけの、個人的な日記としてのブログ記事なのだから、ともかく感じたことを書いておくことにする。
今まで言われているように、”日本の無常観”は、何も平安後期から鎌倉時代前期の”隠者文学”などに端を発したわけではなく、さらには仏教伝来以後の日本の仏教的無常観としてはぐくまれてきたわけでもなく、もののあわれ、はかなさは、昔の人々でさえも普通に感じていた、人間の持つ普遍的な感性の一つではなかったのだろうかということである。
時代は変われども、泰然自若(たいぜんじじゃく)としてそびえ立ち、広大に広がる変わらぬ大自然と、ここを盛りに今だけ咲いては散ってしまう、人間のはかない生の営みはと、誰しも感じていたのではないだろうか。
そこで私が、数十年もの長きに及んで山に登り続けているというのは、つまり、相変わらず今もなお、私だけの山岳信仰のただ中に居続けているということであり、私自身が”人は花物そ”という意識を強く持っているが故に、その”アンチ・テーゼ”(反命題)として、ゆるぎない自然に心服しているということになるのだろうか。
そう考えれば、この弱い存在としての私が、自分ならではの思いのまま、確かな存在としての山に通い詰めることになったのだと理解できるのだが。
と言って、今、もう一月以上も山には行っていない。雪はないし、花はないし。
栃木県那須では、冬山登山研修中の高校生たちが、雪崩によって大量遭難してしまったとのことだが。
せっかくの山好きな子供たちが・・・まだまだこれからいくらでも、素晴らしい山の世界を知ることができただろうに・・・あの若さで・・・。
庭の満開のウメの花が、散り始めた。