ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

それぞれの日の趣(おもむき)

2017-03-13 22:43:21 | Weblog



 3月13日

 三日間も、快晴の日が続いた。
 昨日は、風もなく、午後には薄雲が広がったものの、気温は15度くらいにまで上がった。
 例年よりはずっと早く、一週間前にちらほらと咲き始めたウメの花が、ここにきて一気に花開いた。(写真上)
 かすかに漂うウメの香り、そして何よりも、あたり一面を冬から春へと変えてくれる、心はずむような花々の明るい眺め。
 ”春はいいよなあ、春はいい”と言いながら、テレビ画面に出てくる、あの”変なおじさん”が浮かれ出す気持ちも、わかるというものだ。

 こんなに天気が続けば、山歩きには、もってこいの日々だったのだが、どこにも行かなかった。
 特に最初の快晴の日は、その二日前に雪が降っていて、このシーズン最後の雪景色になるだろうから、とも思ったのだが、その雪が降った次の日は、午後からようやく少しずつ晴れてはきたが、まだ雲も多くて行く気にはならず、その翌日の、朝から快晴になった日には、ネットのライブカメラの映像で見ると、それまでの雪が半ば溶けてしまっていて、その上に週末と重なって、とてもあの雪解けの後のぬかるみの縦走路を、他の登山者たちとともに、行列をなして歩いて行くなどとてもできないと思ったのだ。

 しかし、こんな天気が続く日に、家に閉じこもってはいられない。
 それは町に住む人が、休日の天気の良い日に、家にじっとしていられずに、街中に出かけていくのとは少し意味が違う気もする。
 つまり、田舎に住む私は、町に出かけたくなるのではなく、ただやみくもに、目の前の坂道を登って行きたくなるのだ・・・周りの木々や山々を眺めながら、青空の下を歩きたくなるのだ。

 思えばその昔、二足歩行になった人間は、いつしか時とともに、そのこざかしい知恵を働かせては様々な器具を作り出し、狩猟採集の食糧調達の日常労務から少しずつ解放されるようになり、楽することを覚えては、歩くことの必要性も次第になくなってきて、今では、それまでの歩きのほとんどを、何らかの交通機関に頼るようになってきているのだが、それでも、そんな人たちにでも体の本能が呼びかけてくるのだ、もっと歩きたくはないかと。
 そんな人間の一人である私は、その晴れた日に、はたしてむっくりと起き上がり、のっそりと外に出ては、家からの道を歩き始めたのだ。
 いかにも、原始時代のDNAを受け継いだであろうと思われる、少し恐ろしくいかめしい顔つきと、胴長短足の大きな体を動かしながら・・・。
 はい、いつもの往復1時間はかかる、坂道歩きに行ってきたというだけのことではありますが。

 気持ちの良い青空の下、そんな長歩きの途中で、まだ冬木立のままの樹々や遠くの山々を眺めながら、ふと思ったのだ。
 今こうして、つらいながらも、自分の足で坂道歩きができるという幸せに、そして、こんなどうでもいいような、じじい一人を生かしてくれる、すべてのものにただ感謝する他はないと。
 その時、下のほうから町役場のサイレンの音が聞こえてきた。
 長く鳴り続くその音のまま、私は頭を垂れていた。
 2万人近くの人々が、あの一瞬の大地震と大津波と火災によって亡くなってしまったのだ。
 それぞれの人々の未来が、その時の時間のまま一瞬にして、断ち切られた瞬間だったのだ。

 もちろん、そうした自然災害だけでなく、日々絶えることなく、人の命は失われている。
 病死、事故死それぞれに、無念の時が無慈悲に終わりを告げるのだ。
 さらには、自ら自分の命を終わらせてしまう人もいて、その中には多くの高齢者たちもいる。

 なぜ、そうした自殺者たちについて考えるようになったかというと、このブログでも、たびたび書いてきたように、私は若いころに、多少ともに行動主義と呼ばれる文学の世界にひかれ、特にあのアンドレ・マルローの哲学的な死生観にかぶれていた時期があって、さらにはミーハー的にも映画『アラビアのロレンス』にひかれていたこともあって、ついにはオーストラリアの砂漠をバイクで走るということまでも企て実行したのだが、すべては若き日のただ狂熱的な思いからであって、今にして思えば、まさに”若気の至り”というべき無分別な若者の思いつきにすぎないのにと、振り返ることができるのだが。
 ただ、その時を含めて、さらには子供のころに川でおぼれたり、その他様々な死のふちに立たされた思いをしてきて、それらによって、より一層に生きているありがたさを感じてきたのだが、それだけに、この新聞記事にあるような、生きていることの対極にある自殺者のことを考えてしまうのだ。
 それも自分が年を取ってきて、死ぬことが現実味を帯びてくると、余計に今生きているありがたさを、”存在と時間”として意識され、それでもいつかは来る、終局の時を考えないわけにはいかないのだ。
 
 そこで、十日くらい前のことだが、ふと目をとめた新聞の日曜版の記事が、その後もずっと気になっていたのだ。
 それは、”高齢者の犯罪が社会的孤立を背景に急増”という見出しだった。
 もちろんその犯罪は、窃盗などの微罪のものがほとんどだということだが、併せて高齢者の犯罪件数そのものが増えているということだった。
 そのことはともかく、私が気になったのは、昔の新聞連載漫画から当時の世相を解説していくという、その欄の趣旨からの、高齢者犯罪の前置きとして、当時の敬老の日の問題として、その社会面が載せていた二つの記事についてである。

「78歳の女性が、孤独から家出し、故郷の山中で自殺した」
「68歳男性は、当時の厚生大臣あての手紙で訴えた。老後保障がなく自由も楽しみもない生活では、罪を犯す可能性もあり、死ぬより道がありません、と」
(このガス自殺した男性の枕元には、以上の厚生大臣あての手紙が残され、さらには福祉施設へ送ってほしいと、当時の一万円の聖徳太子のお札二枚が同封されていたとのこと。)

 今から50年も前のことで、今の社会情勢と比較すれば大きく違う点も多いのだろうが、いずれの場合も、身につまされることの多いあまりにもつらい出来事である。
 私はもちろん社会学者ではないし、それほどの分析できるだけの知識も持ち合わせてはいないから、細かく言及することは差し控えたいが、いずれの事件についても、私が考えたのは、前回少し触れたように、”死ぬための生き方”についてである。

 まず、故郷の山中で自殺したとされる高齢女性については、余りにも胸の痛む事件ではあるが、死ぬ時のことを思えば、私にも共感できる部分はあるのだが。
 それは、周りの人に迷惑をかけずに、故郷の土に還(かえる)ことであり、前回、その事件をさらに発展させる形で考えて書いてみたのが、誰にも見つからず雪の山中で死ぬことは、その点では彼女の思いと重なる部分があり、まさに”間際になっておびえて死ぬ”よりはという、”今を生きるための死に方”であるといえるのかもしれない。
 さらに言えば、昔の甲州地方の貧しい山村では、冬を迎えるころ、食いぶちを減らすために、高齢に達した肉親を山に担ぎ上げては置き去りにしたという、あの”楢山(ならやま)まいり”と呼ばれる”姨捨(おばすて)”伝説があったとのことで、この事件は、そのことを思い出してしまうのだが。
 (詳しくは木下恵介監督による1968年の映画『楢山節考(ならやまぶしこう)』参考のこと。この映画では、老母役の田中絹代と息子役の高橋貞二の演技に泣かされる。舞台は信州の姨捨山と誤解されているが、実際は原作者、深沢七郎の故郷、甲州山梨県の口承伝説だとのこと。)

 次に、68歳の男の人の自殺の場合は、自分が次第に老いてゆくのに伴い、行く末の悲惨な環境が思いやられてと書き残しているが、それはまさに信義を重んじた儒教道徳に基づく、”サムライ”としての死、つまり今の時代にはあり得ない”自決”ではなかったのかと、思ってしまうのだが。

 もちろん、私はこの二つの死を、心情的には理解できても、積極的に理解することはできない。
 そこには、50年前という時代背景があったにせよ、もっと他に、”いつかは来る死のために、積極的に生きる生き方”があったのではないかと思うからだ。
 そんな希望の存在があることを、私に再認識させてくれたのが、ここまでたびたびその名前をあげてきた、『死ぬための生き方』(新潮45編 新潮文庫)の中の一編からの、スイスの宗教哲学者・ドイツ文学者でもあり、日本の上智大学教授も務めた、トマス・インモース(1918~)の言葉である。
 
「美しき宇宙万物、文学・美術・音楽といった人間文化の価値を感得させてくれた私の生命を、私は愛する。その生を、ゆっくりと楽しむ。死の時まで少しも急ぐつもりはない。死は明日、突然訪れるかもしれぬ。それも構わない。今の今、生を存分に経験し、楽しんでおれば、死を怖れる必要はなかろう。」

 今から二十数年前、この一文を見つけた時から、数ある人生の先達(せんだつ)者の一人の言葉として、それは私の心に深く刻み込まれてきた。
 私は、彼の愛した分野のどの一つにおいても、足元にも及ばない理解と知識しかないし、ただ無芸のまま、駄馬(だば)の大食で、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねてきただけに過ぎないが、しかし逆に言えば、一芸に秀でることができなかったために、様々な分野に手を伸ばし、わずかながらでも、それぞれの世界をかいま見ることができたのも確かだ。
 それだから、年を取ってきた今、もちろんそれまでに私が失ったものも多いが、変わらずに残っているものも数多くある。
 それは、彼が上にあげたものと重複する分野のものばかりで、そこに人生の先達者の言葉としての、これから先の私の人生の、ある種の光明になりうるものかもしれない。
 
 学ぶことは、いくつの時からでも、いくつになってからでも、早すぎる遅すぎるということはなく、それがどれだけ広く浅くて、ただ触れただけのものであっても、年寄りになってからの、感興を引き出す”よすが”の一つとなりうるものなのだと、今にして思うのだ。
 もちろんできるならば、一芸に秀で、世の中に名を残す人たるべく”功成り名遂げた”ほうが望ましいことは当然のことだが、そうではなかったその他大勢の一人であったとしても、何も後悔することはないのだ。
 そのために、かくも広大な、自分だけの世界を持つことができたのだから。

 と、あくまでも”能天気”ではなく、ひとりよがりな”脳天気”なままにと、私は考えてみるのだった。
 とかく、世の中も自分自身も、なるようにしかならないのだから。
 "Que Sera Sera ,Whatever will be,will be・・・”と明るく歌う、あのドリス・デイの歌声が聞こえてきそうだった。
(1956年のヒッチコックの映画『知りすぎた男』の主題歌で「ケ・セラ・セラ」(なるようになるさ)として歌われて大ヒットしたものである。) 
 
(この後に続いて、昔よく聞いたドリス・デイの歌、彼女がスィングバンドの専属歌手だったころの大ヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」や その後の映画主題歌ヒット曲などを書き並べた後、同じように「ジャニー・ギター」が大ヒットしたペギー・リーのことについても、ジャズ・歌手として「ブラック・コーヒー」などの名盤を残しているなどと、昔を懐かしんでひとくさり書いていたのだが、その1時間余りの文章を私のキーボードのタッチ・ミスから一瞬にして消してしまった。もう、こんな遅い時間に書き直す気力はない。ドリス・デイやペギー・リーの話はいつかまた別な時に思い出したら書くことにしよう。)

 一昨日は、見事な十三夜の月が、明るく庭の木々を照らし出していたし、昨日は薄雲が広がるの中での、見事なおぼろ月夜だった。
 そして今日は、一日雨模様だったが、久しぶりに雨の音を聞いた気がする。
 それぞれの日に、それぞれの夜に、何かしらの趣(おもむき)があるものなのだ。