ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

反芻する山々

2017-03-06 22:55:52 | Weblog



 3月6日

 晴れた日には、暖かい日差しに満ち溢れていて、ああさすがに3月の春になったのだと思うし、それでもこの二三日のように、曇り空で気温が上がらずに、ストーヴをつけている部屋から、窓の外の冬木立を眺めていると、まだ早春なのだとも思う。
 週に一度、買い物に出かける以外は、どこにも出かけずに家にいて、たまに散歩をしたり、少し庭仕事をしたりするだけの日々だが、それでもやりたい机仕事はいくらでもあって、とても退屈するどころではない。
 ただ山には行きたいのだが、さすがに九州の3月の山では、淡雪の山や霧氷の樹々を見ることはできても、この冬2回しか行くことのできなかった、あの九重の雪山ような雪景色(1月30日、2月6日、2月14日の項参照)を楽しむことは、もう難しくなっているのだ。
 かと言って、新緑が始まるまでにはまだひと月以上もあるし、それまでの相変わらずの冬枯れの木立があるだけの山には、あまり行きたいとも思わはないのだ。

 そこで、この年寄りの得意にするところだが、昔行った思い出の登山をと、写真を見ながら回想してみることにした。
 以下は、10年以上も前のことだが、冬も北海道で過ごしていたころ、ちょうど今の時期に、日高山脈は野塚岳西峰(1331m)の南西尾根にひとり挑んだ時の記録である。

 北海道の中央部には、あの有名な大雪山や十勝連峰に石狩連峰などの山々があるが、日高山脈はその中央高地とは離れて、北海道の下半分をまるで背骨のように分けている一大山脈である。
 150㎞にも及ぶその長さは、北アルプスや南アルプスにも匹敵し、標高は1000mほど低くはなるが、高緯度にあるために厳しい高山環境の中にあって、過去の氷河遺跡ともいえるあのカール(氷蝕崖)地形をいくつも見ることができる。
 そうした一大山脈の中には、名山と呼べる山がいくつもあるのに、交通の便が悪く、アプローチに余分な時間がかかるだけでなく、登山道が整備された山が少なく(それでも多くなったほうだが)、手軽に登ることはできない中上級者向きの山も多く、その上に、北海道全域でもそうなのだが、この山域にも、体長2m体重200㎏以上にもなるヒグマが数多く生息していて、その姿を見ることもまれではないし、それら様々な要因が重なって、一般的な山登りの対象としては敬遠されてきたのだ。

 さらには、あの有名な深田久弥氏選定の”日本百名山”には、わずか日高幌尻岳(ぽろしりだけ、2052m)の一座だけが選ばれているだけで(私としては、他に数座の山をあげたいところだが)・・・しかしそれらのことが、逆に言えば、この日高山脈を、あの世界遺産である知床連峰以上の、知る人ぞ知る秘境の山域にしてくれたのである。
 私が、北海道に住みつきたいと思ったのは、その自然環境や景観もさることながら、この原始性あふれる日高山脈の山々を日々眺め、さらにはそれらの山々に登りたいと思ったからだ。
 日高山脈について書いていけば、一冊の本になるくらい書きたいことはいろいろとあるのだが、今のじじいの私には、せめて時に触れてあの時の山をと、思い出すだけでも十分なのだ。

 この日高山脈の、雪山については、単独行の私では、とてもテントを担いでの核心部の主峰群などは無理な話で、せいぜい、ゴールデン・ウイーク前後の雪が安定し、温かくなったころのテント山行が関の山なのだ。(もっとも、日高山脈冬季全山単独踏破の記録は、今までに数回残されているが、いずれの冬山熟達者たちによるものである。)

 さて、3月上旬のこの時期に、野塚岳西峰(1331m)の南西尾根を選んだのは、それなりの理由がある。
 20年ほど前に、十勝地方と日高地方を最短距離でつなぐ”天馬街道(てんまかいどう)”と呼ばれる国道が完成し、その最深部にある山脈直下を通る野塚トンネルができたおかげで(自然破壊の声も上がってはいたが)、その南北の出口から、日高山脈主稜線上の南日高の山々に取り付くのが飛躍的に楽になったのだ。
 つまり、北にはトヨニ岳(1531m)を経てピリカヌプリ(1631m)やソエマツ岳(1625m)に、南には野塚岳(1353m)を経てオムシャヌプリ(1379m)や十勝岳(1457m)さらには楽古岳(1472m)へと、それまでの長い林道歩きを省いて、縦走することもできるようになったのだ。
 それらはいずれも、雪が安定してきた4月から5月にかけての時期が一番歩きやすいのだが、夏期にも稜線上の藪が多いながらも踏み跡は続いていて、苦労はするが縦走することもできる。
 もちろん夏は沢登りによって山頂を目指すのが普通であり、北側のトヨニ岳、南側の野塚岳、オムシャヌプリ、十勝岳へと十分に日帰りで楽しむことができる。

 しかし、冬の積雪期では状況が全く変わってしまう。
 日帰りだから、自由に登る日を選べる私は、もちろん天気が続く時を選べばいいのだが、それ以上に重要なことは、雪の状態が安定しているかどうか、さらには気温の上昇による雪崩の危険などを頭に入れて、ルートを考えなければならないないことである。
 そこで、2万5千分の1の地図を見ては、登れそうな尾根のルートを探すのだ。
 もちろん人気のルートには新旧の足跡がついていることもあるが、私はそれまでに見たことのある尾根などをさらに地図で確かめて、直接出かけて行ってみることが多かったのだが。
 もちろんその時は、名のある山の頂上にこだわる気はなく、尾根上部の見晴らしのきく所まで上がれば十分であり、取りつきが楽で雪崩の起きにくい尾根であれば(そのぶん稜線上の雪庇”せっぴ”に注意が必要だが)、そんな尾根はないかといつも地図を見ては楽しみながら探していたのだ。

 そして、この時のルートはそうして自分で見つけたのだが、野塚トンネル南側出口からすぐに取りつく支尾根で、そのまま西に向かって上がり、野塚岳西峰の南西尾根とこの支尾根都の分岐点になる1120m標高点から、さらに西に南西尾根をたどり1192m点へ、そして雪の状態が良ければさらにその雪尾根をたどって、この付近の前衛の山々の中での最高点である、1233m標高点まで行くことができるのではと考えたのだ。
 ともかく、この1120m標高点から1233m点までの長い尾根のそれぞれのピークからは、十勝側に住む私にとっては、あまり見ることのできない日高側からの眺めであり、おそらくは日高山脈南部の神威岳から楽古岳までが見えるはずなのだ。
 ちなみに、日高側からの日高山脈の眺めは、やはりあのピセナイ山(1028m)からの大展望に勝るものはないだろう。
 他にも、イドンナップ岳(1752m)からの中部日高主峰群の眺めも素晴らしいが、高山植物で有名なアポイ岳(811m)からの日高山脈は、少し高度が低すぎて前衛の山々がじゃまになり、今一つすっきりとは見えない。
 
 さてその日の朝、快晴の空と日高山脈の山々を確認して、家を出た。
 まずは大樹(たいき)の町を過ぎたあたりから見える楽古岳と十勝岳の姿だが、何度見てもこの辺りで写真を撮ってしまいたくなるのだ。(写真上)
 この十勝岳の先、この主稜線の右手にオムシャヌプリという山があるのだが、その双子山(ふたごやま)を意味するアイヌ語の山名は、当時、この楽古岳と十勝岳が相並んでいる姿を指して言ったものだともいわれている。

 マイナス10度ほどの気温の中、天馬街道の山間部を上がって行く、道はもちろん全線圧雪アイスバーン状態だが、道南から道東を結ぶ幹線国道だから、時々大型トラックなどの対向車もやってくる。
 長い野塚トンネルを出て、すぐの所にある駐車場にクルマを停め、登り始めたのは9時過ぎだった。

 取り付きの急斜面は、ひざ下までの雪がゆるんでいて、時々はまり込みながらもジグザグにステップを切って登って行く。
 手には登山用ストックを持ちザックにはピッケルを差してはいたが、靴は冬山用のプラスティック・ブーツにアイゼンをつけただけだ。
 この日高山脈の雪山では、何度かスノーシューを試してみたのだが、ゆるやかな勾配では確かに有効だが、急斜面ではかえって足の抜き差しに苦労してしまい、結局、足の下の地面を確実にとらえるアイゼンのほうが、厳冬期の尾根の柔らかい雪にも、もちろん凍り付いた尾根の雪にも対応できるからと、もっぱらアイゼンだけで対応してきたのだが。
 もっとも、北海道の冬山に登る人たちは、スノーシューや山スキーのほうが効率的だという人がほとんどなのだろうが、ともかく私は山スキーはおろかスノーシューでさえ、ザックにつけて歩くあの邪魔くささと重さには耐えられなくて、だから当然、軽いザックでの日帰り雪山登山になってしまうのだが。

 尾根は先のほうで少しはゆるやかになり、まばらに生えたダケカンバやミズナラなどの気持ちの良い登りになる。(写真下)


 雪は、ひざ下まで埋まり、自分が登るだけだから、ラッセルというほどではなくいわゆる”つぼ足”と呼ばれる登り方なのだが、何度も立ち止まり息を整える。
 そして目の前に、広い雪の急斜面が現れた。
 数十メートルの間、木が一本も生えていない。
 もちろんそれは、単なる土壌流出斜面なのかもしれないが、または、よく雪崩の起きる斜面だからということもありうる。
 少しは木の残っている、斜面の右側をキックステップで靴を蹴りこんで登って行く。
 途中の木のそばで、足場をならし腰を下ろせる場所を作って、何度目かの休みを取った。
 もう登り始めて3時間余り、12時を過ぎていた。
 登ってきた、尾根の斜面の向こうに、十勝岳が見え、その右手にはアポイ岳方面と日高側の海が見えていた。
 しかし背後の空は、くっきりとした青空ではなく、気温が上がってきたためか少しかすんでしまっていた。

 こんな誰も登らないような山の、まして記録としても残っていないような雪山の尾根で、もし何かが起きて、転落や雪崩に巻き込まれたとしても、助けを呼べる手立てもなく、ただひとり気づかれることもなく、ここで死んでしまうのかもしれない。
 雪が溶けて、私の遺体は、やがて鳥や獣(けもの)たちのエサになって、骨だけが残り、やがて長い時を経て上に着ていた衣類もボロボロになり、枯葉に埋もれ、いつしかただの山の斜面の一部となってしまうことだろう。
 しかし、そんな後のことまでは、私の知ったことではない。
 意識のある生きている間までが、私の生きた時間なのだから。
 私は、いつ来るともわからない死に、恐れおびえているわけではない。
 ただ生きている間の時間を、しっかりと意識して過ごしたいだけなのだ。
 
「神さま、
 あなたは私を人界に呼び出しなされた。
 それで私は参りました。
 私は苦しみ、私は愛します。
 ・・・。
 私は私の道を行きます。
 子供たちに冷笑されながら、
 頭を下げて重荷を背負った驢馬(ろば)のように。
 あなたのご都合の良い時
 私はあなたのみ心のままの所へ参ります。

 寺の鐘が鳴りまする。 」

(『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫)

 私は、目的地点に到達できないまま山を下りることにした。
 トンネル出口の クルマを停めた所が540mで、今いる1000m余りの所まで3時間もかかっているし、少なくとも1120m点まではまだ1時間はかかるだろう。 
 さらに晴れてはいるが、このかすんだような空模様では、おそらくは遠くの見通しはきかないだろうし。
 ただ、雪山をひとり登って行く楽しさは十分に味わったことだし、今日は、もう一度このルートで登るための、偵察のためだったと思えばいいのだ。
 
 ”帰心矢の如し”の例え通りに、帰りは一度立ち止まっただけで、なんと1時間余りで駐車場まで戻ってきた。
 こうなると時間に余裕がある。
 戻って行く道とは反対側の、日高側の翠明(すいめい)橋のパーキングまでクルマで下りて行って、そこから、双耳峰(そうじほう)の野塚岳本峰と西峰が並んでいる姿を写真に撮った。(写真下)
 
 

 このパーキング場所は、実は周りの山への良い起点になるのだ。
 つまり、ここから南側の目の前にある西尾根に取り付けば、十勝岳への冬期登山ルートになるし、さらに沢を少し行って左の尾根に取り付けば、これまたオムシャヌプリへの冬期のルートになるし、夏にはそのオムシャヌプリや十勝岳への沢登りの入渓点にもなる。(野塚岳への沢登りは、先ほどのトンネル出口から、すぐ下の沢に降りればいい。)

 再び戻ってトンネルを抜け、天馬街道を走り、途中の温泉でゆっくりと冷えた体を温めて、家に戻った。
 その日の登山は、目的のピークにもたどり着けず、明らかな失敗登山だったが、私の気持ちは、それでも久しぶりの雪山を楽しめたし、何よりあの温泉の温かさで、すべてが包まれ心穏やかになり、その日をいい気分で終えることができたのだ。
 
 この日から1か月半ほどたった4月中旬、私は再びこのルートをたどり、最初の目的であった、野塚岳西峰の南西尾根の途中分岐点である、1120mピークにたどり着くことができたのだ。
 そこからの、十勝岳の眺めたるや・・・また同じ時期になったら、年寄りの昔話の愉(たの)しみとして、ウシやラクダが後で二度噛みして食べるようにように、反芻(はんすう)する登山シリーズの続きとして、ここでとりあげたいと思う。
 
 今回はこの山の話から、あの『死ぬための生き方』(新潮45編 新潮文庫)の中の一編を取り上げて、二三日前の新聞に載っていた高齢者の犯罪と自殺について考えてみたいと思ったのだが、いつものように話が横道にそれて、とうとう最後まで書くことはできなかった。どのみちなんらかの形で、対処していかなければならない問題ではあるが。

 それよりも、何という衝撃的なニュースだろう・・・あの北アルプスなどの山岳救助でも有名な、長野県防災ヘリコプターの墜落で、乗っていた全員の9人が死亡したというニュース。
 あの2年半前の木曾御嶽山(きそおんたけさん)噴火遭難事件とともに、なんともやりきれない思いになってしまう。
 わがままに生きている私が、こうしたじじいになっても生き延びて、不思議にも生かされていて・・・。
 
「寺の鐘が鳴りまする。」 

 
  

 


  


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