ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪な踏みそね

2017-02-06 22:02:55 | Weblog


 2月6日

 二日前の夜から朝にかけて、かなりしっかりと雨が降った。
 真冬だというのに。
 確かに、季節を分ける”節分”が過ぎたのだから、これから季節は春へと向かって進んでいくだけなのだろうが、それにしても、繰り返し言うけれども、何と雪の少ない天気のいい日が続く冬なのだろうか、と思ってしまう。
 昔はこうだったと言う、年寄りのセリフじゃないけれども・・・ああそうか、もう自分も年寄りなのか・・・それはともかく、昔と比べれば格段に雪の降る日が少なくなり、ましてやその量もすっかり少なくなってしまった。

 昔は、一晩で50㎝近くも積もったことがあったし、道もずっと雪が溶けずに残っていて、その頃は、クルマのタイヤには鋲(びょう)を埋め込んだ”スパイク・タイヤ”で走っていて、確かに氷上停止能力は優れていて、冬の雪道には欠かせないタイヤだったのだが、いかんせん、雪の積もっていない道を走るときには、舗装道路を削っているようなもので、粉塵公害になるからと廃止されたのは当然のことだったのだが、そんな冬用タイヤをつけていても、一度ひやりとしたことがある。
 それはずいぶん前の話で、私が冬の九重に通い始めてまだ数年目かのころのことで、4WDではない普通乗用車の前輪にだけ(つまり駆動する側にだけ)スパイク・タイヤをはいて、例の牧ノ戸峠への山道を上っていて、大曲りのカーブを抜ける所でアクセルを踏んだところ、スピンして半回転し道路の中央でやっと止まったのだが、今ほどクルマの通行量は多くはなかったし、前後にクルマがいなかったから良かったものの、もし運悪く上下どちら側からか車が来ていれば、衝突は間違いのないところで、急斜面につけられた道なのでガードレールは取り付けられていたものの、突き破れば、急斜面の山腹を転げ落ちたことだろう。

 まあこれだけ長く生きていると、誰でもそうなのだろうが、今までに他のクルマにぶつけられたり、エゾシカにぶつかったり、自分で砂利道の下に落ちたり、接触事故を起こしたりという経験があるのだが、考えてみればこうして元気でいるということは、いずれも大した事故ではなく、幸いにもそのぐらいですんで良かったということなのだ。
 それは、相手や自分がもう少し注意していればと、いつまでも悔やんでしまうのか、あるいは、良くそのぐらいですんだものだと、もう一つタイミングが悪ければ重大事故になっていたのにと、おかげで運良く助かったのだと考えるべきなのか。
 それは、しばらく前に引用した、あのシェイクスピアの言葉(1月16日の項参照)そのままなのだが、要は考え方一つということになるのだろうが。

 ともかく、若いころには、年寄りがいつも”ああ、ありがたいありがたい”とつぶやいていたのを見て、そのぐらいのことで何がありがたいのかと、半ばせせら笑いをしていたものだが、自分がそんな年寄りの一人になろうとして、そんなありがたさにもようやく気がつくようになったのだ。
 つまり年を取ればとるほど、自分が生きてきた人生が、いかに幸運の連続で成り立っていたかを思い知らされることになるのだ。
 そこに、あのハイデッガーの『存在と時間』の理論を重ね合わせれば、死を意識することで残された人生を考え、確かな時間の持つ意義を知ることになるのだから、”ありがたや”とつぶやくことは、ごく自然な人としての思いなのだろう。

 こんなことは、若いころには考えもしなかったことだ。
 つまり、山も海も美しいし、朝日には感激し夕日には見とれてしまう。それは年齢に関係なく、誰もが感じることだ。
 しかし、ものの見かた一つで、それはどうにでも思いをふくらませていくことができる。
 若いころには、沈んで行く美しい夕日を見れば、そこには『緑の光線』(1985年、エリック・ロメール監督)さえも伴った、限りなく繰り返される希望の未来を見ることができたのだが、年寄りになると、その沈んで行く夕日は、その日を限りのものだけにひときわ美しく見えたとしても、ただその先にある暗闇の世界が気になるようになり、日が落ちて色青ざめた景色に、自分のドラマを見るような思いにもなるのだ。
 
 さて、いつも書き始めるとすぐに横道にそれてしまい、本題に取り掛かるのが遅くなってしまうのだが、今回は冒頭に掲げた写真からもわかるように、前回に続いて九重山登山の時のことなのだが、前回記事が長くなりすぎるので書ききれなかったことを、補足分としてここにあげておきたいと思う。
 それは、いつも雪山で思うことであり、前々回の地元の裏山登山(1月23日の項参照)の時にも感じたことであるが、雪面につけられた先行者たちの足跡についてである。
 上の写真は、前回の九重登山の帰り道で、長者原の展望地点(約1000m)からの、シデ原湿原を前にして、その向こうに鎮座する名前通りの三俣山(みまたやま、1745m)を望んだものであり、右手には硫黄山の噴煙が上がっている。

 ただしこの写真をよく見ると、右端の雪面に足跡がついている。
 私はできることなら、この足跡を入れたくはなかったし、このカヤトの原の一面に広がる雪面だけを前景に入れての、絵葉書写真を撮りたかったのだ。
 雪面の写真を撮るときには、なるべくならばその雪が降ったままの自然な状態で撮りたいと思っているから、すでに雪面がいくつもの足跡で荒されているような所では、あまり写真をを撮りたいとは思はないのだ。
 もっとも、今までもこの場所で何度も写真を撮っていて、ある時は、この写真の中央部のあたりにまでいくつかの足跡がつけられていて、仕方なく雪面を少しだけしか入れられずに写真を撮ったことがあったくらいだから、その時からすれば今回は、まあ何とか青空、雪山、雪原の三点セットの絵葉書写真になったとは思っているのだが。

 この雪面の足跡については、前回の九重登山の最中にもあちこちで見たのだが、それは、せっかくできた風紋やシュカブラ(エビのしっぽ)などを、わざわざわき道にそれて踏みつぶしたり、ストックでこわしたような跡が目についたことである。
 彼らにとっては、冬の朝、子供たちがよくやるような、霜柱を踏みつけたり氷を割ったりするのと同じような、何の意味もない遊び半分のことなのだろうが。
 それだけに、前回も書いたことだが、あの久住山から下りて中岳への道に向かう途中の、小さな高みの所で撮った写真は、そうした足跡を気にしないでカメラを向けることができて、実に良い気分だった。(写真下、振り返って久住山を望む。)



 私は何も、雪面につけられた足跡のすべてが良くないと言っているわけではない。
 むしろ、雪山での足跡は、先行者がつけてくれたラッセル跡として、大いに助かるものだし、残雪期の山で道が消えている所での足跡は、何日か前のかすかなものでも大きな目印にもなって、ありがたいことこの上もないものだ。 
 ただ私は、降り積もった雪面や、自然の雪氷造形を見るのが好きだというだけのことなのだ。

 こうした雪の見方は、何も私だけのわがままな思いではなく、昔の人もそう感じていたのだろうし、確かあの『万葉集』の中でも見たことがあると思って、調べたのだが、昔の文庫本には鉛筆で当時、気になった歌の所に鉛筆で印をつけていたし、全20巻もある『万葉集』だが、その内容から大体の巻数の予測はつくし、そう難しい作業ではなかったのだが。
 第十七巻から第二十巻までは、そのほとんどが、この『万葉集』の最終編者ともいわれている大伴家持(おおとものやかもち)の歌によって成り立っていて、それは彼の”歌日誌”とさえ呼ばれいて、『万葉集』の中では群を抜いて歌数が多く、併せて470首もの歌が収められているのだ。
 そのところが少し気になるし、不偏不党的な『万葉集』にしては、いささか手前みそ的な選者だと言えなくもないのだが、しかし、それぞれの歌の完成度が高く、それもむべなるかなと思ってしまう。

 さて、その第十九巻の、天平勝宝二年の項の大伴家持の「雪の日に作る歌一首」の後に、同じ雪の歌として置かれているのが次の長歌である。
 それは、当時の左大臣藤原房前の言葉を受けて、三形沙弥(みかたのさみ)が作ったとされ、今も読み継がれている長歌とその反歌一首であるが、ここではその長歌のほうだけをあげておくことにする。

「 大殿(おおとの)の この廻(もとお)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 振りし雪ぞ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は 」(4227)

(左大臣の大殿の、屋敷の周りの雪は踏み荒らすではないぞ。そういつもは降らない雪だぞ。いつもは山にだけ降る雪なのだぞ。近寄ってはならぬ、そこの人、踏んではならないぞ、この雪は。) 

 さらに、大伴家持は この歌をよく憶えていたのだろうが、この歌の後で、天平勝宝五年正月の十一日の日付で詠まれた歌がある。
 前書きとして、「十一日に、大雪降り積みて、尺に二寸(約36cm)有り、よりて拙懐(せっかい)を述ぶる歌三首」とあり、その中から最初の一句を。 

「 大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね 惜し 」(4285) 

(大宮御所の内庭にも外にも、珍しく大雪が降り積もっている。その雪を踏みつけないように、あまりにもきれいで惜しいから。) 
 
(以上、『万葉集四』  伊藤博訳注 角川文庫参照)

 私が、むしろ好ましいと思った足跡がある。
 冬も、あの北海道の家に住んでいたころ。
 寒さもいくらかゆるんできた、3月初旬の夜明け前、それでもこの日は冷え込んでいて、-15度。
 裏山の雪の丘に登り、日の出を待っていた。
 まだ上空に月の残る、早暁(そうぎょう)の雪の丘に、一匹のキタキツネの足跡が続いていた。(写真下)