2月14日
また、強い寒波が西日本の日本海側を覆い、相変わらずの記録的な大雪になっているとのことだが、その余波を受けて北部九州でも雪が積もり、高い山々は再び雪化粧して白くなっていた。
山に行くとしても、雪の降った後の天気予報は曇りのち晴れで、今一つ気乗りがしない。
しかし、その翌日の天気予報は、晴れマークが多くなり、ここぞとばかりに出かけたのだが、そこまで天気や混み具合など考えに入れて実行に移しても、うまくいかないことはよくあることであり、今回の雪山歩きは、まさにその教訓に満ちていた。
それでも、幸せなひと時も感じることができたのだから、すべてが良くなかったというわけではない。
道は相変わらずの圧雪アイスバーン状態の所が多かったのだが、前回と同じように、飯田高原の広がりの向こう、霧氷に輝く木々のかなたに、九重の山々が並んでいる光景は、私のような絵葉書写真趣味の人間にとっては、全くおあつらえ向きの光景である。(写真上)
というのも、すぐそばに小さな川が流れていて、-10度くらいになると、その川から立ち昇る蒸気が近くの木々の枝については凍りつき、霧氷になるのだろうが、ちなみにほんの少し川から離れて立っている木には、もうほとんど霧氷はついていないのだ。
山で見られる霧氷や樹氷は、強い風とともに吹き付けられた水滴や雪粒が、風上に伸びていくいわゆる”エビのしっぽ”状の形であるが、この川沿いの平地にできる霧氷は、言ってみれば、白くまぶされた砂糖菓子のように、幹から枝の先にまで雪の結晶がぐるりと張り付いた霧氷なのである。
雨滴や水滴が0度前後の気温の変化によって、雪や氷に変化していくという、本来は水である物資の面白さ。
その千変万化の、雪の結晶の研究に一生を尽くした、あの中谷宇吉郎博士(なかやうきちろう、1900~1962)の気持ちがわかるような気がするのだ。
ここで彼の書いた『雪』や『中谷宇吉郎随筆集』(いずれも岩波文庫)の中から、いくつかの文章を引用して取り上げたいところだが、あの有名な鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜』(岩波文庫)とともに手元にはなく、北海道の小屋に置いたままで、残念ではあるが、話をこれ以上ふくらませることはできない。
ともかく、思い出すのは、あの北海道の真冬の雪であり、自分の服や手袋の上に結晶となって落ちてきては、そのままの形を保っている雪。
あのすべてが凍てつく寒さの中、雪に自分の足跡だけをつけて、ただ一人で白い息を吐きながら、あの雪原と青空のはざまを目指して歩いていたのだ・・・。
そして、九州の雪山を歩いている私。
前後に、人の声が聞こえ、さらに離れた後ろからは、10数人もの集団の甲高い声が聞こえている。
しかし、雪山の光景は変わらない。
遠くには阿蘇山や由布岳が見え、行く手の向こうには、三俣山から星生山そして扇ヶ鼻への広がりが続いている。
この縦走路の尾根越しに見る三俣山(1745m)の姿は、繰り返しどうしても写真に撮りたくなる、私にとっての条件反射的な光景ではある。(写真下)
ただ、少し気がかりなのは、青空にいくつも浮かんでいる小さな雲たちの動きである。
時々、その雲が山々に影を落としていた。
扇ヶ鼻分岐からは、そのまま久住山(1787m)や中岳(1791m)へと向かう主要縦走路と分れて、つまりあのグループとは離れて、星生山南尾根への道を行くことにした。
前回が、久住山だけだったから、今回は、天狗ヶ城から中岳へと向かうつもりでいたのだが、この星生山(ほっしょうざん、1762m)の道を選んだのは、一刻も早く静かな雪道を歩きたかったのと、もう一つは先ほどから明らかに増えてきた雲の広がりがあり、これでは青空が見えなくなってしまうかもしれないから、近い山にと考えたからでもある。
ただありがたいことには、このメイン・ルートから離れた雪道にも、しっかりと昨日のものらしいトレースがついていた。
数年くらい前までは、足跡がついていること自体が珍しく、純白の雪の斜面に自分の足跡をつけて登って行くのが楽しかったのだが、その思いは今も変わらいし、そのことについては前回書いたとおりであるが、この南尾根の岩場含みのそして吹き溜まりの所もある道には、誰かが通った跡のトレースがついていてくれたほうが、この年寄りにとって楽なことは言うまでもない。
そう思うようになったのは、私が年を取ってきたということなのだろう。(下の写真は、先ほどまでたどってきた縦走路からの星生山、手前の日陰になった尾根が南尾根。)
さて、そんな南尾根の雪道をたどり始めたのだが、楽しみにしていた西千里浜の平坦地を隔ててそびえ立つ久住山の姿を、雲が隠し始めたのだ。
それは、行く手の星生山から星生崎そして久住山 へと続く連なりの真上に、広く厚い雲が広がり下りてきては、時々それらの頂きさえも隠そうとしていたのだ。
灌木樹林帯を抜けると、吹きさらしの南尾根斜面になり、冷たい風が吹き付けてきて、耳や手先が痛くなるほどだった。
しかし、そんなことよりも、この斜面でいつも見られるシュカブラ(えびのしっぽ)や風紋ががっかりするほどに少なかったことである。
背景の山々が見えなくても、こうした雪氷芸術作品を見ることができれば、それだけでも大ききな愉(たの)しみになるのだが、今や星生山頂上さえも雲の中に隠れようとしていた。
その肩からは、東西に延びるなだらかな頂上稜線をたどって行く。
もう辺りは何も見えない、吹きつける風とガスの中だ。
その白いガスの中に、頂上標識の柱と何と数人もの人影のシルエットが立っていた。
あまり人に会うことのない、雪の星生山なのに、それもこんな天気の良くない時に、その上平日なのに、若い人を含めて7,8人もの登山者たちがいたのだ。
この星生山に登るルートは、意外に多く5本もあって、私のたどってきた南尾根ルートと西千里浜から直接頂上に向かうルート、それは途中で右に曲がって頂上の反対側の東側に出るものもあり、その岩塊帯の東尾根を星生崎から縦走してたどるもの、さらに昔は、反対側の硫黄山道路途中から山腹に取りつき、北側斜面をたどって行くものがあったのだが、この道は今では植生保護のために立ち入り禁止となって通行できなくなっている。
あまり風の当たらないところに座って20分近く待ってみたが、相変わらず白いガスの中で、晴れてくれそうにもなく体も冷えてきたので 、あきらめて下りて行くことにした。
いつもなら東側の岩尾根をたどり、周りの展望を楽しみながら、久住分かれの避難小屋に降りて西千里浜をたどりぐるりと回る周回コースをとるのだが この天気ではいかんともしがたい。
ただ途中から少しでも晴れてくれればと思い、元来た道の南尾根へと下って行った。
そして確かに、再び青空ものぞき始めて、雲の間に間に久住山も見えてきたのだが、雲が多いことに変わりはなかった。(写真下)
下に降りてきて、主要縦走路と一緒になり、後は三々五々に下りてきた人たちと、相前後して広い尾根の雪道を下りて行った。
沓掛山(くつかけやま、1503m)に登り返し、三俣山から星生山、そして小さく久住山がのぞき扇ヶ鼻へと連なる山々の上には、再び青空が広がり始めていた。
今ぐらいから登り始めて、夕映えに染まる山々を見て夕暮れの道を戻ってくるか、あるいは重装備をして避難小屋で寝て明日の朝焼けを見て戻るというのが、一番良いのだろうが。
しかし今や、腹鼓(はらつづみ)をなでながら家の風呂に入って、暖かいストーヴのそばでテレビでも見ながら、ぐうたらな夜を過ごしたいこのタヌキおやじには、到底無理な話であって、すごすごと引き下がり山を下りたのでありました。
しかし、今日は5時間ほどの短い行程で、あまり疲れなかったし、まあほどほどに雪山も見られたことだしと、見事な年寄りならではの妥協満足点を見出しては、クルマに乗ってわが家に向かったのであります。
ということで、今回の反省点は、まず天気について、予報で晴れと出ていても、弱いながら冬型の気圧配置が続いている場合、まして日本海側の松江で時々雪の予報が出ていたくらいだから、まだ北西の風が吹いていて、山沿いの所では雲ができやすことはわかっていたはずなのに、まして天気予報は、九州各県のほとんどが海沿いにある県庁所在地の都市部の天気予報であり、山間部の予報ではないということを、また改めて知らされた想いがするのだ。
そして集団登山客に会わないためには、これはその時の運、タイミングの差でしかないのかもしれないが、30分でもずれていればあまり気になることもないだろうし、もっと朝早くに出発するか、それとも、あの秋の紅葉の山のように('16.11.12の項参照)、誰も行かないような山に行くかだが・・・。
それにしてもこの冬の雪山は、2度も頂上付近での天気が良くなくて、すっきりと晴れた雪山歩きを楽しめたのは、前回の久住山(1月30日の項参照)の一回だけとは・・・そしてこの九州での雪山は、もう一回行くチャンスがあるかどうかということで。
それならば、いつもの本州の雪山遠征へ行けばいいのだが、それも今まではすべて大成功(’14.3.3-10の項参照)だったのだが、こうした半ば失敗の登山もあるし(いつも言うように頂上からの展望が得られなかった山は私にとっては失敗登山であり)、それがそろそろめぐってくるのではないのかと、年寄りの疑り深い目で見ると、タヌキ腹でぐうたらに風呂につかっている、タヌキおやじの間抜けな顔に重なるのだった。
それではこの辺りで”ドロン”させてもらいますと、古いカビの生えたギャグを言いながら・・・あーヨイヨイと。