12月19日
数日前、朝起きてみると、外は一面真っ白になっていた。
冬になったのだ。
雪は、夜中に降ったのだろう。
できれば、その降っているところを見たくもあったのだが。
積雪は1~2㎝で、昼過ぎにはあらかた溶けてしまった。
雪の後の週末は、土日と晴れ渡り、今シーズン初めての、九重の雪山を見に行くには絶好に日和だった。
しかし、予想するまでもなく、ライブカメラで見る牧ノ戸峠の駐車場は、朝早くから満杯になっていた。
やはり、この雪山を待ちかねていた人は多いのだ。
土日には出かけないことにしている私だが、この雪が降った後の山には未練があった。
その日は、たまたま用事があって、少し遠出をした。
その帰り道の途中、湯布院の”道の駅”の辺りで、ちょうど夕日が沈むころだった。
しばらく待って、雪の由布岳が赤く染まっていく姿を写真に撮った。(写真上)
この、見事な夕映えの山を見ただけでも、今日の山に行けなかった物足りない思いが、夕映え色の中で満たされていくようだった。
こうした山の姿を見ることが、私の幸せなひと時であり、確かに今を生きているのだと思うひと時でもある。
そして、あと何回見られるかどうかはわからないけれども・・・。
先日、北海道の友達からの電話で、近くに住む人が亡くなったいう話を聞いた。
年寄りになっていけば、どうしても周りの人々が、それはずっと年上の人たちだったり、たまには同年配の人たちが、次々に亡くなっていくのを聞くことになる。
すべて、人の世は順送りなのだから、当然といえば当然なのだが、その時、電話口の友達と思わず口にしてうなづいたのだが、それは、こうした話をできるのは、”俺たちが生きているからこそだよな” ということであり、これまた当然のことではあるが。
先日、ふと見たテレビだが、日テレ系の”秘密のケンミンショー”という番組で、取材スタッフがたまたま通りかかった年寄りのおやじさんにインタビューしていて、ふとおやじさんのはいているジャージーのズボンの前が破けて穴が開いているのを見て、注意してあげたのだが、おやじさんが言うには、”このズボンには、前に出し入れするところがついていなかったから、自分ではさみで切ったんだ。”
それは誰が見てもわかるように、破れたのではなく、あそこの部分のためだけにある穴であり、おやじさんは農作業中にシッコがしたくなったときに、ズボンを引きずりおろしてするのが面倒だからと開けたのだろう。
それは、私も、北海道の家の林で仕事をしていた時などに、経験することだからよくわかるけれども、私はむしろ手袋を外して、前のボタンを開けるのが面倒だから、むしろ作業着を下に引きずりおろして、用足しをするほうなのだが。
それにしても、前のほうが大きく破れたようなズボンをはいて、何食わぬ顔をして田舎道を歩くおやじさんの姿・・・しばらくは私も笑っていたが、ふと考えてみた。
田舎に住んでいれば、ほとんど人に会うこともなく、会う人は知り合いばかりだから、いつものような野良着で歩き回っていたところで、何の問題もないのだが、都会から来た人たちにとっては、日ごろからちゃんとした衣服を着て外出したり、仕事をしている人たちにとっては、それは全く異次元の世界の光景であり、都会ではホームレスの人たちぐらいしか見ることのない、ぼろ着のズボンをはいて、それも気にすることなく歩いている人を見て、思わず笑ってしまったのだろうが。
つまり、外見を気にせず、気楽に、しかし自分が住んでいるその地区のしきたりや決め事には縛られ、それでも助け合いながら、生きていく田舎の暮らしと、いつも知らない他人の眼を気にしながら、しかし自分の好きなように、厳しくも自由に生きていける都会の生活との違いなのだろう。
それは、どちらがいいとかいう話ではなく、自分の思いに合った生き方を選べばいいだけの話だが。
日本の人口統計を見て分かるのは、三大都市圏だけで日本の65%以上を占めている中で、さらなる都会への転入と農漁村部からの転出が続いていて、地方の過疎化がすすむばかりなのだが、それに札幌、仙台、広島、福岡などの大都市や地方中核都市、そして市街地が形成されている小さな市町村部分を除いた、集落からなる純農村部の人口がどのくらいになるのかはわからないけれども、おそらくは1%にも満たないのだろうか。
逆に、そんな農村部の面積は、日本の90%を超えることにもなるのだろうが。
つまり今、本当の田舎に住む人たち、それもおじいさんおばあさんたちは、都会の人たちから見れば、おそらくは”絶滅危惧種の日本人”になるのではないのだろうか、いい意味につけても悪い意味につけても。
はい、そして私もまたその”変なおじさん”ならぬ、”変な絶滅危惧種の一人”なのであります。
そして、私は、はさみで穴をあけたズボンは、はいてませーん。
ただ、ズボンを下げて、相変わらず立木に生の肥料を注ぎかけてはおりますが。
さて、前置きに書いたつもりの田舎の話がすっかり長くなってしまったが、今回は、少し前に、その詩の一節に触れたあのワーズワースについて書いてみたいと思う。
私たちの若いころ、友達の下宿先の部屋を訪れると、まずまっ先に目に入るのは本棚の本であった。
とはいっても、狭い三畳や四畳半の部屋やあるいは二段ベッドの寮の狭いコーナーには、本棚くらいしか置けなかったのだが。
そしてそこには、彼が専攻する専門書のほかに、いくつかの文芸書が並んでいて、その端の文庫本が並んだところには、必ず詩人のものが一二冊は並んでいたものである。
日本で言えば、高村光太郎(1883~1956)、北原白秋(1885~1942)、萩原朔太郎(1886~1942)、中原中也(1907~37)、宮沢賢治(1896~1933)などであり、外国で言えば、バイロン(1788~1824)、ハイネ(1797~1856)、マラルメ(1842~98)、ヴェルレーヌ(1844~96)、ランボー(1854~91)、アポリネール(1880~1918)などであった。
私は、中でも朔太郎や中也の詩に衝撃を受け、ランボーやアポリネールの世界にあこがれていた。
しかし、当時から今に至るまで、私が最も深く心打たれ繰り返し読んできたのは、今までにもこのブログで何度も上げたことのある、あのフランシス・ジャム(1868~1938)であり、その詩については、以前に書いたとおりであるが、当時は、また別な意味でもう一人、気になる詩人がいた。
イギリスの田園詩人と呼ばれるウィリアム・ワーズワース(1770~1850)である。
いっぽうでは、私はもちろん当時から山が好きで、山の本も読んでいたのだが、昔の日本山岳会の偉大なる先達(せんだつ)たちが書いていた山の本の中で、たびたびこのイギリスの詩人ワーズワースのことが触れられていて、それは田部重治(たなべじゅうじ、1884~1972)の山の随筆集か何かだったのかも知れないが、そのこともあって、あの新潮文庫の『ワーズワース詩集』を読むことになったのだ。訳者は、旧文語体(半分は現代文体)が印象的な、その田部重治だった。
しかしその時の印象は、田園詩人といわれているわりには、そのままの自然について書いている詩は少なく、むしろ田園抒情歌とでも呼ぶべき、イギリス伝統の”バラッド”(バラード、昔の悲しい物語歌など)の詩の流れをくむものが多く目についたのだ。
話は飛ぶけれども、後年出版関係の会社に入り、音楽、映画などの担当になって、新譜レコードなどは、サンプル(テスト)盤などで早めに聞くか、あるいは社員割引で安く買うことができて、確かに恵まれた音楽環境にはいたのだが、その時に聞いた一枚が、あの『明日に架ける橋』や『サウンド・オブ・サイレンス』『スカボロフェア』などで有名な、二人組の”サイモンとガーファンクル”のもう一人のほう、アート・ガーファンクルによる初めてのソロ・アルバム『エンジェル・クレア』であった。
その中でも、「悲しみのウィロー・ガーデン」とともに、私が強く惹かれたのは、古いスコットランド民謡からとられたという「バーバラ・アレンの伝説」であり、終わりの歌詞にある、”そして、もう二度と離れないように、二人の墓にバラのツルが巻きついていた”というくだりには、今でも泣かされるくらいだ。
悲しみの「ウィロー・ガーデン」のほうも、アメリカのカントリー・ウェスタンの古い曲だということだし、あのオリビア・ニュートン・ジョンの出世作「バンク・オブ・オハイオ」もそうなのだろうが、イギリス移民たちがアメリカに持ち込んだ、あの”バラッド”の流れをそこに見て取ることができる。
日本で、”バラッド”調の歌といえば、どうしても、昔の琵琶法師の語り謡(うた)いによる、あの「平家物語」のことを思ってしまうのだが、時代が下ると、”能”や”人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)などのように、演じる芝居のほうに力点が置かれるようになり、物語歌は”民謡”や”浪曲(浪花節)”のほうへと変化していったのだろうが、今では、民謡での、あの村田文三による、源平の戦いを歌った長編小説のごとく続く、「相川音頭(あいかわおんど)」なども、地元の盆踊りは別にして、テレビなどで全部通して歌われることはないし、私が子供のころには、まだラジオから流れていた浪曲も、今はNHKの伝統芸能紹介の一部でしかない。
しかし、日本の歌の中では、今日でもまだ、演歌の中にかなり色濃く物語歌の要素が残されていて、その意味では、あの星野哲郎(作詞)船村徹(作曲)の名コンビによる、北島三郎の「風雪ながれ旅」や、吉岡治(作詞)弦哲也(作曲)による、石川さゆりの「天城越え」などは、詩人が書いた見事な日本の”バラッド”歌物語だと思っているのだが。
最近の歌の中では、残念ながら日常恋愛の話し言葉ばかりで、心に残る物語詩を書けるような人は、つまり本当の詩人はあまりいないように思えるし、しかしそうした中で、作詞家として、AKB乃木坂グループのために現代の短編物語詩を書き続けている、秋元康は貴重な存在であり、私がAKB・乃木坂グループを好きなのは、そこに大きな理由の一つがあるからだ。
もちろん、若い人たちに聞いてもらえるような、今どきの言葉で、ダンスのノリで作る歌が主になるのは仕方がないところだが、それでもかつては、あの乃木坂の名曲「君の名は希望」や、AKBの柏木由紀がデュオで歌う「でもでもの涙」などのように、情景が目に浮かんでくるような名曲もあったのだ。
まあ好みは人それぞれで、そんな”辛気臭い”歌はイヤだ、今歌っている「ハイ・テンション」のようなノリノリの曲のほうが、アイドルたちの歌にふさわしいというファンたちがほとんどなのだろうが。
AKB・乃木坂グループを含めた今年の歌の中で、この秋発売され歌われたSKEの「金の愛 銀の愛」は私の好きな歌だったのだが、現実的にはAKBの新曲の100万枚超えはもちろんのこと、乃木坂や欅坂(けやきざか)の新曲の数十万枚にも遥かに及ばない数字だったとかで、W(だぶる)松井として盤石(ばんじゃく)だったSKEが、その一人の松井玲奈(乃木坂兼任が良くなかった)の卒業で、こうも勢いが弱くなっていくものかと、じいさんは名古屋SKEの孫娘たちのことを心配しているのだが。
まあ、上位メンバーたちがそれぞれ20代半ばになってきている、AKBや乃木坂でさえ、変革するべき時は迫ってきているし、今はどうしても、若くてかわいいし歌もうまくてダンスも踊れて、というまだ15歳の平手友梨奈(ひらてゆりな)がセンターに立つ、欅坂46に勢いがあるのは確かだし、それならば、今後のAKB乃木坂グループはどうすべきなのか・・・。
はたして、秋元先生の次なる一手はどうなるのかと、このじじいは、すべての孫娘たちの将来をば、ただただ案じるばかりなのですが。
あちゃー、ワーズワースのことについて書くつもりが、横道にそれてしまい、ついには最近書いていなかったAKBの話へと、つい勢い込んでしまって、すっかりまとまりのない、訳のわからない回になってしまった。
もっとも、こうした分裂気質的な思考回路こそ、誰にでももちろんこうして私にもあることであり、一筋縄ではいかない人間というもののいい加減さというべきか、凡人の考える所はそんなものであり、ついでにアホとかバカとかにまで落ち込んでいって、さらに進めば一周回って天才に?・・・そんなこたあー、ないない。
バカはバカなりに、一人でチョウチョウを追っているのが、よろしいようで。
そんなわけで時間切れ、ワーズワースについてはまた次回以降に。失礼いたしました。