ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

伐採作業

2016-09-26 23:24:56 | Weblog



 9月26日

 ようやく長雨の日々は終わり、夕焼けの空が見られるような季節になってきた。
 はっきりと、秋が来たなと思う。
 上の写真は、数日前の夕方の空だが、確かに、こうして写真に撮りたくなるほどの、それなりの夕景ではあったが、まだ日高山脈がシルエットになって、その背後の空が赤く染まるまでの、壮大な光景にはなってはいなかった・・・。
 朝から見えていた山々の稜線には、すぐに雲がかかり、そのまま夕暮れになって、その上に広がる西の空だけが黄金色に染まっていったのだ。

 決して、同じ色と形の光景にはなりえない、夕焼け空の・・・そんな写真を、私は今までに何枚撮ってきたことだろう。
 それらの写真をまとめて、スライドショーにして、このパソコンのモニター画面で見られるようにして、背後に小さく音楽を流すとすれば。 
 それには、私の好きなバッハの器楽曲なら何でもいいのだが、それを何百枚もの写真の分だけ、延々と繰り返しエンドレスにして流すのなら、ありきたりの選択になってはしまうけれども、やはりあの「平均律クラヴィーア曲集」からの第1曲や「ゴールドベルク変奏曲」の出だしの”アリア”などがすぐに思いつくのだが、あるいは、まさに天国的な安らぎに誘う、あの「管弦楽組曲」第3番の有名な”アリア”にするのも悪くはないし・・・つまるところ、終わりへといざなうような音の流れは、やはり聞きなれた静かな曲こそが、ふさわしいということだろう。

 ただし、ここで話している音楽は、何も私が死んだ後の葬式で流れる音楽のことについてではない。
 死んだ後のことなど、私のだらしない体がたとえ野ざらしになり、獣たちに食い荒らされ鳥たちについばまれようと、知ったことではない。
 まして、もう私の死後に聞こえることもない音楽のことなど、論外だ。
 つまり、ここで私が言っているのは、死にゆくときに、まさに臨死体験へと向かい、まだ耳が聞こえるときに、どこからか流れてくる音楽についてのことであり、そうであったらいいなと思う願望でしかないのだが・・・。

 そうした、年寄りが死にゆく際の音楽とは逆に、この世に生まれいづるシーンに流れる音楽はといえば、すぐに思い出すのが、名作『2001年宇宙の旅』(1968年)である。
 宇宙の神秘に触れるような、壮大な宇宙空間の影像の中で、月の地平の彼方から青い地球が昇ってくるシーンが映し出され、その背後に聞こえてきたのは、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)の管弦楽曲「ツァラトゥストラはかく語りき」であり、あの音の響きほど、この映像詩の世界にふさわしいものはなかったのだ。
 よくある”世界の名作映画ベスト”などでは、いつも上位に選ばれることの多い、この映画の名作たるゆえんは、もちろん原作以上に、鬼才スタンリー・キューブリック監督の手腕によるところが大きいのだが、一つには、それまでに見たこともないような宇宙空間での映像美(50年近くも前の映画とは思えない)と、それにふさわしい、今となっては他の音楽など考えられないような、古いクラッシック音楽のこの映画での新鮮な使い方にあったからだと言えるだろう。

 映画と音楽のかかわりについて書いていけば、もうきりがなくなってしまう、ましてその昔、映画の中で使われた主題歌やメイン・テーマその他の音楽を集めて、一枚のレコード・アルバムにしたほどの、いわゆる”サウンドトラック(サントラ)盤”が全盛のころには、名画に名主題歌の組み合わせが多く、当時のポピュラー音楽ベスト10をにぎわせたものだった。
 有名な作曲家をあげていけば、アメリカ大作映画時代のミクロス・ローザ(『ベン・ハー』『エル・シド』など)、モーリス・ジャール(『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』など)から、ヘンリー・マンシーニ(『ティファニーで朝食を』『ひまわり』など)、フランシス・レイ(『男と女』『白い恋人たち』など)、カルロ・ルスティケリ(『鉄道員』『刑事』など)、ニーノ・ロータ(『ロミオとジュリエット』『太陽がいっぱい』など)・・・次から次に、その映画の名シーンと音楽が聞こえてくる。

 新しい映画を見なくなって、もうかなりの年数がたつので、最近の映画音楽事情にはすっかりうとくなってしまったのだが、しかし私には、まだ若く多情多感な時代に見た、映画の音楽の思い出がいくつもあるから、それだけで、新しい映画を見なくても、もう十分だと思えるのだ。
 今の時代に生きる若い人たちは、スタジオ・ジブリやディズニー映画、そして絶賛上映中の『君の名は』などのアニメ映画とその音楽に夢中になっているようだし、再び私ぐらいの年になってまた、あの頃にはいい映画やいい映画音楽があったねと思い出すことだろうし、そうして時代は、人々の生きた時代の思いとともに流れていくのだろう。

 話が、すっかり横道にそれてしまったが、今回は映画『2001年宇宙の旅』で使われた音楽「ツァラトゥストラはかく語りき(こう言った)」から、もともとのニーチェ(1844~1900)著作物である『ツァラトゥストラはかく語りき』について、ほんの少しだけでも、ここで触れておきたいと思ったからでもある。
 20世紀の偉大な哲学者・思想家として時代を越えて屹立(きつりつ)する、このニーチェについて、私はここで論じられるほどの知識を持ち合わせてはいないし、その有名な著作物の幾つかを読んだだけにすぎないから、あまり断定的なことは言えないのだが、個人的な好みから言えば、その彼の考え方のすべてに納得できるわけではなく(人間はだれしも相手に対してすべての点において同意できるわけではないから)、その著作物を読むときには、いつも愛憎半(あいぞうなか)ばする思いでそのページをめくることになるのだ。

 その彼の作品の中でも、最も有名であり高い評価を受けているのが、この『ツァラトゥストラはかく語りき』であり、その中でも私が昔から納得し深く同意していた箇所があり、今回ふと気がついて、再びページをめくる気になったのだが・・・。
 この本の話は、簡略して言えば、山の中でひとり修業していたツアラトゥストラ(ゾロアスターのドイツ語読みだが、ゾロアスター教を意図したものではない)が、そこで研鑽(けんさん)を積んで得た知識は、自分一人のためのものではなく、人々に知らしめてこそのものだと気づいて、山を下りて人々に教え広めようとするが、人々はいまだ頑迷(がんめい)に宗教を信じていて誰も話を聞いてくれない。
 この近代の世の中では、様々のことが解明されているというのに、すでに”神が死んだ”ということさえも知らないでいる、そんな人々に絶望して、彼は再び山に戻るが、そこで様々な賢人たちと出会い、彼らとの交流の後、再び思い直して山を下りて行くという話だが、そこには、ひねりのきいた皮肉めいた警句(けいく)が、さまざまにちりばめられていて、さらに超人思想や永劫回帰(えいごうかいき)などの重要なテーマが含まれていて、とても簡潔にまとめてその全容を書くことなどできはしないのだが、それでも私なりに納得し理解できたように思える箇所がいくつかあり、以下に掲げるのはその中からの一節である。

「万物の上にかかるのは、偶然の天、無罪過の天、無為の天、驕(おご)りの天である。」
「ほんのわずかの知恵は、確かに可能である。だが、わたしが万物において見いだした確実な幸福は、万物がむしろ、偶然の足で__踊ることを好む、ということにある。」
「おお、わたしの頭上の天空よ、清浄(せいじょう)そのものよ!高貴なるものよ!永遠の理法などという蜘蛛(くも)もいないし、その蜘蛛の巣もないということ、これこそわたしの言う、あなたの清浄さだ。」

 (『ツアラトゥストラはこう言った』(上、下) ニーチェ著 水上英廣訳 岩波文庫より)

 以上の言葉から私なりに解釈したのは・・・”すべての物事は、人間たちの知識によるいくらかの関連付けによる説明はなされるのだろうが、本来、すべての物事は偶然から生み出されているものであり、それは『永劫回帰』というサイクルの中で必然化されていくのではないのか・・・つまり、私たちは物事をまずあるがままの形で受け入れ、幸も不幸も良きことも悪しききことも、偶然のそのままの形として在るものであり、それ以上のものでもなければそれ以下のものでもない”ということ。
 さらに、それを自分の立場として考えてゆけば、少し良いことがあった時に、それを勝手にそれ以上に(余計な知恵入れをして)、ふくらませていけば、後で失望することになるし、良くないことが起きた場合にも、それがさらなる悲惨な状況を生み出すかもしれないと、深読み心配したところでどうなるものでもないし、すべからくすべての物事は、偶然から生まれたものであり、それを必然だと受け止められるようになるのは、また再び巡りくる生の中でしかないということなのだろう。
 つまり、すべての物事に対して、楽観的でありすぎてもいけないし、また悲観的過ぎてもいけないということを、自分の戒(いまし)めの言葉にしたのだ・・・それは、ニーチェの意図した思いとは遠く離れて、自分なりの勝手な解釈でしかないのだが。

 年寄りになると、自分の長い経験から、すべての物事に対してますます疑り深くなり、話は黙ってよく聞くものの、今までの自分の信念をくつがえすようなものは頑(がん)として聞き入れず、新たに取り入れる知識はさらに少なくなってしまい、ますます時代から遅れていくことになるし、それが”がんこジジイ”と呼ばれる所以(ゆえん)でもあるのだろうが。

 そんな”がんこジジイ”だからこそ、他人に頼むのではなく、ひとりで、何としてもやってしまわなければならない仕事が増えてくるのだ。
 前回書いたように、この9月の三度に及ぶ台風襲来で、自宅林内の50年以上にもなるカラマツの大木が、根元から折れ、倒れあるいは傾いて、それらの木の伐採作業しなければならなくなったからだ。
 今日までに9本の木を完全に倒して。切り分け作業をした。(写真下)
 
 年寄りになったことも考えて、一日あたりでは、体力集中力が続く2時間余りの作業時間にした。
 一人でやるには、相当に危険な作業であることに変わりはなく,大げさではなく、まさに死と隣り合わせの仕事でもある。
 統計によれば、毎年40件前後の伐採作業時の死亡事故が起きていて、そのうちの数件は作業車による車両事故なのだが、後はほとんどが、伐採中の木の跳ね返りなどによる死亡事故である。

 家の林の場合、数本ほど完全に倒れている木もあり、それらは比較的楽にチェーンソーによる切り分け作業ができるのだが、問題は先の方で他の木に倒れかかったまま大きく傾いているものや、今でも倒れそうになっているものなどを切り倒す時である。
 根元から切っただけでは倒れず、といって鳶口(とびぐち)やロープなどの道具を使ったぐらいでは動かすことができず、さらに上の方へと切り分けていくしかないが、目の上の高さになるとさすがに危険極まりないし、何より木の反発力が強く、反動で木が跳ね返り落ちてきて、下敷きになり死ぬこともあるくらいなのだ。
 他の木に倒れかかったままの木を、下に倒すまで、さらに上の方まで切ったりロープや鳶口で引っ張ったりで、1時間以上かかることもある。
 ところが、ようやく下に倒した木を切り分けて枝はらいをしていく時にも、まだまだ危険が多く、その時のチェーンソーのキックバック(跳ね返り)によって、最悪の場合だが、本人ののど元に当たっての死亡事故もあるぐらいであり、まして脚切断などの重傷事故も数多く起きているほどであり、前にもこのブログに書いたことがあるが、顔なじみだった友達の奥さんのお兄さんが、私と同じように実家の林内の伐採作業をしていて、事故を起こし亡くなっているのだ。

 それでも、止めるわけにはいかない。放っておけば、他の周りの木に被害が及ぶことになるだけでなく、隣の畑や道路に倒れて迷惑をかけることになるから、何とか雪が来るまでには見通しをつけておきたいし、まだまだ気を許せない日々が続くことになるだろう。
 さらにその後も、手作業で切り分けた木を集め運び(大きいもので200kgはある)、枝葉類を片付けてしまわなければならないが、とてもこの秋までには終わらないだろうし。

 もっともこのところ、ぐうたらに過ごしてきたじじいにとっては、きつい仕事だがいい運動にはなるし、何より汗だくになった体で沸かした五右衛門風呂に入るのは、何とも言えない楽しみになるし、良くここまでやってきたものだと、我ながら感心するひと時にもなるのだ。
 
 相変わらず続くヒザの不安から、もう山には3カ月も行っていない。
 今年の大雪山の紅葉はと、人気ブログ・サイトの”イトナンリルゥ”を見てみると、稜線付近では今が盛りのようだが、あいにく三国峠先の高原大橋の復旧が遅れているようで、今でも通行できないから、といって旭川経由で大回りをして、数時間以上もかけてい行く気にはならないし、今年の山の紅葉はあきらめるしかないのだろうか。
 毎年、付録目当ての正月号と他にも特集記事にひかれてもう一冊ぐらいは買うことのある山の雑誌だが、今年はもう4冊も買ってしまった。
 登ることのできない山を、雑誌の写真を見て、記事を読んで楽しむしかない、しがない”山屋”になってしまったのだろうか、私は。
 
 それでも、家の前には、夕焼け空にシルエットになって見える日高山脈の山々があるし、やがては、それぞれの山々が雪に覆われて、白い一筋の稜線となって青空の下に見えるようになるのだろう・・・今、生きているということ。


   


  


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