9月12日
先日の、連続してやって来た台風で、北海道内各地は、特に南富良野町や清水町などでは、大きな水害の被害を受けたのだが、わが家でも、ほぼ床下浸水といってもいい状態で、家の周りが水浸しになっていた。
その後、雨も上がって、おそらく2週間ぶりくらいにもなるだろうが、一日中晴れていた日もあって、ようやく家の周りの水も引き始めて、車庫の中を流れていた小川の流れもなくなり、久しぶりに外での仕事に取り掛かれると思っていたのに・・・また次の台風がやってきた。
それは、九州上陸後に温帯低気圧になり、台風としての勢力は衰えたのだが、それなのに台風の名残として生み出す強い雨域は残っていて、一気に100ミリを超える雨が降っては、再び家の周りは水浸しになり、車庫の中の小川の流れもまた復活して、今も流れ続けている。
ちなみに、どうして車庫の中を水が流れるのかというと、まずこの家を建てた時に、基礎も自分で作ったから、大型のミキサー車で運んでもらったその生コン量が、ちゃんと計算したつもりではいたのに多すぎて、その分をいつも車を停めていた場所に流し込んでもらって、それをコテでならして、ちゃんとした駐車スペースの駐車場にしたのだ。
しかし、そのままでは、やはり野ざらし駐車であることには変わりなく、冬場にはクルマの上に雪が降り積もるままになってしまう。
そこで、ちゃんとした車庫を作ろうと、家の林のカラマツの木を十数本切り倒し、皮をむいて二年ほど乾燥させて、それを掘っ立て小屋の8本の柱として立ち上げ、それらの柱をつなぐ7本の桁(けた)と4本の丸太の梁(はり)を渡し、その梁の上に、束(つか)を立てて、その上に通しの長い棟(むね)丸太を乗せて、そこを頂点にして、軒下に届く根太を打ちつけていき、その上にコンパネを貼って、さらにカラー鉄板を打ちつけて、それで屋根の形になり、残りは、周りは簡単には安い波板鉄板と塩ビ波板を貼っただけの、簡素なつくりの車庫が出来上がったというわけだ。
その程度のものなのに、この家の敷地全体が風の当たらない、林の中にあるためでもあるのだろうが、いまだに何の破損個所もなく使うことができて、ありがたいことだ。
ただし、あくまでも周囲をちゃんと区切って、壁を立ち上げているわけではないから、地表面との間に隙間があって、その上にちょうど裏山から流れてくる水の通り道にもなっているから、大雨の時には、こうして車庫の中を流れているというわけなのだ。
それでも、私の家では周囲が水浸しというぐらいだからいいようなものの、周りの農家の畑の被害は、いまだにトラクターで畑に入れない状態の所もあり、出来秋の収穫が気がかりではある。
さらに前回も書いたことだが、札幌方面と道東の十勝・釧路をつなぐ国道の峠道が、一時はいずれも土砂崩れなどで寸断されて、残りの命綱の路線は、高速道路一本というありさまだったのだが、南の日高への天馬街道と北の三国峠の道はすぐに復旧し、さらに今日になって、狩勝峠の道も開通したとのことだが、最重要の国道である、日勝(にっしょう)峠への道が、橋梁の流失などで寸断され、今年中に復旧できるのかどうかもわからない状態で、同じような深刻な被害を受けている、札幌ー帯広・釧路間の鉄道と相まって、道東への物流の混乱がいまだに続いているというありさまだ。
さらに言えば、今までにわかっているだけでも、道路の橋の流失が、十勝、南富良野周辺だけでも40か所を超えているということであり、それはさらに、登山ルートという点から考えてみれば、日高山脈への林道や登山道については、いまだに調査の手が及ばず、登山者が少ないこともあって、何も詳しいことは分からないままで、今後被害が明るみになっていくことを思うと、空恐ろしい気がする。
まあ私としては、今までに、日高山脈のほとんどの山には登っているからいいようなものの。
自然の災害も人の病気も、被害を受けた形になって初めて、元の穏やかな自然の姿や、健康な体のありがたさに気がつくということだろう。
それでも、そのことを肌身にしみて強く感じるのは、被害にあった当事者たちだけであり、その他の人たちにとっては、同情こそすれ、やはり他人事でしかなく、いつもこのブログで書いていることだが、アフリカのサバンナで、仲間の一頭がライオンに襲われてしまい、それを遠巻きにしてじっと見つめるだけのヌーの大群のようなものだ・・・自分でなくてよかった、これからは気をつけようと。
人の世は、今も昔も変わらない。あの有名な「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・」という書き出しで始まる、鴨長明の『方丈記』には、その人の世の”無常”さを教え示すかのように、都を襲った大火と辻風(台風)に飢饉(ききん)などの惨状が、事細かに書かれているのだが、こうして作者が、都を離れて田舎に隠棲(いんせい)するようになったのは、わずらわしい人間関係などの個人的な事情があったことが主たる原因でもあろうが、一方では、都での自然災害のすさまじさ見知ったことが、その一因になったことも確かであろう。
そうした、人里離れた場所での暮らしの中から、自分なりに気がついたことどもを書き綴った随筆集が、後世に言う”隠者文学”として大きな一ジャンルを占めることにもなったのだが、それは『方丈記』の鴨長明(1155~1216)や『徒然草』の兼好法師(1283~1352)の生きた中世期という時代だからというわけではなく、その”無常観”の思いは、さらにさかのぼる古代の、”万葉集”の時代(7世紀後半~8世紀後半)にも、すでにあったことなのだ。
前回、『万葉集』からの歌をあげたついでに、今回も、その第十六巻に収められているものの中から、読み人しらずの歌を二首。
世の中の無常を厭(いと)う歌二首
「 生き死にの 二つの海を 厭(いと)はしみ 潮干(しおひ)の山を 思いつるかも」
「世間(よのなか)の 繁(しげ)き 仮蘆(かりいお)に 住み住みて 至らむ国の たづき知らずも」
この二つの歌を自分なりに訳すれば、”この世に生きていても、死んであの世に行くとしても、これからも苦しいことだらけの大海原が広がっているだけであり、それが嫌になって、そんな苦海の潮の満ち干も及ばないような、あの須弥山(しゅみせん、理想郷)の山のことを思ってしまうのだ。”
”わずらわしいことの多いこの世で、しょせんは仮の宿に過ぎない家に住んでいるだけだからと思ってはみても、かといって、あの世の極楽浄土へと行くことのできる、手がかりすらもないのだが。”ということになるだろうか。
さらに思い出したのは、同じこの”万葉集”の第五巻の冒頭にある、あの有名な大伴旅人(おおとものたびと)の歌である。
「世間(よのなか)は 空(むな)しきものと知る時し いよいよますます悲しかりける 」
この歌は、作者(大伴旅人)が,自分の身の回りの人々を次々に失い、悲嘆にくれる様子を詠(うた)ったものであり、誰の身の上にも起きうることであり、そうしてこの第五巻には、都を遠く離れた任官の地、太宰府にあった、この大伴旅人や山上憶良(やまのうえのおくら)の、情感あふれる歌が多く取り上げられているのだが、それだけに、この歌が冒頭の歌として掲げられたのもわかるような気がする。
さらに言えば、この歌は、近代になってからの明治時代に生きて、その夭折(ようせつ)の才能を惜しまれた歌人、あの石川啄木(1886~1912)の歌だとしても、不思議ではないと思えるほどの、時代を越えての、普遍的な悲しみの歌なのだとも言えるだろう。
この歌の後に続いて、山上憶良の詩とそれに続く歌が載せられているのだが、この漢詩からなる挽歌(ばんか)詩もまた興味深く、その全体をあげたいところだが、ここではとりあえず、今回の”無常の世の中”を嘆く歌の流れから考えて、その最初の部分だけを抜き書きしてみる。
「・・・、四生(ししょう)の起滅(きめつ)は、夢のみな空しきがごとく、三界(さんがい)の漂流は環(わ)の息(とど)まらぬがごとし。このゆえに、維摩大士(ゆいまだいじ)も方丈(ほうじょう)に在りて染疾(ぜんしつ)の患(うれ)いを嘆くことあり、釈迦能仁(しゃかのうにん)も双林(そうりん)に座して泥洹(ないおん)の苦しびを免れることなし、と。・・・」
これを大まかに訳すれば、”すべての生き物が、生まれ消えていく様子は、空しい夢のようであって、欲・色・空からなる世界の輪の中を、いつまでもぐるぐると回っているようなものだ。長者でありながらも、方丈(約四畳半)ほどの狭い部屋で在家修業をした、あの維摩大士でさえ病気を心配したし、お釈迦さまでさえ、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で悟りを開いても、死の苦しみから逃れることはできなかったのだ、と”
(以上参照:『万葉集』 伊藤博 校注 角川文庫)
話が、やや仏教色の強いものになってきたが、私が最初に意図して書いてきたことに戻れば、つまり人は、自分の身の回りに災難が起きてはじめて、この世の”無常”を知るようになるものだということである。
そしてそのことは、私がここでもたびたび取り上げてきた、『方丈記』や『徒然草』の作者である、鴨長明や兼好法師の世界観は、戦乱や天災が相次いだ、平安時代末期から鎌倉時代の中世という時代背景があったゆえに、生まれてきたものだとも言われているが、確かにそれもその通りではあろうが、上にあげた”万葉集”の歌からもわかるとおりに、仏教伝来(538年)間もない上代の時代にも、既に存在していた感情であって、それは、それまで誰もが持っていた、”漠然たる不安感”が仏教世界の教えという形に乗って、さらなる”無常観”の世界として確立されていったのではないのか・・・。
さらに言えば、仏教が入ってくる前から、古代の人々でさえ、誰しも受ける災いのたびに、ある種の”無常観”を感じていたのではないのか。
つまり、人という生き物は、自己と他者を感情をもって区別するがゆえに、集団の中においてでさえ、常なる孤独の存在であることを意識せざるを得ないし、そこでは、一人ではどうにもならないことがあると自覚しては、ある種の無力感を抱き、”無常なる世界”から離れて、自分だけの世界に逃げ込みたくなるという、誰にしもにあるような性癖(せいへき)があるのではないのか。
それは、程度の差こそあれ、人は集団に対してあるいは対人関係として、いつもかすかな疎外感を持っていて、それだからこそ、ある時にはそこから離れて隠れ住みたくなり、またある時には、それが逆に、独力でという強い反発心を生む力にもなるのではないのか。
”無常観”とは、その裏に孤独の感情と強い独力の意志を併せ持つようになる、まさに”諸刃の剣(もろはのつるぎ)”であり、逆に言えばそれが、より人間らしい姿の一つの形でもあると思うのだが・・・。
こうして、自分に言い聞かせるだけの、自分勝手な妄想をふくらませては、誰からも同意されることなく、否定されることもなく、ブログという形の中で、自分だけの世界を楽しむこと、これもまた、私の趣味の一つだと言えるものなのだろう。
私の好きな”万葉集”の歌は、これから先、毎回このブログで取り上げていったとしても、とうてい生きている間に終えることなどできるわけはないし、さらに他にも、今まで私が登ってきた様々な山々の一つ一つについても、とても生きている間に、このブログで書ききれるものではないし、映画、文学、絵画、音楽についても、あのモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の中での、レポレッロが歌う「カタログの歌」のように、次から次にその思い出が浮かび上がってきて、きりがないことになるし、もっとも、これこそが年寄りのねちねちと楽しむ道楽ともいえるものだし、まあ、他人にとってはどうでもいい話なのだろうが。
さて、今回もまた水害の話から余分なところに話が及んでしまったが、さて自宅周辺の話に戻るとして、水浸しの家の周りはともかく、8月初めに戻ってきてからも、一切庭の手入れをしていないから、芝生の庭とは思えないほどに荒れ放題だし、さらに始末の悪いことには、マメ科のクズの葉のような雑草が庭さき一面を覆いつくしては、ハマナスの灌木帯も見えなくなり、隣のオンコの木さえ覆いつくさんばかりになっているのだ。(写真上)
そして、そのあちこちに延び絡みつくツル性の茎には、びっしりと種の入った実がついている。
もう一年、このままにして放っておけば、庭はなくなり、人の歩けないほどの、深い草むらになってしまうことだろう。
つまりここは、私が生きている間だけの、私が手入れするしかない庭なのだ。
もっとも、そう考えたところでどうすることでもないのだが。
すべて、何事も、周りの世界も、私が生きている間だけの話ということだ。
話は変わるが、広島カープの優勝、カープ・ファンではない私でさえ、今シーズンのチームの精神的支柱となった、黒田と新井の二人の、男泣きの抱擁に、思わずもらい泣きしてしまった。
個の力と集団の力が、うまくまとまり一つになった時の、爆発的な喜び・・・”無常観”の静かな喜びとは対極にあるもの・・・これもまた然(しか)り。
さて、もうこれ以上の雨が降らないうちに、林内の十数本もの倒木の伐採作業をしてしまわなければ、と思っているのだが。