ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

真冬日

2016-01-26 20:32:32 | Weblog



 1月25日、26日

 寒い。
 昨日は、朝-7度で、日中も-4度までしか上がらず、完全な真冬日になってしまった。
 そして今日も、朝-8度で、昨日から凍り付いたままの窓ガラスの氷が厚みを増したようで、今日もまた溶けることはないだろう。
 間違いのないように重ねて言うけれども、これは自分の家の居間にある、窓ガラスの、内側の光景なのだ。
 室温は、4度。もちろん上下ともに厚着なのだが、手袋も欲しいくらいなのだ。

 隣の部屋にテレビを置いてあり、そこではポータブル石油ストーブを一日中燃やしていて、何とか温まることはできるのだが、そこでさえ、ストーブに面した所以外は寒くて、ようやく家全体が温まってきて、普通に動けるようになるのは、昼過ぎまでかかるから、それでは、いくら寒さには強いとうそぶいている私でさえ、さすがに我慢できずに、台所のプロパンガスのコンロに火をつけて、暖房代わりに1時間ほどそのままにしておくと、ようやく居間も1,2度位は上がってくれて、いくらかは暖かくなるのだ。
 まあ、というふうな有様で、沖縄や奄美大島で雪が降るほどの、この二三日の記録的な寒波襲来には、さすがの”雪景色大好き”なじじいも参ってしまったのだ。少し前まで、暖冬だとほざいていたのに。

 本当のところ、この九州よりは北海道にいたほうが暖かいのだ。
 もちろん、家の中のことで、外気温は北海道のほうが寒いに決まっている。
 今日は上川地方の下川町で-31,2度まで下がったとのことで、私の家がある十勝地方でも、今の時期は-20度くらいまでは下がるけれども、鋳物(いもの)製の立派なストーブがあるから、一日中薪(まき)を燃やしていれば、部屋の中では20度近くはあり、朝起きた時でも12,3度の暖かさが残っている。
 つまりこの家にいるよりは、あの北海道の家にいるほうが暖かいのだ。

 しかし、何度も書いているように、あの家は今になって思えば、あまりにも問題が多すぎる。
 水に不自由するから、風呂には入れないし、外のトイレも雪の積もった冬場はつらい。若い時には苦に思えなかったことが、年を取ってくると身にこたえるのだ。
 それに比べれば、意外に寒い九州のこんな古い家でも、家の中で水洗トイレは使えるし、毎日風呂に入ることもできるから、そのおかげで寝る前に体は温まり、毎日ぐっすりと眠ることができる。
 それならば、この九州の家にも薪(まき)ストーヴを置けばいいのだが、薪をどこから集めてくるのか、それとも高い金を出して薪束を買い入れるのか、1年のうち8か月も使う北海道と違って、冬場のわずか3か月のために高価な鋳物製ストーヴを、残り短いじじいが今さら・・・とも思うが、もっともそれだから、少しでも居心地よい老後が必要なのだ。何か対策を考えねば。
 もっともいつも言っているように、すべては良し悪し相半ばしているということでもあり、ただ一つありがたいことがあるだけでも、すべからく手を合わせて神様に感謝するべきなのだろう。

 今回は、前回の『ピロスマニ』のような大きなテーマはないのだけれども、前回書き加えておきたかったテレビ映画放映などについて、いくつかのことどもを考えてみたい。
 まず、去年暮れから新年にかけてのテレビでの、いつもの特別映画放映を楽しみにしていたのだけれども、これも前に書いたことだけれども、そのほとんどが日本語吹き替えのものばかりで、ただの一本でさえ録画する気にもなれなかったのだ。(その理由については、’15.11.2の項参照。)
 それにしても、前に見たことがあって、それでももう一度見たいと思っていた映画が、テレビ放映されると知って喜んでいたのに、それが日本語吹き替え版と知った時の、年寄りの落胆(らくたん)ぶりなど、誰の知ったことでもないのだろうが。

 しかし、若者のように、いつかまたあるだろうからと、望みを先送りできないのが、老い先短い年寄りなのだ。皆様、どうかこの”懐かしの映画ファン”の年寄りに、憐れみを・・・たえがたい日本語による吹き替えではなく、字幕にして、映画のスターたちそのままの声を聞かせてください。
 そんなふうに、映画を放映してくれるテレビ会社に文句を言うくらいなら、以前から字幕付きで発売されているDVDを買えばいいのにと思うかもしれないが、年寄りだからと言って、年寄り皆が”オレオレ詐欺”に引っかかるような大金を持っているわけではないのだし、そんなにまでして金を使うのも嫌だし、というのも、テレビ放映される映画を、一枚50円くらいのBR(ブルーレイ)に録画していくのが、今ではこの年寄りの、コレクターとしての趣味の一つになっているからでもあり、そうしてたまりにたまったDVD,BRのディスクが今や、百枚を超えるほどもあり、そして、それを夜中に数えるのが何とも言えぬ喜びで・・・(若い人は知らない『怪談 番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)』)・・・一枚・・・二枚・・・あの凍り付いた窓ガラスに映る、落ち武者ふうな乱れた髪の年寄りの横顔・・・ふと、こちらを振り向くと、「ハイ、わたしがヘンなおじさんです。」

(・・・と、昨日は、まだこの先まで書いていたのだが、”二度あることは三度ある”の例え通りに、今回もまた大量の原稿を消してしまったのだ。それは、しばらく席を離れた時に、画面が暗くなりフリーズするという現象で、もう後は強制終了のシャット・ダウンのボタンを押すしかなく、書いていた記事の大半がまたも消えてしまったのだ。夕方だったけれども、私はそれで昨日はあきらめて、今日はこうして昨日とは違う内容になるけれども、何とか昨日からの記事をつなげて書いていくつもりだ。まあそのことで別のやる気が起きたわけだし、何より、私自身のために、老化防止記憶維持のために書いているんだから、誰が悪いわけでもなく、まあすべては、なるようにしかならないということなのだろう。以下今日、1月26日の記事として続けて書いていく。) 

 とか何とか、おふざけを交えて文句は言っているが、実は、最近うれしいテレビでの映画放映が二本。
 いずれも、NHK・BSによるものだが、あのタヴィアーニ兄弟監督による名作『父 パードレ・パドローネ』(’77)が10日ほど前に放送され、さらに今月終わりには『サン・ロレンツォの夜』(’82)も予定されている。
 今ではもう、イタリアの巨匠と呼ばれるべき兄弟監督である、ヴィットリオ・タヴィアーニ(1929~)とパオロ・タヴィアーニ(1931~)の二人による共同作品は、今回テレビ放映されて、当時から世評も高かった『父 パードレ・パドローネ』や『サン・ロレンツォの夜』から、『カオス・シチリア物語』(’84)へと続いていき、私も当時、その詩的でイタリア民俗色の強い映画表現に魅了されていたのである。

 彼らタヴィアーニ兄弟の作品は、同じイタリア民族主義的な抒情詩ドラマとしての流れが胸を打つ、あのエルマンノ・オルミ監督の『木靴の木』(’78)や、ベルナルド・ベルトリッチの『1900年』(’76)の写実的大河ドラマの映像と比べれば、さらに素朴な民話風な語り口と呼べるものなのだが、その一方で、映画創世記のアメリカ映画の巨匠グリフィスの姿ををドキュメンタリー的タッチでとらえた名作、『グッドモーニング・バビロン』(’87)では、この兄弟監督の映画作りの見事さにも感心させられたし、(そこで思い出したのは、トリュフォーの名作『アメリカの夜』(’74)であるが)、さらなる次の作品で、若い聖職者の人生の変転を遂げた姿を描いた『太陽は夜も輝く』(’90)の映像も心に残っている。

 しかし、私が見ているタヴィアーニ映画はここまでであり、その後の『フィオリーレ』(’93)『復活』(’01)『ひばり農園』(’07)『塀の中のジュリアス・シーザー』(’12)と、ずっと見ていないのだが、果たして、その後のタヴィアーニの世界はどうなっていったのかと気になるところだし、だからこそ、いつも良心的映画を選択し放映しているNHK『プレミアム・シネマ』のプロデューサーは、いつの日かこれらの作品を放送リストに入れてくれるだろうかと、ささやかな期待を抱いているのだが。

 私が、イタリア映画に親しんだのは、主に東京にいたころであり、そのころ足しげく通ったのは、場末の小さな映画館で、安い料金で少し前の名作映画を見せてくれたのだが、今にして思えば、そうした”名画座”こそが、実は私にとっての大切な社会科教室だったのだ。
 国家社会の規則を、改めて理屈づけて教える学校での勉強と違って、今生きている人々の生の声が聞こえてきて、そこには若い情熱と挫折があり、人々が共に生きる充実感に満ちていたのだ。
 というふうに、後になっていろいろと理屈付けはできるけれども、当時はただ”毛唐(けとう)かぶれ”と言っていいほどに、映画に出てくる外国娘たちに入れをあげていて、実際のところは、映画を見るのはそれが目的でもあったのだ。(それは対象こそ違え、今の若者”オタク”たちのAKB熱とおなじようなものだったのだ。)

 イタリア映画に関していえば、シルヴァ・コシナ(『鉄道員』の主人公小さな子供のお姉さん役)、クラウディア・カルディナーレ(『刑事』で殺人を犯した若者の恋人役で、ラストシーンのクルマを追いかけるシーンが胸を打つ)、他にもセクシー系のお姉さま方、ソフィア・ローレン(『河の女』)、ジーナ・ロロブリジーダ(『花咲ける騎士道』)、サンドラ・ミーロ(『青い女馬』)、エレオノーラ・ロッシ・ドラーゴ(『激しい季節』)などなど、こうして彼女たちが出ていた映画を思い出しているだけでも、楽しくなってしまうが、ここでは、本題のイタリア映画について、少しだけ触れてみよう。
 
 確かに初めのころは、ヴィットリオ・デ・シーカの描く『靴みがき』(’47)『自転車泥棒』(’48)『昨日・今日・明日』(’64)『ああ結婚』(’64)『ひまわり』(’69)や、ピエトロ・ジェルミの描く『鉄道員』(’56)や『刑事』(’59)『イタリア式離婚狂想曲』(’61)『誘惑されて棄てられて』(’63)のような、下町人情話的な映画から入っていったのだが、すぐに芸術的評価の高いフェリーニの『甘い生活』(’60)や『8½』(’63)、そして異色の衝撃映画『サテリコン』(’69)、なども見るようになり、さらに『フェリーニのローマ』(’72)『アマルコルド』(’73)では、卑猥(ひわい)なまでに成熟し膨れ上がった都市文化を巧みに表現していたし、また同時代には、あのミケランジェロ・アントニオーニが、『情事』(’60)『夜』(’61)『太陽はひとりぼっち』(’62)と続く三部作で、現代社会のむなしい愛の世界を描き出し、さらに自分自身が作家詩人でもあった、鬼才と呼ばれるピエル・パオロ・パゾリーニが『奇跡の丘』(’64)『アポロンの地獄』(’67)『テオレマ』(’68)と次々に問題作を作り、歴史の中に反倫理的な不条理の世界を描き出していったのだ。

 さらに戦前から活動していた”ネオレアリズモ”派の巨匠ロベルト・ロッセリーニは、映画史に残る『無防備都市』(’45)『戦火のかなた』(’46)『ドイツ零年』(’47)の三部作を作った後、再び『ロベレ将軍』(’59)で大きな注目を浴びた。(しばらく前にテレビで放映された『イタリア旅行』(’52)は、世界を揺るがす不倫恋愛になった相手の、イングリッド・バーグマンを主演にして撮った映画なのだが、まるで、この後の二人の危うい仲を暗示させるような内容だった。)

 もう一人の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティは『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』(’42)と『揺れる大地』(’48)で、ロッセリーニと並ぶ”ネオレアリズモ”派の一人であることを強く印象付けていたのだが、その後は、貴族の爛熟(らんじゅく)文化の中で、ともに滅びゆく人々の哀愁を描いていくようになり、『夏の嵐』(’53)から始まり、『山猫』(’63)『熊座の淡き星影』(’64)『地獄に堕ちた勇者ども』(’68)『ヴェニスに死す』(’71)『ルートヴィッヒ』(’72)『家族の肖像』(’74)と切れ目のない傑作群を生み出していくことになるのだ。
 さらにこの70年代には前回も少し触れた、エルマンノ・オルミの『木靴の木』(’78)や、上にあげたタヴィアーニ兄弟による『父 パードレ・パドローネ』(’77)、さらにベルナルド・ベルトリッチによる『暗殺の森』(’70)『1900年』(’76)などの名作、大作が生まれることになるのだ。

 ここまで、きわめて簡単に、あちこち省略して、イタリア映画史をなぞって来たのだが、それだけでも十分には書ききれないほどだ。 
 そしてこれは、私にとってのイタリア映画の時代だったのであり、その60年代から70年代にかけてこそが、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のイタリア映画黄金期とも呼べる時期だったのだと思うし、たまたまその時期に映画に夢中になれたということは、今にして思えば、幸運なめぐり会いだったという他はない。ありがとう、イタリア映画。
 といいつつ、フランス映画、イギリス映画、ドイツ映画、スペイン映画、北欧映画、ロシア映画などなど、それぞれに、私が見てきた映画たちについて、もう一度振り返ってみたいし、いつの日にか記事として書いてみたいとは思うのだが。

 ここまで書いてきてすっかり疲れ果ててしまった。
 映画の話はこれで終わりとして、後は、最近のテレビから二つ三つのことを、書き留めておきたいと思う。

 少し前になるが、いつものNHK『ブラタモリ 熱海編』。
 源泉の位置から、温泉街の成り立ちなどを解き明かしていき、そこで現れた大学の先生が、まだ若く美しい宝塚男役ふうな美人で、思わず話を聞くのもそこそこで、ご尊顔を拝していた次第。
 さらに、山が後ろに迫った地形にある熱海では、それまでは水不足が深刻だったのだが、あの新丹那トンネルの掘削(くっさく)の際に湧き出た水を、生活水として使うようになったとのこと。
 火砕流、スコリア、海食崖など、地理地形学ファンにはたまらない言葉が飛び交い、さらにはその一方で、タモリのセクハラぎりぎりの、アシスタントの真帆ちゃんへのいじり言葉が面白い。私も参加したーい。

 その流れで続ければ、同じ日にBSのほうでは、ドキュメンタリー番組『体感!グレートネイチャー 大隆起の絶景~美麗島 台湾』があって、しっかり録画して、後で見たのだが、予想以上に、地理学地形学ファンには面白く、興味深い番組だった。私は、こうした地形を見るために、台湾に行きたいとさえ思ったくらいだ。
 台湾での、大陸プレートのぶつかり合いによって生まれる隆起の速度は、世界的なまでに速くて(南アルプスの4倍だとか)、普通ならば海底でしか見られないものが、台湾では地上で見られるのだ。
 北アルプスの黒部峡谷の比ではないほどに、深くうがたれた一大渓谷、泥岩の地層が隆起して、日々、浸食されている様子、地層の隙間から湧き上がる泥状火山の小山、最後に台湾の最高峰の玉山(3997m)の植生と、粘板岩に覆われた絶景。息をのんで見る1時間半だった。

 ただしこの番組で唯一の欠点は、今までにもこの『体感!グレートネイチャー』であったように、映像での感動をあおるかのように、後ろに流れている音楽がうるさいほどだったことだ。
 何もドキュメンタリー番組にまで、ドラマ風な感動を盛り立てることはないのだ。
 途中の、たどり着くまでの苦労を映像で写していれば、最後の感動のシーンに出会った時には、その場所にある風の音だけで十分なのだ。あとは周りに広がる映像がすべてを語ってくれるはずだから。

 そして、いつもの『AKB48SHOW』 だが、今回は去年9月の”じゃんけん大会”で幸運にも優勝した、そのごほうびとして、本人の名前が付けられた『藤田奈那SHOW』という特別番組になっていてた。
 もちろん、私はそれまで彼女の名前も顔も知らなかったし、”じゃんけん大会”優勝のニュースが流れて、”へーこんな子がいたのか”と思ったくらいなのだ。
 これもまた、優勝のごほうび曲として作られた、『右足エビデンス』という曲を、彼女は男たちのバックダンサーを引き連れて、ソロで歌い踊ったのだが・・・ただ、あぜんとして見つめるばかりで、恐れ入りましたと頭を下げたくなったほどだ。
 地味な顔立ちで、23,4歳位の、私はもう長い間AKBに在籍している子かと思ったのだが、何と当時まだ18歳であり、あれほどの大人の曲を長い手足を使って、見事に歌い踊っていたのだ。(このMVは”youtube"でも見ることができる。)
 300人もの女の子たちからなる、AKBグループ広しといえども、これほどの雰囲気をもって歌い踊れる背の高い子は、他には”にゃんにゃん”小嶋陽菜か阿部マリアぐらいしか思いつかないほどだ。
 いつもの秋元康の作詞もなかなか良いし、曲調もNMBの『MUST BE NOW』ふうな新しさを感じさせるものだし、何より気づいたのは、300人ものAKBグループにはまだまだ、こうした輝く才能を持った子たちがいるかもしれないということだ。
 それだけの数があるからこそ、これからも入れ代わり立ち代わり、アイドルだけではない、様々な才能を持った子が現れる可能性があるのだろう。

 AKB,すげーえ、と、じいさんは思うのでした。


(参考文献: 『スクリーン外国映画テレビ大鑑』 近代映画社、『ノーサイド 総特集おお、女優』 文芸春秋社、『イタリア映画を読む』柳澤一博 フィルムアート社) 

 

 


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