12月29日
(写真 2012年11月下旬 北海道 朝日にきらめく雪面)
雪、白く積めり。
雪、林間の路(みち)をうずめて平らかなり。
ふめば、膝(ひざ)を没(ぼっ)して更(さら)にふかく
その雪、うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す。
燐光あおくひかりて、不知火(しらぬい)に似たり。
・・・・。
わずかに、杉の枯葉をひろいて
今夕の炉辺(ろべ)に、一椀(わん)の雑炊(ぞうすい)を暖めんとす。
敗れたるもの、かえって心平らかにして
燐光の如(ごと)きもの、霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくて、ついにとらえ難(がた)きなり。
(高村光太郎詩集 『典型』 より 「雪白く積めり」 集英社版日本文学全集第19巻)
いつもよりは、雪が多いという北海道は十勝の平野に。
林に囲まれたあの小さな家は、ひとりじっとたたずんでいることだろう。
一面の雪の中、物音ひとつ聞こえない、時のしじま(静寂)の中で。
一番大切なことは、そこにそうして在り続けることなのだよ・・・。
高い空の上で、北風の音がしたような。
あの北国の冬を想う。
さてここ九州では、一週間もの間、思いがけなくも天気の良い日が続いた。
それは、毎日快晴の日が続いたということではなく、曇りがちな日でも雨の日がなかったということだ。
雪はその前に降ったきりで、最低気温はー5度前後で、最高気温は7,8度といったところで、昨日などは10度を超える暖かさになっていた。
それは庭仕事を終わらしてしまうには、まさにちょうど良い一週間だった。
もちろんここは、あの北海道の家ほどに広い庭ではないが、といって町中の家の庭ほどに狭くはなく、山間部の人里の家ならではの庭の広さがあるのだ。
その昔、今は亡き母と二人で植え込んできた灌木(かんぼく)のたぐいや、生け垣そして周りの木々などが、年ごとに野放図(のほうず)に成長していくので、どうしても年に何度かは、刈り込んだり枝切りしたり、さらには庭中の枯れ枝枯葉を片づけたり、屋根に上がって所々にたまっている枯葉を掃除したりしなければならないのだ。
途中で一度、買い物や用事で街に出かけた以外は、毎日、庭仕事に追われた。
一日わずか数時間足らずの、気ままな庭仕事ではあるが、それなりに体力は使うし、高い脚立(きゃたつ)に上がっての仕事は、さすがにこの年になると、危険な作業になってくるのだが。
夕方に仕事が終わり、部屋に戻って一息ついた後、簡単な食事を作って食べ、そしてこの後は、モー牛になったところで構いやしないからと、コタツに入ったまま横になってテレビ・ニュースやバラエティー番組を見て、半ばうつらうつらとして時は過ぎ、おっともうこんな時間かと起き上がり、食事あとを片付けて風呂に入り、上がればもう眠たくてそのまま布団の中に。
やるべきことをやれば、それでいいのだ。
何度もここであげている、あのギリシア時代のヘシオードスの『仕事と日(労働と日々)』(’12.3.18の項参照)やローマ時代のキケローの『老年について』(’12.6.3の項参照)、ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(12月1日の項参照)などに書いてある通りに、人は働かなければならないし、おのずから動き出したくなり、働きたくなるようにできているのだ。
もちろんそれが、余りにも過酷な”労働と日々”であれば、その拘束からの解放を求めたくなるだろうし、と言って解放後の自由すぎる放縦(ほうじゅう)な生活はまた、ある程度束縛される労働を望むようになるのかもしれない。
そこでふと思い出したのは、ルネッサンス後期の16世紀オランダの画家、あのブリューゲルの一枚の絵『怠け者の天国』である。
それはテーブルに見立てた一本の木の下で、三人の男たち(貴族、兵士、農民)が飽食(ほうしょく)の宴(うたげ)のあと、大の字になって、あるいは横を向いて寝ている姿を描いたものなのだが、周りには彼らが食べた物が散乱している。
この絵は、誰が見ても分かるように、ぜいたくな食事への戒(いまし)め、怠惰(たいだ)な生活への戒めであることは見てとれるのだが、果たしてそれは今日まで続く戒めになっているのだろうか。
否、否。今の時代は、グルメ・ブーム、名店レストランのランク付けなどがもてはやされ、その陰で恐るべき量の食べ残し、賞味期限切れの食べ物がゴミ扱いで処分され、その一方では飢えに苦しむ人々が世界中にいるというのに。
ましてや華美な生活や労働しない生活が選ばれし者たちのためにあり、なおさらのことだが。
しょせん人は、いつも書くように、群れの一頭がライオンの犠牲になって、他の自分たちは助かったと、遠くで見守るヌーたちのようなものだから。
いつの世も、人は自分の身に及んで初めて、伝えられてきた戒律の正しさに気がつくのだが、いつも時すでに遅しだし、それでも人間の歴史は続いてきたわけだし、私たち年寄りが、何も今を盛りの愉しみの中にいる人々にあれこれというべき事柄でもないのかもしれない。
そして、今の人の世はいろいろあれども、つまりは旧約聖書の冒頭にあるように・・・。
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」
・・・という神の言葉、そのままなのかも知れない。
もっともこの言葉こそが、実は人間そのものの、傲岸不遜(ごうがんふそん)な思いを表しているようにも思えるのだが・・・それも年寄りの繰り言(くりごと)か。
元に戻れば、ただ一人のじいさんが庭仕事をしたというだけの話から、何と神をも恐れぬ聖書の話にまで及んで、我ながらこのばちあたりめがとも思うが、はいそれでもちゃんとクリスマスの夜には、毎年同じように、あのバッハの『クリスマス・オラトリオ』を、神妙にそして心楽しく聞いておりますれば、なにとぞお許しくださるように・・・。
そこで、再び少し話は戻るのだが、飽食の話から思い出したのだが、前に書いたあの『劇的ビフォーアフター!』(12月14日の項)の続きがあって、(確かにそれは2時間番組一本では収まりきれない話だったのだが)、そこでは100万円という低予算で、あの山奥のあばら家が今時の和風別荘のように、見事にリフォームされていくのだが、その依頼主である67歳の姉の他にその弟妹の3人がそろってやってきて、出来上がった家を見て感激のあまり涙を流すのだが、その涙には、言うに言われぬ万感の思いが込められていて、どんな映画やドラマにもない真実の感情を見る思いがして、テレビを見ている私も思わずもらい泣きしてしまうほどだった(鬼の目にも涙か)。
高知県で生まれ育ったこの三姉弟妹は、上の姉が7歳の時に両親が家を出て行って自分たち三人だけで暮らしていくことになり、それを見かねたこの山奥の家に住む叔母さん夫婦に引き取られて、そこで子供時代を過ごしたのだ。
終戦後間もないころの、こんな山奥での暮らしがいかに大変なものであったかは想像に難(かた)くないが、食べ盛りの子供たちにとっては、食事だけでは十分に腹を満たせるはずもなく、生のサツマイモやトウモロコシを食べたことなどを話していた。
今では62歳になる弟は、兵庫県の方で立派に林業を営んでいて、この家の改築を手伝うためにやってきて、小型重機とチェーンソーを使って周りの立ち木を切り出してくれていたのだ。
その弟が、家の中に作られた見事な三和土(たたき)の土間に置かれた、自分がチェーンソーで作った丸太椅子に姉、妹とともに座りながら、周りにいたテレビ・スタッフから感想の言葉を求められたとき、彼は思いが込み上げてきて何も言えず、下を向き嗚咽(おえつ)をこらえながら涙を流すだけだった。
おそらくは、、あの当時のまだ親に甘えたい盛りの、子供だったころの思い出が、走馬灯(そうまとう)のように駆けめぐっていたのだろう。
映画やドラマのように、背後に流れる音楽もなく、とってつけたように書かれたセリフもなかった。
姉も妹も、涙を流していた。
他の周りにいた人々も、黙っていた。
テレビ番組としては間が持たないほどの時間だろうが、それはしかし、小さな嗚咽が聞こえるだけの見事な”ありのままの”現実の時間だった・・・それだけで、三人の昔の苦労の思いが伝わってきたのだ。
さて、人間嫌いふうで実は人間に興味いっぱいの、私の思いはさらに続く。
数日前に、日テレ系の深夜番組『アナザー・スカイ』で(録画して見たのだが)、2年前にAKBから、あのインドネシアのジャカルタにある姉妹グループのJKT(ジェイケイティ)に移籍した、仲川遥香(はるか)の現況を伝える番組があった。
彼女は、私がAKBのことが気になり始めたころにはもういなくなっていて、彼女のことはあまりよく知らなかったのだが、今AKBのセンターにいる渡辺麻友”まゆゆ”や、”ゆきりん”などと同じAKB第3期生であり、今ではもう古株のメンバーの一人と言ってもいいくらいなのだが、2年前に彼女は、選抜総選挙で順位が大きく下がり、このままでいれば”まゆゆ”たちのようにトップで活躍することもできずに、AKBの中でくすんでいってしまうだけだと考え、そこでAKBの海外公演で行ったことのあるインドネシアに、当時作られたばかりのJKTへの移籍を、総合プロデューサーでもある秋元康に願い出たのだ。
ただ現状を打開するために、自分の好きな国でもあるインドネシアでの活躍を夢見て、言葉も分からない遠く離れた異国の地に行こうと、20歳になったばかりの彼女は決断したのだ。
最初、彼女はデング熱にかかったり水が合わなかったりと苦労したけれども、”好きこそものの上手なれ”、すぐにインドネシアの国に慣れ、インドネシアのメンバーたちとも仲良くなり、インドネシア語も憶えたのだ。
今年の春に行われたJKT選抜総選挙では3位に入り、センターで歌うことも珍しくはないし、レギュラー出演しているテレビ番組もあり、インドネシアでのれっきとした有名人の一人になっているのだ。
このたび来春に公演が予定されている、宮本亜門演出のミュージカル『オズ』のオーディションを受けるために、日本に一時帰国していたが、その時のインタヴューに答えて、”このままずっとJKTにいたいし、AKBに戻るくらいならもう卒業します”と言い切っていた。
さらに、”日本に帰ってくることもできるけれど、それでは私が負けたことになるし”と強い気持ちを持っていて、さらに結婚する相手はと問われてすぐに、”外国の人”と答えていた。
アイドル・グループであるAKBグループは、中学生からの少女たちの集団であり、彼女たちも少しずつ少女から大人になっていき、いつかは”アイドル”としての”売りごろ”の時期を終えて、AKBグループからも卒業していかなければならないのだ。
人がすべて、この世に生まれた時から、この世の終わりである死に向かって生きているように、彼女たちもまたいつまでも”アイドル”でいることはできずに、次なる世界に一人で飛び立っていかなければならないのだ。
だからどうするのか。
センターの位置で、もしくは第一列に立って、あるいは16人の選抜チームに選ばれて歌い踊ることのできるメンバーたちは、グループ総勢300人の中のほんの一握りの選ばれた女の子たちだけだ。
他の女の子たちはどうするのか。
それでもあきらめずに、何とか少しでも上の順位を目指してがんばるのか。それとも今自分のいる位置を理解してそれだけで満足するのか、最低限でも自分はAKBグループの一人として選ばれているのだから、という誇りを持って。
それとも、この仲川遥香のように、一大決心をして海外グループに道を求めるのか、あるいはAKBからHKTに移った多田愛佳のように他の姉妹グループに行くのか。それとて、彼女らと同じように海外や他のグループに移り、成功した者ばかりとは言えないのだが。
さらには、すっぱりとこのAKBを卒業して新たな道を開いていくのか。
それも、AKBでのスターだった前田敦子や大島優子、篠田麻里子、板野友美などならまだしも、芸能界から呼び声もかかるだろうが、上位メンバー以外のあまり名前も知られていないメンバーたちにとっては、AKBという看板を外されての芸能活動はむずかしくなるだろう。
もっとも”普通の女の子に戻ります”と言って去っていったアイドルの子もいたぐらいだから、女の幸せは、他にもあるはずなのだが。
ともかく芸能界で生きていくことを考えれば、これから決断の時期を迎える彼女たちも、それぞれにぎりぎりの選択を迫られることになるのだ。
”少女たちよ。もうすぐ夜明けが来る。夢の未来はこれから始まる。
少女たちよ。何もあきらめるな。悲しいことなんかすべて捨てて。全力で走るんだ。”
(歌詞 秋元康。思うに彼は、プロデューサーであるだけでなく、少女たちを教える”一般社会””道徳”の先生でもあるのだろう。)