ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

寒菊とヘッセの言葉

2014-12-01 22:41:38 | Weblog



12月1日

 この二三日は天気が良くない。といっても曇り空で、小雨が少しといった感じで、本降りの雨が降ったり、雪になったりというわけでもないのだが、ずっと青空を見ていた日々が多かっただけに、今日は天気が悪いと思ってしまうのだ。
 しかし、こうして冬に雪が降る前には、それまで冷え込んでいた空気が生暖かく感じられるようになり、これは雪になると分かるのだ。
 今日のテレビ・ニュースでは、これから真冬並みの寒波が西日本から流れ込んでくるとのことで、その後の天気予報では、北海道の日本海側などは、この一週間、ずらりと雪マークが並んでいる。 

 さてその前にと、急いで庭木の雪囲(ゆきがこ)いというよりは、鹿(しか)囲いをした。もっともそれは、シカが冬の間に庭木の皮を食べないように、荒縄をまきつけただけのものなのだが。(今までに、何本もの庭木の表皮がシカに食べられて枯れてしまったのだ。)
 その他には、今まで咲き続けてくれた、寒菊がもう終わりに近づいていて、このあたりが区切りだとすべてを刈り取ってしまった。
 それにしても、この小菊は毎年同じように、最低気温がマイナスになるころに、他の草花はすべてしおれ凍りつき枯れてしまうころに咲き始めて、こうして12月まで咲き続けているのだ。
 この寒菊と呼ばれる冬に咲く小菊の不思議さ・・・一週間ほど前には-7度や-9度にまで冷え込んだ日があったというのに、それでもしおれることもなく花を咲かせている。
 まったく、その葉や花の構造はいったいどうなっているのだろうかと思う。

 このわずか1㎝程の花を咲かせる小菊については、今の時期になるといつもこのブログに書いているのだが、この小菊そのものは、もうずいぶん前に、今は亡くなってしまってた近くの農家のおばあさんにもらったもので、 ほんの数株だったものが、大した手入れもしていないのに、年ごとに増えていって、今では百株を越えるまでに大繁殖して、庭の一角を占めるまでに至っているのだ。
 私は、あまりこまめに庭いじりなどをするような人間ではないし、その本来はぐうたらな私の性分に合わせてか、この小菊は、放っておかれても、自分なりにたくましく生き続けているのだ。
 そして、いつもその何本かをありがたく切り取っては、母とミャオの写真が並ぶ仏壇の前に供えて、手を合わせている。

 もっともこの小菊にしてみれば、ただ己の本能のままに、根を下ろした場所で必死に生きているだけなのだろうが。
 他の草花が咲き競う、春から夏、さらに秋にかけても、まだ花のツボミをしっかり抱え込んでいて、そしていよいよ他の草花たちが霜や雪の寒さで枯れ果てた初冬になって、ようやくその小さな花を開かせるのだ。
 それは、同じようにまだ寒さの中でも生き残っている、何匹かの小蜂や蛾が飛び回っていることを知っているかのように・・・。

 前にも取り上げたことのある本だが、あのドイツの小説家のヘルマン・ヘッセ(1877~1962)がその晩年に書きまとめた詩文集『庭仕事の愉(たの)しみ』(草思社 岡田朝雄訳)には、とても素人画家とは思えない見事な作者自身の水彩画の幾つかが挿入(そうにゅう)されていて、時に触れて開きたくなる本の一冊であるが、その中の一節を思い出した。

「人生にはいろいろと苦しいことも悲しいこともあるにせよ、それでもときおり、希望の実現とか、充足によってもたらされる幸福が訪れるものである。その幸福が決して長く続かなくとも、それは(それで)多分よいことなのかかもしれない。」

 ヘッセについて言えば、私たちの世代の人間にとっては、まずあの名作『車輪の下』があり、そこからもっと読みたくなって、『郷愁』や『デミアン』そして『知と愛』などへと読み継いでいったものだった。
 そこに描かれていたのは、誰にでもある若き日の二面性的な自己矛盾に悩み、しかし真摯(しんし)に立ち向かい考えることによって、やがてはあるべき自分の魂の姿を見つけようとする若者の姿だった。
 つまり簡単に言えば、それらは、悩みや苦しみを背負いながらもそれでもまっすぐに生きようとする、真面目な若者たちの話だったのだ。
 そしてそれは、当時の昭和という時代のさ中にあって、混沌とした社会の中でもどうあるべきかと、理想と現実の乖離(かいり)に悩んでいた私たちの心にも響いてきたのだ。
 それが結局は、今の社会の仕組みに順応していくことだと分かってはいても。

 しかし、もう今の時代では、それぞれの価値観が多岐に別れてしまっていて、速いスピードで千変万化して移りゆく社会の中で生きている若者たちには、ただ愚直なまでに悩み苦しむようなヘッセの小説などは読まれないのかもしれない。

 しかしそんなヘッセが、晩年に幾つものエッセー詩文集を出していたのを知ったのは、比較的最近になってからのことであり、恥ずかしい限りだが、十数年前に新聞の書評に載っているのを見てからである。
 それは、私が若いころに読んだあのヘッセのイメージからは離れていて、庭いじりに嬉々としている好々爺(こうこうや)の姿であった。
 もちろんそこには、若き日の思い出と、今の時代への批判も巧みに織り交ぜながらの言葉になっていたのだが。
 つまり、その当時の彼と同じ世代にあり、もはや”ジジイ”になりつつある私にとっては、それだけに、よく分かり合える友人のようにさえ思えてくるのだ。
 ここが、文学書などを読むことの楽しみの一つでもある・・・世界的な知識人や有名人に、活字として書かれた言葉を通じてだが、知り合い気分に、友達気分にさえなれるのだから。

 最近の若い人たちは、マンガは読んでも、本は読まないというが、実にもったいないことだと思う。
 古今東西、今までには、選ばれし優れた人々たちによって書かれてきた、様々な文学書があり、そこには彼らが経験してきた得難い知識や警句、教訓などにあふれていて、私たちは時代を超えて、その貴重な体験のひと時を同じように追体験できるのに、と思うからだ。
 もちろんそれは文学書だけではない、哲学、美学さらには科学、自然科学などの諸相における分野について書かれたものがあり、それぞれに意義ある貴重ものであり、もちろん私たちは、百科全書派ふうにそれらのすべての分野に目を通せるわけではないけれども、どこか一つの系統でもたどれるとすれば、必ずやそれらの人々が書いてきた、ひたすらに真実を求める思いを知って、胸打たれるだろう。

 私が、最近流行(はやり)の、ファンタジーや幻想映画、文学、マンガ等を余り見たいとは思わないのは、それが最初から、現実としてはあり得ない、例えば時間をまたいで、現在と過去未来を行き来する話などになっているからである。
 現在の科学の力をしても、決して作り得ないタイムマシーンがあったり、それによって現代人がそのままの姿で、いきなり戦国時代に放り込まれたり、自分が生まれる前のまだ若い時代の父親に会ったり、人類滅亡後の世界に一人生き残っていたりなどする作り話よりは、私は今私が生きている時代でも、昔の時代のことでも、それがそのままあったように伝えてくれて考えさせられるような、真実に近い作り話の方に興味をひかれる。
 自分なりに、それぞれにまっすぐに生きている姿・・・それは、時代を超えて変わらずに人の胸を打つものだから。

 だからそれは、今の時代に生きている可愛くて若い娘たちが、一緒になって歌い踊っている姿を見たりすれば、なおさらのこと私には好ましく映るだと、ここでも、もうお分かりのことだと思うが、我田引水的に、強引にAKBの話へと持っていくのだ・・・。

 というのも、前回土曜日の、NHK・BSの「AKB48SHOW」が、なかなかに面白かったからだ。
 冒頭のコントは、渡辺”まゆゆ”と選抜新加入の”乃木坂46”の”生駒(いこま)ちゃん”の掛け合いによるもので、二人とも可愛くていいし、次はその32人選抜メンバーによる、新曲『希望的リフレイン』 で、二か月前発表時の選抜メンバーから外されて泣いていた、あの”岡田奈々”と”西野美姫”の二人が、ここでは選ばれていて、元気に明るく踊っていた(こんなところまで分かるようになってきた私は、恥ずかしながらまさに”病こうこうに入る”状態であはあります)。
 そして今回一番うれしかったのは、あの”道頓堀(どうとんぼり)美少女ファイター、くいだおれタコ美(木下百花)”が久しぶりに登場したことだ。思わずテレビ画面に向かって拍手してしまった。彼女のセリフには大阪の人間にしかわからないキャラクターが登場していたが、それが分からなくても、あのこってりした関西キャラいっぱいの”タコ美”ちゃんは素晴らしい。
 さらには、今回のAKBの新曲のミュージック・ビデオは、”たかみな”に始まる歴代のセンターが走りながら、黄金のマイクをリレーしていくという筋立てになっていて、なかなかに面白くて良かった。
 そして最後には、AKBの派生ユニットである”ディーバ”の歌とダンスで締めくくられていた。AKB卒業生2人を含む4人とバックダンサーたちからなるグループの、解散前の最後の曲であり、今のAKBではとても出せないだろう大人の女の魅力にあふれていた。
 AKBのことについては、つい能弁(のうべん)になる私としては、いい年をして恥ずかしくもあるが、まあ一時的な若き日の恋の病のようなものだからと言い聞かせてはいるが・・・。

 次にここに書いておきたいのは、山好きな私としては、外すわけにはいかない、NHK・BSの『グレートトラバース』である。プロ・アドベンチャー・レーサーとしての若者が一人で、自分の力、人力だけで、一筆書きにたどって日本百名山を登ってしまうというドキュメンタリー・フィルムである。

 前にも、いわゆる”トレイル・ラン”として、山を走って上り下りする人について書いたことがあるが、それを今回”プロ”と名付けたのは、NHKのドキュメンタリー出演者としての、金銭的援助を受けたことによるものだろうが、それだけに私は最初に放送された第1回の時から、なんとなく、私たち登山愛好者とは違う、レースとしてスポーツとしての選手のように、少し引き気味に見ていたのだ。
 さらに一人とはいっても、常に彼を前後から写している撮影チームの数人がいるわけだから、完全な”ソロ”としての意味合いは薄れるし、何より日程に従って、天気が良かろうが悪かろうが、ともかく順に登っていくだけだという姿勢が私の登り方とは、大きく隔たっていたからでもある。
 ただし晴れた日の山々、特にまだ残雪深い南アルプスの姿は、何といっても素晴らしく、この百名山行でのハイライトだった。

 そして先日、最後の第5回東北・北海道の山々が放映されたが、その時残念なことにあの白馬村での地震速報が入り、さらに中断されてしまい、ようやく再放送がこの土曜日にあったばかりなのだ。
 しかし、それで良かったのだ。というのも、NHK放送サイドは、前回中断された放送分で大きなミスをしていたのだ。
 それは、北海道の日高”幌尻岳”(ぽろしりだけ、2052m)に向かう所で、空中撮影によって流された映像は、何と同じ日高山脈で第2位の高さにある”カムイエクウチカウシ山”(1979m)だったのだ。

(写真下、’97,7.1の山行より、1903峰よりカムイエクウチカウシ山、ちなみに私はこの山を北海道の山ベスト3の一つに挙げたいし、日本の山ベスト10を考えた時にも、ぜひその一つに入れたいとさえ思っている山であり、さらに言えば百名山に選ばれなくて幸いだったと思う山の一つでもある。)



 ともかく、今回、幌尻岳と間違えて映し出されたその映像自体は、日高核心部の勇壮なるカムイエクの姿を映していて素晴らしかったのだが、北海道の山に詳しい人ならば、すぐに気がつくほどの間違いだったのだ。
 おそらくは、視聴者の誰かが指摘して、どのみち再放送で直してくるだろうとは思っていたが、そのとおりの”怪我の功名”で、映像は正しく差し替えられていた。
 などといろいろ指摘してはみたものの、やはり短期間で全山登りつくしたことは大変なことであり、そこに至るまではそれ相応の決意と実行力が必要だし、まして最後の稚内(わっかない)から利尻島への、荒海でのカヤック横断では、傍に撮影クルーがいるにしても、思わず手に汗握る場面になっていた。

 最後に蛇足になるが、私はこうした山の登り方は、若いころでもしなかっただろうし、まして”百名山”制覇などに挑む気もなかったし、もし山の上で今回の彼にたまたま会ったとしても、他の登山者と同じように一言の挨拶は交わしただろうが、まして一緒に写真に納まったり、サインを求めたりはしていないだろう。
 とはいっても、明らかに体力の落ちてきている今、百名山どころか山は選んで登るほかはないのだが、一つには年齢による体力の減衰がというよりは、むしろ年齢からくる気力の低下といった方がいいのだろう。
 確かなことは、もう以前ほどに積極的に動き回りたいとは思わなくなってきたということだ。それよりは静かな自分家にいて、これまた静かな家の周りを歩いていれば、それが何よりと思えるようになってきたからだ。つまり、年寄り症候群病にかかっているとでもいうべきか・・・。
 
 たとえばこれから九州に戻るとしても、ついこの間までは、そのついでに東京に一二泊してでも、美術館に行ったり、クラッシックのコンサートを聞きに行ったり、映画を見に行ったりしていたのに・・・今、東京では、あのウフィツィ美術館展があり、さらにはセガンティーニとともにスイスを代表する画家である、ホドラーの回顧展が開かれているというのに、もう東京の雑踏と、美術館内の雑踏とを考えただけで、行く気がしなくなってしまうのだ。
 
 ”老兵は死なず、ただ消え去るのみ”という、あのマッカーサーの有名な言葉に、自分なりに付け加えるものがあるとすれば、”戦場から”つまり”都会から”ということだろうし、さらにその後に言うべき言葉としては、”そして緑野に、土に還るべし”ということになるのではないだろうか・・・緑のふるさとへ、土のあるところへ帰るという意味と、最後には緑野の土に埋もれて、土に戻るという意味を含めて・・・。
 若いころよく見ていた東映任侠映画路線の二人、高倉健と菅原文太に合掌。