ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

静かな眼 平和な心

2013-01-28 17:51:47 | Weblog
 

 1月28日

 寒い日が続いている。今朝は-6度、雪も止んで晴れてきたが、昨日の朝は-7度まで冷え込み、一日マイナスの気温のまま雪が降っていた。
 そんな時に、ひとり家の中にいても、退屈だと思ったことはない。ミャオがいなくて、寂しいのは事実だが、それとは別にやるべきことはいくらでもある。
 こうしてブログを書くこともそうだし、本を読むことも、好きな音楽を聴くことも、録画していたテレビ番組を見ることも、山の写真の整理をすることも、それぞれ私の好きなことをできるからだ。

 特に、去年から取りかかっているスキャナーを使っての写真フィルムのデジタル化には、予想外に手間ひまがかかり、大きな仕事にもなっている。
 これまで、何十年にもわたって続いている私の山歩き。その際に撮ってきた写真の量は、今ではもう膨大(ぼうだい)なものになっていて、とても私ひとりの力で全部をデジタル化することなど、不可能である。
 もちろんそれらは芸術的、記録的に価値のあるものではなく、単なる私だけの思い出の山写真でしかないのだが。

 このフィルム・スキャンについては、前にもここで書いているが(’12.4.8の項参照)、まず、とりあえずはフィルム画質のいい中判カメラのポジフィルムだけを先にと思い、手元にあったそれほど多くはない九州の山々のフィルムから始めて、何とかスキャンし終えたのだが、まだ北海道に置いていたフィルムがある。そこには、北海道と北アルプスなどの山々のフィルムが大量に残っているのだ。
 この冬は、今までのミャオを相手にしていた代わりに、スキャナーを相手にしようと覚悟を決めて、こちらに戻ってくる時に、そのポジフィルムも別便で送っておいたのだ。

 そして、正月のころから意を決してスキャン編集作業取りかかった。
 確かにそれは、スキャンして画像が現れてくるたびに、その鮮やかさと新たな発見に声をあげたくなるほどなのだが、それにしても時間がかかりすぎる。
 スキャン作業そのものもだが、その後の、明暗などの補正作業や、さらにやっかいなのが、フィルムについたゴミ除去作業である。
 ブロワーで吹きはらっても取れないフィルムのゴミは、スキャンする時に指定して併せて取ることもできるのだが、不完全だし、時間も余計にかかる。そこで、スキャンの後の写真の編集作業で取ることになる。

 今は、jpeg (ジェイペグ)からの画質が落ちることを承知の上で、スタンプ・ツールによるゴミ取りをしているのだが、大きく伸ばして見ると、小さいゴミがあるはあるは厳密に取っていけばきりがないほどだ。
 そうした作業が、一枚一枚と続いていく。そんな手の込んだ家内制手工業に、一日中かかわっていられるのは、私のようにヒマな人間だけだろうが。
 しかし、この写真フィルムのデジタル化再現と保存については、私と同じように昔のフィルムをたくさん抱え込んでいて、スキャンするべきか悩んでいる人たちも多くいることだろう。もっと簡単に変換できるものは作れないのだろうか。

 いつか山小屋で隣同士になった若い男と話していた時に、彼は私の息子くらいの年だったのだが、父親が死んだあと、遺品を整理していて、ダンボール箱いっぱいのネガフィルムが出てきて、処理していいものか困ったといっていたのを思い出した。

 そういえば、私の母の遺品は、着物などの衣類を除くとわずかなものだった。もっとも、いまだにそれらのものを処分できずに、そのままにしているのだが・・・。

 ともかく、母と比べると今の私の持ち物の多いこと・・・、それも数ばかり多くて大して価値のない本に雑誌、レコード、CD、録画DVD、ビデオ、カセット、そのほか資料としてため込んだ書類ガラクタの数々・・・。
 世の中には、そんな私のようにため込む一方で、片づけられない人々が多いのだろうか、何年ごとかに、整理片付けの本がベストセラーになっているのだ。

 話がそれてしまったが、写真フィルムの話に戻ろう。
 今やっている、フィルム・スキャン編集作業は、その出来上がり画像を見るのが楽しくて、何とか続けられるのだが、じっとパソコン画面を見ての作業で、ひどく目が疲れるし、椅子に座り続けて肩はこるし、外にも出ないから体に良くないことは確かだ。

 ・・・暗い部屋の中で、そこだけが明るく、白髪の老人が背中を見せて大鍋で何かをぐつぐつと煮詰めているらしい。
 おじいさん、と声をかけると、こちらに振り向いて歯の抜けた口を開けてにっと笑った。
 鍋の中で煮られていたのは、ねじれ曲がり色あせた写真の数々だった。よく見るとそれは、私の子供のころの、若者になってからの、彼女と一緒の、山の頂上での写真の数々だった。
 駆け寄ろうとすると、その老人が再び振り返って私を見た。
 その目からは涙がひとしずく・・・どこか見覚えのある顔は・・・私だった。
 ・・・明け方の夢の一場面。

 またまた、話がそれてしまった。フィルム・スキャンばかりやっていてどうも疲れているようだ、次の話に進もう。
 その時々のテレビ番組や本についての話は、長くなるので次回以降にするとして、今回はいつも今の時期に書いている、この一年で買ったクラッシックCDの中から選んだ、私なりのベスト盤についてである。

 毎年書いているように(’12.2.5の項参照)、昔と比べれば今ではもう、新しい演奏家たちの動向や新録音などには余り注意を払わなくなり、従って購入するCDも評価のある再発ものばかりになる。
 この一年とうとう新発売物は一枚も買わなかったし、総計でもわずか8点にすぎない。
 ただし箱ものセットものばかりだから、合計では50枚ほどにもなる。
 それもハズレで、後悔するほどのものは一つもなかった。その上、とにかく安い、今後は円安に向かうだろうから、輸入盤CDの安値の時代ももう終わりだろうが。

 上の写真にあげたように、ベスト3は以下の3点である。

1.”THE ITALIAN COLLECTION” 演奏 ザ・シックスティーン COROレーベル 5枚組 4990円

 (自分たちのレーベルからの販売で、廉価盤(れんかばん)としては高めの値段だが、何よりも演奏が素晴らしい。
 このザ・シックスティーンは、もともとイギリスものには定評があったのだが、ここでは、ルネッサンスからバロックに至るイタリア宗教音楽の数々を見事なハーモニーで聞かせてくれる。
 特にアレグリの「ミゼレーレ」は今まで極め付きの一点であると思っていた、タヴァナー・コンソートのものに勝るとも劣らない美しさだ。
 このハリー・クリストファーに率いられたザ・シックスティーンは、あのタリス・スコラーズと双璧を(そうへき)なす声楽アンサンブルであり、私としては他には一枚のCDしか持っていなかったので、この箱ものを見つけた時は嬉しかった。)

2.”RENE JACOBS EDITION” 演奏 ルネ・ヤーコブス他 SONY・DHMレーベル 10枚組 2490円

 (ベルギー出身の名カウンター・テナーで指揮者、音楽学者でもあるルネ・ヤーコブスの、モンテヴェルディからバッハに至るバロック宗教音楽集であり、特に絶頂期のものが集められていて、さすがに一時代を切り開いた歌手だったと、今さらながらに再認識するばかりである。
 この中の2枚はすでに持っているものだったのだが、迷わずに買ったほどの値段の安さ・・・もともと古いクラッシック音楽の演奏に、古い新しいはないはずだ。良いものは良い。)

3.”MONTEVERDI MADRIGALI” 演奏 アンソニー・ルーリー指揮ザ・コンソート・オブ・ミュージック EMI・VIRGINレーベル 7枚組 1890円

 (小編成の器楽と声楽のアンサンブルが素晴らしく、一世を風靡(ふうび)したコンソート・オブ・ミュージックの、バロック初期の巨匠モンテヴェルディ(1587~1643)のマドリガル全集である。そのうちの3枚は持っていたのだが、値段の安さに思わず買ってしまった。
 ヨーロッパには、ルネッサンス・バロック期をレパートリーにした優秀な声楽アンサンブルが多いのだが、それにしてもこのコンソート・オブ・ミュージックをはじめ、ザ・シックスティーン、タリス・スコラーズ、ヒリヤード・アンサンブル、タヴァナー・コンソート等々、どうしてイギリスにかくも多く生まれたのだろうか。
 そのひとつ前の世代として、古楽演奏の新たな地平を切り開き、若くして亡くなったあのデヴィッド・マンローやデラー・コンソートのアルフレッド・デラーなどがいたからということも言えるだろうが。)

 そしてフィルム・スキャン後の仕事である、単調な編集ごみ取りの時にも、こうしたCDを聞きながら作業し続けているのだ。
 うまく仕上がらない時でも、心がイライラしないように、美しい山の景色を眺めていた時と同じように、心穏やかになれるようにと、美しいハーモニーの合唱曲を聴いている・・・。

 ある時、私は考えたのだ。

 ひとりになって寂しくなったという前に、実は、そのひとりだけの静けさを私は求めていたのではないのかと。
 この家で、北海道で、山の上で、私はひとりでいることにひそやかな喜びを感じているのではないのか。
 昔の彼女たちも、母も、ミャオさえもそんな私の思いをどこかで感じ取っていたのではないのか。
 それだから、彼女たちは母はミャオは、それぞれに静かに私の前から姿を消していったのだ。
 年を取った今、確かに寂しさを覚える時もある。
 しかし、ひとりでいることは、私が長年求め続けてきたものだ。
 それがかなえられた今、私はなぜに寂しいなどと言えるだろうか。
 むしろ、今ある何もない穏やかな日々に感謝すべきなのだ。
 こうして生きながらえて、望んでいた静かな暮らしができているのだから・・・。
 それまでに多くの迷惑をかけてきた彼女たちに、母に、ミャオに・・・、
 私の周りを取り巻いているすべてのものに・・・神に、感謝すべきなのだ。
 いつかは迫りくるだろう死を認めながらも、おびえることなく生きていくこと。
 やがては来る死があるゆえの、生の喜び・・・私は今その中にいるのだから。

 こうして、自らを励ますこと・・・。


    冬の日
       ――慶州仏国寺畔にて

 ああ知恵は、かかる静かな冬の日に

 それはふと思いがけない時に来る

 人影の絶えた境に

 山林に

 たとえばかかる精舎(しょうじゃ)の庭に

 前触れもなくそれが汝(なんじ)の前に来て

 かかる時、ささやく言葉に信をおけ

 「静かな眼 平和な心 そのほかに何の宝が世にあろう」


(三好達治詩集 『一点鐘』より 日本文学全集 集英社)