ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

本願他力

2013-01-10 18:15:59 | Weblog
つよい 


 1月10日

 それにしても寒い。
 いかに山の中にあるとはいえ、この九州の家はなんと冷え冷えとしていることだろう。
 昔作りの家で壁が薄いうえに、窓枠も木製の一枚ガラスだから、連日-5度以下まで下がる外の冷気がそのまま伝わってくる感じなのだ。

 そして、暖房器具はポータブルの灯油ストーヴと小さな電気ストーヴにコタツだけだから、その一部屋だけは何とか昼までには温まるが、他の居間などはいつも10度以下というありさまだ。
 そのために、家の中にいるのに、服装は厚着の冬山装備と変わらない。もっともそれだから、外に散歩に出る時には、改めて着込む必要はない。頭に毛糸帽子をかぶり手袋をすればいいだけだ。
 あーあ、あの暖かい北海道の家に戻りたい。まったく暖かいはずの九州にいて、一体なんのこっちゃ。

 自分で建てた北海道の家は、丸太づくりで窓も手製の二重ガラスだから断熱効果もあって、夏涼しくて冬は暖かい。
 冬の間もずっといた時、あの薪(まき)ストーヴが燃え盛る家の中は、15度から20度を超えるくらいはあって、その温度では北海道の人は寒いというけれど、私にはちょうど良い暖かさだったのだ。   
 そこで小さくバッハの曲なんぞを流しながら、本を読んだり、うたた寝をしたりしてぐうたらに過ごしていたのがなつかしい・・・。

 ところが、ここ九州では、テレビの置いてある暖房のきいた一部屋にいることが多くて、散歩以外は外に出ることもなかったこの年末から正月だったから、ミャオのいない寂しさを感じつつ、ついテレビばかり見ては、時にうたた寝をして、目が覚めれば腹がすいて何かをつまんでは食べと、まさしくあのブリューゲルの『怠け者の天国』の絵のように、ぐうたらに過ごしていたのだ。
 「小人閑居(かんきょ)して悪をなす」ほどではないにしろ、自分にとってはまさしく悪夢のごとく、瞬時に過ぎ去ったひとりだけの日々だったのだ。
 老い先短い年寄りなのに、あーゴホゴホ、貴重な時間を無駄にしおってからに、このうつけものめが・・・。

 とはいっても、思えば、テレビを見てはそれなりに笑い感心し納得したところもあったのだ。
 まず第一にあげたいのは、ミャオのいない正月に、ミャオの在りし日の姿をしのぶことのできる番組があったのだ。
 NHK・BSの『岩合光昭の世界ネコ歩き』シリーズの再放送を含む三本であり、それぞれイスタンブールやイタリア、ギリシアなどの町に住むネコたちの生態と、人間たちの関わり合いが心なごむ映像として映し出されていた。
 こうして、ネコを愛する人々が世界中にいるわけだから、世界に争いなんか起きるはずはないと思うのだが・・・。

 それにしても、このシリーズのようなビデオ映像作家としての岩合光昭もいいのだが、本来の動物写真家としも素晴らしい写真がある。おなじみのあのアサヒ・カメラ1月号の付録、ネコ・カレンダー『猫にまた旅 2013』が、今年は復活したのだ。
 去年、そのネコ・カレンダーが中止されたので、もう今後は立ち読みだけにしようと思っていたのに、やはりおなじみのものが見られるとあって、私は本屋で即座に買ってしまった。
 本誌の巻頭を飾る、篠山紀信先生の30ページにも及ぶヌード写真など、私にはどうでもいいことだ。それよりはもっとネコの写真を、あるいは山岳写真を見たいところなのに。
 ともかく今回のあのネコ・カレンダーは、表紙裏表紙ともにいいのだが、極めつけは最初の1月の一枚、ハクチョウが群れる水辺を背景にして、雪の上に座るネコの姿・・・。
 素人が撮れる写真ではない、さすがはプロと誰をもうならせる一枚だ。

 さて話が少しそれてしまったが、私が見たテレビの番組に戻ると、これもまた再放送だが、NHK・BSの『フローズン・プラネット』。1時間番組で6回までもあり、南極・北極の四季の自然と生きものたちの生態を描いたイギリスBBCの、まさに芸術的なまでのドキュメンタリーだった。
 おそらくは、今後とも私が見ることもないだろう、人間以外の生きものたちが生き生きと暮らす極地の大自然の姿。
 これこそが、人間がいない本来の地球のあるべき姿なのかも知れない・・・。

 そしてさらに、これも再放送のシリーズものだが、BS‐TBSでの『ドナルド・キーン先生』のシリーズである。
 その3本のうちの、若い作家、平野啓一郎との対談の回だけは少し違和感が残ったけれども、他のドキュメンタリー風にまとめたものは、先生の考え方と人となりを表していて、時には胸が熱くなる思いだった。
 ドナルド・キーンという名前は、日本に国籍を変えたアメリカ人としてニュースになって有名にもなったが、もともとコロンビア大学教授というだけでなく、外国人として、いや日本人を含めても、有数の日本文学評論家であり、私も彼の本を2冊持っているほどだし、いまだに日本の古典・中世・近世文学について教えられることも多い。
 また、あの「レコード芸術」誌で長年、巻頭の連載ものを書いていたほどの、メトロポリタン・オペラの愛好家でもあり、評論家でもあるのだ。
 番組の中で、東南アジア旅行の際、たまたま乗ったタクシーの中で、聞こえてきたのはあのパヴァロッティの歌うドニゼッティの『連隊の娘』の中のアリアであり、嬉しくなって、そのオペラ好きの運転手と一緒になって歌う姿が何ともほほえましかった。

 私にも憶えがある。若き日のヨーロッパ旅行で、チェコから当時の東ドイツに向かう列車の中で、居合わせたチェコ人のおじさんおばさんたちと一緒に、声を合わせてあのモーツァルトのオペラ『魔笛』のなかのパパゲーノのアリアを歌ったことがあるのだ。
 オペラ好きな人と、ネコ好きな人たちが手をつなぎ合えば、世界から争い事は消えてなくなるのではないのか・・・。

 さて、そのオペラだが、前回にもあげた例のミラノ・スカラ座公演のもので、あの老境に差しかかったドミンゴが歌うヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』と豪華歌手陣によるワーグナーの『ローエングリーン』は、録画しただけでまだ見ていない。4時間近いオペラを見るにはそれ相応の覚悟がいるからだ。

 歌舞伎は少なく、例の京都南座での、父勘三郎の訃報(ふほう)を受けての勘九郎襲名披露公演の『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』では、勘九郎の熱演はさすがだが、どうしても亡き父親との大きな差を思ってしまう。
 続く顔見世大歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』からの五段目、六段目では、勘平役の片岡仁左衛門はさすがに上手いものだった。
 楽しみにしていたあの斧(おの)定九郎の登場場面では、中村橋之助はしっかりと役を演じ切っていたが、見方にもよるのだろうが、私はどうしても、あの梅玉の姿がちらついてしまうのだ(’10.3.19の項)。
 さらに新春初芝居として、大阪松竹座からこれまた猿之助襲名の『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』からの『狐忠信(きつねただのぶ)』の一幕と、新橋演舞場の『仮名手本忠臣蔵』からの七段目があり、寺岡平右衛門役をはまり役の中村吉右衛門が勤め、最後の締めで由良之助役の松本幸四郎が登場するという兄弟共演の華やかさだった。

 映画に関しては、高倉健主演の日本映画を二本。
 一つは、昭和41年制作の『昭和残侠伝・唐獅子牡丹(からじしぼたん)』。なんとあのNHKでヤクザ映画が放映されたのだ。
 私が、健さん主演のヤクザ映画を見始めたのは、もっと後になってからのことで、このシリーズ第2作などの初期の作品は見ていないから、後の作品を思い出して比べてはいろいろと興味深かった。
 そして、この後シリーズの監督は何人か変わることになるれども、義理と人情に縛られてやくざ渡世を生きてきた、健さんふんする花田秀次郎が、その足かせを解かれて、より重たい人情義理のために、こみ上げる思いを秘めて殴り込みに行くというパターンは、こうした初期のころから確立されていて、以後のシリーズを貫くより強い柱になっていくのだ。
 さらにそんな強いヤクザ組織に、たった一人で立ち向かう健さんの姿が、絶対的な既成社会・国家そのものに不満を抱いていた、当時の若い世代に受けただろうことは、この映画からも容易に理解できる。
 それにしても、まだ健さんは若いし、後の映画での、返り血を浴びて顔面蒼白(そうはく)になり、刀を握りしめた指を片方の手でほどいていくほどの迫力はない。
 つまり映画としてはそれなりの評価しかできないが、このシリーズものが、やがて次第に完成されたホルムになっていくのを思うと、感慨深いものがある。

 次の一本は、山田洋次監督による『遥かなる山の呼び声』(昭和55年)である。
 この映画の題名は、あの有名なアメリカ西部劇『シェーン』(1953年)のテーマ曲名から取られているのだが、しかしさすがは山田洋次監督である、単なる『シェーン』の焼き直しではない。
 主人公を早打ちのガンマンから、ケンカには強いが過去をもつ陰のある男に替えて、同じ孤独の思いを抱く牧場主の母子との、心の触れ合いに力点をおいた人情物語として描いているのだ。
 そういえば、決闘シーンが有名な痛快名作西部劇であると思われているあの『シェーン』でも、一方では見逃されがちな点だが、その流れ者の男に心ひかれる母子と夫をも含めた、四者の微妙な関係が見事に表現されていたのだ。

 夫に先立たれて、まだ小さい子供とともに毎日乳牛の世話の仕事に追われている倍賞千恵子の女牧場主のもとに、ある日、高倉健の流れ者が仕事を求めてやってくる。
 そして、この牧場で必要な男手として働くことになり、いつしか3人の間に家族に似た思いが芽生えていく。しかし、ある日、男の過去が明らかになり、彼女のもとを去っていくことになる。
 しかしもう、二人の思いは離れがたいものになっていた。そして・・・走る列車の中で、感動的なラスト・シーンが待っていた。

 私は、胸を押さえてはとめどなく流れ落ちる涙をぬぐった。
 母が亡くなり、そしてミャオが亡くなり、その時以来となる嗚咽(おえつ)が私の口からもれ出てきた。
 何という、予期しない涙のひと時だったことだろう。
 今、私に何が足りないのかがよく分かった。どうすることもできないけれど。
 そんな感情の嵐が過ぎ去った後、私はしばらく何も考えられなかった。
 そして、立ち上がり、食事の支度を始めた。何事もなかったかのように、毎日を続けていくだけなのだが・・・。

 私はこの映画を、ずいぶん前に一度見ているし、その時にもやはりテレビでだったと思うが、思わずほろりとはしたが、涙を流すほどではなかった。
 当時、私には、親しくつき合っている女性がいた。
 しかし、その相手からの思いやりの気持ちが、当時の私には、時には小うるさく感じられるほどだった。
 そうした愛に満たされた富者のおごりの中で、私には、後の自分である哀れなラザロを思いやり同情する気持ちなどなかったのだ。(新約聖書『ルカによる福音書』第16章参照)

 ひとりになって、今にして気づくことがあまりにも多すぎる。何度も書くことだが、人は他人に同情するだろうが、実際は自分の身に起きて初めて、すべてのことに気づくのだ。
 それは学ばれることなく、いつしか忘れ去られて再び繰り返される。そうしたものなのだろう、自分が主演の、人生ドラマとしては。

 話が感情的になり大きくそれてしまった。この映画に戻ろう。
 主演の二人と後の『北の国から』の純で有名になった名子役の吉岡秀隆を含めて、それぞれがピタリとはまったキャストになっていた。
 前回、時代劇でのセリフまわしで文句をつけたあの高倉健の朴訥(ぼくとつ)な口調は、ここではむしろ、役どころに合ったものとして生きてくるのだ。他に誰がこの役を演じきれるだろうか。
 倍賞千恵子も、あまり色気のない顔で、仕事に追われて必死に毎日を送る姿をよく表わしていた。
 ただしその彼女に横恋慕(よこれんぼ)する、中標津(なかしべつ)の三兄弟の登場は、昔の日本喜劇映画の名残りふうで、多少マンガ的に過ぎるところもあるが、その男(ハナ肇)こそがその感動的なラストシーンを演出するのだ。
 さらにいえば、北海道のきれいな牧場風景だけではなく、汚れた牛小屋や当時の貧しい農家の室内風景などが、見事に現実感あふれる背景として描き出されていた。前回書いた、あの『武士の一分』での装置小物などの配慮と同じように。

 そこで、その『武士の一分』と同じ東北の小藩を描いた時代劇として、先日始まったばかりのあのNHKの大河ドラマ『八重の桜』についても一言ふれておきたい。
 それは、今の東北を考えるのにふさわしい幕末の会津藩での物語であり、出演者たちの会津なまりのセリフやしっかりと時代考証された舞台背景など、さすがだと思わせるところが多いのだが、ただカメラは前回書いたようにまだ気になるところがあるとしても、初回を見た限りにおいてだが、言えるのは音楽がうるさすぎるということだ。
 これではまるで、白黒フィルム時代の無声映画の劇伴音楽ではないか。それほど場面場面の表現に自信がないのだろうか。音楽でわざわざ説明しなければならないのだろうか。
 あの坂本龍一作曲の音楽だけに、もったいない才能の浪費だと思えてしまうのだ。責は当然、彼にあるのではないが。

 すべからく、映画ドラマに限らず、映像と音楽の関係をもっと考えるべきだと思う。
 私の好む映画は、見え見えに作られたドラマではない。私の望む映像と音楽の関係は、今そこにあると思わせるリアリズムに基づいて撮られた映像と、人間の内にある感情として聞こえてくる音楽である。
 静寂の中で、人々の言葉だけが響いていき、後は沈黙が続いて事態の重さを伝えている、そんな現実の時だけが流れていく・・・そして、時折、登場人物たちの感情の揺らぎを、音楽が効果的に伝える・・・。

 あのイングマール・ベルイマンやアンドレイ・タルコフスキーの映画のように。
 あるいは、セリフを極端に減らして、映像と音楽だけに語らせるとか・・・たとえば見事な映像詩になっていた『ピロスマニ』(1978年)や、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番」があまりにも美しかった『みじかくも美しく燃え』(1967年)のように。
 音楽でさらに思い出すのは、あの『ピアノ・レッスン』(1993年)の中で、主人公の彼女の思いを伝えるかのように繰り返し流れたマイケル・ナイマン作曲のテーマ曲・・・。

 もっともこれは1年も続く連続ドラマなのだから、そんな映画のようにはいかないのだろうが、私が映像と音楽の関係で唯一感心したドラマは、あの『北の国から』である。
 沈黙の時間の間(ま)がいかされ、自然の音が聞こえ、幾つかのテーマ曲だけが重要ななシーンで流されていた・・・。

 この『八重の桜』の時代に聞こえていたのは、もちろん西洋風の音楽などではないし、当時の音曲三味線などがもれ聞こえていたことを除いて、風などの自然界の音と、人々や家畜たちのざわめき、そして静寂だけ、つまりより静かな昔の日本だったのではないのかと・・。
 日本映画で、私が気になるのは、余分なセリフ、余分な説明、余分な音楽である。静寂と間(ま)の大切さを知っているはずの国民なのに・・・。

 話がまたもそれてしまったが、ともかくこの私の鬼の目に涙だったから言うのではないが、この『遥かなる山の呼び声』が前回あげた『武士の一分』とともに山田洋次監督の名作の一つであることに間違いはない。


 ひとり散歩しながら、あらためて考えてみた。
 自分の若いころ・・・こうと決めたことには、他人の忠告は聞いてもそれに従うこともなく、ただ一途に思い込み、がむしゃらに突き進んできたような気がする。
 そして、ある時はうまくいって成功の美酒に酔い、またある時はみじめな失敗の辛酸(しんさん)をなめ、繰り返してはそうした人生の裏表を学んでいく・・・つまり若いころには、前を向く自分の目で見えているものがすべてだったのだ。

 しかし、あまりにも手ひどく失敗して立ち上がれない時や、あるいは心身ともにひどく傷ついた時、さらには様々なことに悩み苦しむ時、それは老若男女にかかわらず誰にしもあることだが、そうした時に何か自分を励ましてくれるものはないかと探したくなり、確かなものによる救いの言葉がほしくなるのだ。
 そうした人々のために宗教は生まれ、今もそれ相応の人々に信じられているのだ。
 宗教はまさに、ささやかな幸せの中に満ち足りている善男善女のためにあるのではない。いわんや、若さの絶頂に酔いしれている人々や栄耀栄華(えいようえいが)の中にある人のためにあるのではない。
 ただ、その他の、多くの不幸な人々のためにあるのだ。

 イエスはこれを聞いて言われた。

「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」

 (新約聖書『マルコによる福音書』第2章より 日本聖書協会)


 「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ、信心を要とすと知るべし。その故(ゆえ)は、罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)を助けんがための願にてまします。」

 「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。・・・。
 その故は、自力作善の人は、ひとえに、他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず、しかれども、自力の心を翻(ひるがえ)して、他力を頼み奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。」

 (『歎異抄』第一部より 「日本古典文学全集」 小学館)


 宗教が救おうとしたのは、こうした悩み多き罪びとたちである。
 しかるに、現代科学は、容赦(ようしゃ)なきまでにこれらの宗教の矛盾点を白日(はくじつ)の下にさらけ出し、人々は次第に、昔の時代のままの非合理的な宗教のもとからは離れていったのだ。
 しかし時代は変わっても、今もなお、意識するかしないかは別にしても、悩み苦しむ罪びとたちが数多くいることには変わりはない。 彼らは、今どこに救いを求めるのか。

 誤解なきよう言っておくが、私は何も、宗教に帰依(きえ)することを勧めているわけではない。
 私自身、どこかの宗教に入信しようなどという考えはさらさらない。
 ただ言えることは、古くから教え伝えられてきたものの中には、それは宗教に限らず、伝統や芸能、文学などの中に、時代を超えて変わらぬ人々の心根(こころね)を伝える真実が含まれているということだ。
 それは人間としての、あるべき姿としての倫理観の礎(いしずえ)となるものが示唆(しさ)されているような・・・。

 つまり、こうして老いさらぼえたジジイ姿の今になってから言うわけではないが、若き日の過ちを後悔し、自分の心変わりだけで何人かの娘たちを泣かせてきたという過去に悩む、私のような罪ある人間たちにとってこそ、宗教的な倫理観の救いが必要なのかもしれない。
 私が古い時代のものにひかれるのも、古典文学や古典芸能にひかれるのも、そこに描かれた悲劇の物語の中に、若き日の自分の姿を投影させては、心のうちで懺悔(ざんげ)しているからなのかもしれない。

 新年の始めから、あまりにも気が重たくなるようなテーマをあげてしまった。
 年を取ると、心身ともに自分の弱さが見えてきて、涙もろくなり、一方ではそんな弱気な自分を隠すために、意固地になりガンコなジジイへと変わっていくのだろうが・・・。

 私は散歩に出かけた高台の所で、山の端に沈んでいく夕日を見つめながら、自分に言い聞かせた。
 母がいなくなり、ミャオがいなくなっても、ひとりでもしっかりと生きていくんだからと。
 世の中には私よりもつらい思いをしている人がたくさんいるはずだし、私なんか、ちゃんとこうして日々何不足なく食べて生きていけるだけでも、幸せな方なのだと・・・。


 ここまで、ただ感情のおもむくままに書き連ねてきて、どうも脈絡に乏しい文章になってしまったが、これも私の日々の備忘録としての、このブログにはありがちな、私の今の思いとしてふさわしいものなのだろう。
 2週間も間が空いて、もっと書くべきことはいろいろとあったのだが、長くなったので、ここまでにしておこう。

 写真は、たまたま湯布院の町はずれを通った時に、赤く燃える夕映えの由布岳の姿が印象的で、思わず写した一枚である。
 山はこうして、何も語ることなく、自然の中で日々、おのれの姿をさらしているだけなのだが・・・。