ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

夕映えの久住山

2013-01-22 06:58:26 | Weblog
 

 1月21日

 一昨日、久しぶりに山に行ってきた。目的は夕映えの雪の九重の山々を眺めることにあった。

 その九重の山からは比較的に近いところに住んでいながら、今まで、朝焼けや夕映えの山々の姿を見に行くことができなかった。
 それは、日帰りで十分な山域だからであり、さらにはミャオにやる魚の時間を守らなければならなかったからであり、その前の母がいたころは、遅くなって心配をさせたくなかったからだ。

 しかし今は、ひとりになってしまった。
 これからは、好きな時間に自由に山に行くことができるのだが、そうなればそうなったで今度は、すっかりぐうたらになってしまって、なかなか重い腰を上げる気になれないのだ。
 人の思いとは、えてしてそういうものなのだ。それまで長い間どうしても欲しかったものが、いつでも簡単に手に入るようになった時には、あるいは忙しくて自由な時間がほしいと思っていても、いざ使い切れないほどの休みの毎日が与えられたりすると、人はそれを目の前にして、かえってとまどい尻込みしたりするものだ。

 私はまだ、ミャオがいないひとりの生活には、十分になれていないのかもしれない。時には独りごとで、ミャオの名前を呼んだり、散歩に出れば、そこここの陰からミャオが出てきたりするのではないかと思ってしまうからだ。
 というわけで、今いかに自分のためだけの毎日であるとしても、私はいまだに過去の日常にとらわれいて、足を踏み出せないでいるのだろう。

 2か月前にこの家に戻ってきて、以後、春までに予定されている幾つかの用事をすませるためでもあるのだが、それは緊急を要するほどのものではないし、むしろひとりっきりの毎日をいささかもて余すほどだった。
 そこで、何かをしなければと思い、二つの大きな買い物をした。その後で、それらの対応にいささかの時間を要し、退屈するどころではなかったのだ。

 一つは、冷蔵庫である。それは15年目を迎えて、まだどこも悪いところもなく元気に動いていたのだが、耐用年数10年を超えていることも気がかりだし、もし私のいないときに壊れたら悲惨な状態になるだろうことを考えると、やはり買い換えないわけにはいかないのだ。
 大型家電量販店に行くと、ちょうど展示品限りの品物があって、通常価格よりはるかに安く、即決で買ってしまった。
 しかし、二日後に運ばれてくると、狭い台所には何とか入ったものの、ドアが開かない。
 あーあ、「安物買いの銭失い」という言葉が頭に浮かび、思案に暮れたが、必要な隙間はほんの1~2cmくらいだ。
 それから必死になっての大工仕事で、周囲の板壁などを切り取っては、何とか使えるようになったのだが、もし母さんとミャオがいたならば、二人とも「言わんこっちゃない」と、遠巻きにして、翌日まで続いた私の奮闘ぶりを見ていたに違いない。
 ともかく、台所はさらにきゅうくつになったが、一件落着だ。それに、大きくなって使いやすくなったうえに、電気使用料金は安くなるし、あわせて運転音の静かなこと・・・。

 次に新しいパソコンに買い替えた。5年前に買ったWindowsビスタは、使い慣れてはいたが、より新しいWindowsのほうが使い勝手がよくなっているし、メモリーやHD容量も比べ物にならないほどの性能である。
 もちろんそれは、秋に発売されたばかりのWindows8ではない。その前の7なのだが、これまた旧モデルということで、処分品のお買い得品だった。
 私がパソコンを使うのは、このブログと検索や調べもの、そして山の写真整理・鑑賞くらいなものなのだが、ともかくこの新しいパソコンは、動作が速くなり、画面もきめ細かくなったことで、もう大満足だった。
 もっとも、前のパソコンからの引っ越しや、新たなソフトのダウン・ロードなどに数日もかかってしまうほどだった。
 しかしその後で、またもやありがたいことには、この新しいパソコンの動作環境がさらによくなることがあったのだ。

 それは、新しいモバイル・ルーターに変えたからだ。
 新製品への乗り換えを勧めるダイレクト・メールが来て、ルーター本体価格も実質的にはゼロに近く、通信料金ともに安くなるとのことで、前回に初めてルーター契約をしてから2年ちょうどだったので、解約違約金も払わずにすむし、区切りがよかったこともある。
 それで嬉しいことに、通信速度が2倍にアップされて、クリックしてから画像が現れるまでの時間が、すぐにと言えるほどまでになったし、なんと動画が、途中で止まることなく見られるようになったのだ。
 しかし一方では、今までのインターネットの使い放題から制限つきになってしまったが、それは昨今の、急激にふくれあがったスマホ通信量抑制とも関係があるのだろうが。(私はスマホは持っていないのだが。)
 ともかく、2年1か月前までの、仕方なくダイヤル接続で、気長に画面が現れるのを待っていたころと比べると、なんと夢のような速さだろう。

 もっとも、もう何年も前から光通信を使っている都会の人々にとっては、ふた昔も前の通信速度で喜んでいる私を見ては、「ばっかじゃないの」と思うのだろうが。
 そういえば、昔、あるクルマ評論家が、ある特集月刊誌の中で、あの大衆車カローラの新型車について「4,5年も乗ったポンコツから買い替える人にとっては、さぞやありがたい最新車に見えるだろうが、クルマとしての面白みが全くない。」と書いていた。
 その評論家は、庶民には一生手の届かない、外国有名スポーツ・カーの愛好家だった。
 私はその時、中古のカローラを買うために、数年前の雑誌でその評価を調べていたのだ。その後、私は迷うことなく6年前の中古のカローラを買った。

 彼が言おうとしたことも、分からないではない。
 『猫に小判』『豚に真珠』『シーザーのものはシーザーに』ということなのだろうが、それにしても、彼の言葉は場所をわきまえていないし、そういうことは、それなりの高級車専門雑誌で言うべきことであり、何も一般雑誌の特集記事に書くべきことではないと思うのだが。
 それぞれの人に、今の自分に見合った楽しみがあり、それを山登りに例えて言うのなら、「百の頂(いただき)に、百の喜びあり」(深田久弥)ということなのだから。

 九重の雪山のことを書こうと思っていたのに、話が余計なところへとそれてしまったが、それも私のまっすぐには歩けないいつものクセなのだ。
 毎日の出来事は、それだけが別々に区切られてあるのではなく、さまざまに関係しあった時間の中に流れているのだから。

 さて、今や時間に縛られずに山に行けるようになった私にとって、もう何回となく登っている冬の九重の山だが、思えばほとんどは日帰りばかりで、朝夕の赤光に輝く雪山の姿はあまり見ていないのだ。
 山がもっとも美しいのは雪に覆われた冬、それも白い山肌が、朝夕の鮮やかな光に染め上げられる時だ。
 今までにも数多く見てきた、快晴の青空の下の白雪に輝く山々の姿も、言うまでもなく素晴らしい。
 しかし一方で、朝夕の赤く燃える雪の山々の姿にも強くひかれてきたのだ。北海道の山々、北アルプス、中央アルプス、八ヶ岳などの思い出に染まった幾つもの山々・・・。

 これからは、できることならば、昇る朝日や沈む夕日に照らし出されて、その一瞬にだけ赤く美しく変容する山の姿を、なるべく多く見ていきたいと思う。
 始まるひと時と、終わるひと時・・・それは人生の、始まりと終わりに似て・・・。

 そういう思いを持って、私は夕日の九重を見に行くことにした。
 10cmの積雪があった日は、道の状態もさることながら、まだ雲が多くてとても出かける気にはならなかった。その次の日は、午前中まで同じような天気が続いていたが、午後になってから一気に天気が回復してきた。
 急いで支度をしてから家を出た。雪の残る道のあちこちには、いつものことだが、冬タイヤでないうえにチェーンをFF車の後輪につけた雪道になれていないクルマが、数台ほど路肩に落ちたり立ち往生したりしていた。

 牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、朝のライブ・カメラで見る限りでは、休日ということもあって満車状態らしかったが、今の時間では、もう登山を終えて帰る人が多く、あちこちに空きが見えていた。
 4時前に、登山口を出る。まだ残っている霧氷のトンネルになった道を、人々が次々に下りてきていた。
 西の空に雲があり、そのために少し日が陰っていたが、このぐらいの雲があるほうがいい、夕日の時にはきれいな夕焼けになるだろうからと、あまり気にもならなかった。
 沓掛山(くつかけやま、1503m)の稜線を行き、少し下る途中で一人そしてもう二人と出会ったのが最後だった。後はもう誰とも合わない、私だけの静かな山だった。なるほど、こんな時間に来て山に登るようにすればいいのだ。

 ただ、思ったほどに雪は積もっていなかった。20cm位だろうか、これでは上の稜線での雪景色にも期待が持てず、シュカブラなどもできていないのではと、逆に心配になってきた。
 ただし、踏み固められた道は、溶けてぐちゃぐちゃになったところもなく歩きやすかった。それまでに出会った人はほとんどが軽アイゼンをつけていたが、それほど滑りやすく危険な所があるわけでもなく、10本爪アイゼンはザックに入れたままだった。
 扇ヶ鼻(おうぎがはな)分岐あたりまで来ると、風が強くなってきたが、雪も少ないからブリザードで雪が舞い上げられることもなかった。それより気になるのは次第に迫ってくる夕日の時間だ。

 足早になって歩く西千里浜の火口原あたりからは、久住山の鋭角の頂が見えてくる。
 真冬の一番いい時には、道の両側にはシュカブラが発達して、時折、雪煙を巻き上げるその中に白い久住山が見えてきて、いかにも冬山らしい景色になるのだが、残念なことに、今回はあまりにも雪が少なすぎる。
 夕日に照らし出された雪の溶けた岩塊斜面を上がって行くと、星生崎(ほっしょうざき)下のコブ(1660m)に出る。
 そこからは眼前にさえぎることなく、九重山(くじゅうさん)の本峰、久住山(くじゅうさん、1787m)を見ることができる。(写真上)
 その後ろ遠くには祖母山(1756m)が見え、上空の雲が茜(あかね)色に染まっていた。しかし惜しいかな、あまりにも雪が少なく、前景に入れたいシュカブラもなく、何よりも山腹のまだらの斜面が目立って、久住山そのものがあまり赤くは染まらなかった。

 とはいっても、さすがは晴れた日の夕焼け空だ、いつまでも地平上に残る赤い帯の色が素晴らしい。
 茜色の縁取りの下、霞(かすみ)たなびく上に、阿蘇山の根子岳(1433m)と高岳(1592m)のシルエットが浮かび上がり、遠く脊梁(せきりょう)山地の国見岳(1739m)も見えていた。(写真下)

 

 じっと立ったままで写真を撮っていると、風が吹きつけてきて寒さがしみ込んでくる。5時半には陽は沈んでしまい、峰々の頂は青白く色あせていた。
 帰りは早い、誰もいない雪道をひとり急ぎ足で戻って行く。空には三日月が出ていて、星も輝き始めていた。
 月明かりと雪明りで、道は見えていたが、次第に高低差の見分けがつかなくなってくる。ザックから、ミニ・ライトを取り出したが、何度スイッチを押してもつかない。(家に戻って調べてみると、長い間使っていなかった電池の液漏れだった。反省。)
 あきらめて、そのまま歩いて行くことにした。昔の人は、こうした月明かり、雪明りの中を歩いていたのだと思いながら。
 幸い危険な個所はないが、白い雪の色に溶け込んで段差がわからない。こんな時に持っていたストックが役に立った。
 目の不自由な人が使う白いステッキの必要性がよく分かる。自分の歩く足の前に差し出して、障害物や段差の有無を知ることができるからだ。

 7時少し前に、牧ノ戸峠のがらんとした駐車場に戻ってきた。車は他に一台あるだけで、おそらくは、久住分かれか御池の避難小屋に泊まり、朝焼けの山々を見ようと、あるいは撮影しようとする人だろう。
 ぐうたらな私には、それだけの準備をして、小屋泊りをするだけの根性もなかった。
 クルマに乗って、再び凍りつき始めた山道を走って、暗いわが家に帰り着いた。玄関のドアを開けても、ニャーと鳴いて迎えてくれるミャオの姿はなかった。

 今回の山登りは、往復わずか4時間ほどの軽い雪山ハイクにすぎず、それも雪が少なくて、期待していたほどの雪山の夕景の姿を見ることはできなかった。
 まあそれは、何事も思いついてやってみて、すぐにその望みがかなえられるはずもないということであり、これからも何度となく試みていれば、いつかは思いにかなうその時が来るということなのだろう。
 人はこうした希望を持ってこそ、明日へと生きていけるのだ。

 私は、今まで弱気な気持ちになっている人たちに、それではいけないと明日に向かっての励ます言葉をかけてきた。
「生きていれば、生きてさえいれば、きっと何かいいことがあるんだから」と。
 しかしそれは他人に言う言葉である前に、むしろ自分に向けての励ましの言葉でもあったのだ。

 そこで思い出したのは、去年の12月に、あの赤穂浪士討ち入りの日にあわせて放送された、NHK・BSの”BS歴史館”である。そこでの歴史学者二人を交えての話は、初めて知ることなどもあって興味深く見ることができた。
 というのも、日本人たる者、あの源義経や織田信長、そしてこの”忠臣蔵”の赤穂義士などの話ならば、どんなことでも繰り返し聞きたくなるからだろうが、この番組では、残された重要な資料でもある、各人の家族にあてた手紙の内容が披露されていて、それが情に動かされる人間らしくて、興味がさらにつのることになる。
 中でも番組の最後のほうで、討ち入り後の事後談として紹介された、内蔵助(くらのすけ)の妻りくの手紙が強く心に残った。

 大石内蔵助は、心ひそかに討ち入りを決めた後、その後のことも考えて家族に災いが及ばぬようにと、妻りくを離縁して、子供ともども妻の実家のある丹後に返していた。
 そして、その討ち入りにより主君の仇討(あだうち)が成し遂げられた後、四十七士全員への切腹の沙汰(さた)が下されたのはともかく、それぞれの縁を切っていた家族にまで厳格な処置が及ぶことはなかった。
 それどころか世間では、赤穂浪士たちが亡くなった後も、その評判は上がるばかりであり、それを聞いた赤穂浅野家の本家でもある広島藩は、討ち入りの年に生まれた内蔵助の三男、大石大三郎が12歳になるのを待って(長男主税はともに切腹、次男は若くして亡くなっている)、親であった大石内蔵助の、その播州赤穂藩城代家老の禄高(ろくだか)と同じ、破格の1500石をもって召し抱えた。
 その時にりくが書いた手紙が残っているのだ。

「年月の憂きことも忘れて喜んでおります
 ひとしおひとしお、ありがたき幸せ
 これも内蔵助のおかげで
 本人も本望でありましょう

 とかく人は息災(そくさい、無事なこと)
 命ながらえ候(そうろう)こと肝要(かんよう、大切なこと)に御座候(ござそうろう)」



(追記) 『好事魔多し』というべきか、この新しいパソコンでの使い勝手が良くなり、いい気分でブログ記事を書いていたのだが、一方でこの新しいルーターでは通信量制限があって、前のようにインターネットつなぎっぱなしにはできないので、接続を切ってワードだけで書いていたのだが、いざ書き終わって完成し投稿ボタンを押したところ、ネットにつながらず原稿は消えてしまった。
 接続を切っていたことを忘れていたのだ。あ然として、画面を見つめるだけ。 
 このブログを書き始めたころは、二三度そんなことがあったのだが、このgooブログの保全性能も良くなり,最近そんなことはなくなっていたのに。
 使い放題ではなくなったルーターが悪いというよりは、私の注意が足りなかっただけのことであり、誰が悪いわけでもなく深く反省するばかりだ。
 それが時間の無駄になったのか、改めて考えて書き直すためには良かったことなのか・・・。
 という訳で、この記事は21日遅くまでかかって書き直し、投稿したのは22日早朝ということになってしまった。
 大した記事でもないから、改めてここにその遅れた言い訳を書く必要もないのだが・・・私の性分とでも言おうか・・・。