ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(223)

2012-04-15 18:16:13 | Weblog
 
 
 4月15日

 ワタシは、一日のうちのほとんどの時間を寝ている。そして、いつも夢を見ていた。

 ・・・天気のいい日だった。飼い主と一緒に散歩に行った。今と違って、若いころには、飼い主と一緒にずいぶん遠くまで行ったものだ。所々で立ち止まっては、他のノラネコや、獣たちの臭いをかぎながら、飼い主の後を追い、時にはワタシが先になって、急な坂道を下りて行った。下りきった先には、今ではもう誰も住んでいない家があって、辺りは藪におおわれていた。
 小さな庭先には、赤い花が咲いている大きな椿の木があって、その下には飼い主が座るにはちょうど良い岩があった。ワタシはその藪の辺りの臭いをかいで回り、しばらくして戻ると、飼い主の姿がない。
 ひとしきり鳴いて飼い主を呼ぶが、いつもの呼び返す声も聞こえない。その時、藪の後ろの方で、ガサリと音がした。素早く振り返り身構えると、そこには何匹かのネコたちがいて、ワタシに鳴きかけている。母さんネコや兄弟ネコ、あまり会うこともなかった父さんネコ、それに飼い主がいなかった冬の間を地区のポンプ小屋でともに過ごした、ノラネコ仲間たち・・・。

 ワタシが小さく鳴きかわしてそちらの方へ行こうとすると、後ろで飼い主の呼ぶ声が聞こえた。
 「ミャオ、ミャオ出ておいで。ほらサカナだよ。」
 ワタシは、ニャーオと鳴いてコタツの中から出ていく。しばらくはボーっとして座ったまま思い返す。何という夢だったのだろうか。あのまま、みんなの呼ぶ声にこたえて、行っていたとしたら・・・。

 相変わらず食欲はなく、水を飲んで生きているだけなのだが、それでも死にたくはない。飼い主ともっと一緒にいたいのだ。


 「このところ、天気の悪い日と良い日が交互に繰り返す、春らしい空模様の日が続いていて、ひと雨ごとに目に見えて緑の色が増えてきた。何よりもすっかり春の暖かさになってきた。
 庭先には、沈丁花(じんちょうげ)の甘い香りが漂い、水仙の花が咲き、椿の花が鈴なりになって咲き始め(写真)、白いコブシの花は満開になり、またシャクナゲの大きなつぼみも赤くふくらんできた。毎年気になる家のヤマザクラの木は、平年よりも遅く昨日ようやく開花したばかりだ。
 まだ枯葉が散り敷いている足元からは、いち早く咲くハコベやオオイヌノフグリに混じって、ヒゴスミレの花も咲き始めた。それもシロバナではなく、ベニバナヒゴスミレだ。そういえばおそらく今頃、阿蘇・九重・由布などの火山性の高原や裾野では、辺り一面が黄色いキスミレの花に被われていることだろう。

 もうずいぶんの間、山に行っていない。2カ月近くも山登りから離れたことは、私としてはきわめて稀なことだ。どこか体が悪かったわけではないし、山への思いが薄れたわけでもない。
 ただ、いつものぐうたらな中年オヤジの性癖(せいへき)が表れただけに過ぎないのだが、もっとも今の時期の九州の山歩きには、ふもとのヤマザクラや黄色いマンサクの花を見に行くぐらいしか楽しみがないからでもあるが。
 あの北海道や本州の山々には、これからが楽しみの残雪の山歩きがあるというのに・・・。
 そしておそらくは、この春の北海道での残雪の山歩きは、あきらめるしかなさそうだ。いつもなら今頃九州を離れて、北海道へと戻っているころなのに。あのぼろい、しかし愛着のある私の丸太小屋は、今どうしているだろうか、まだこの冬からの雪に囲まれたままで・・・。

 しかし今、私にはミャオがいる。それも、よれよれに年老いたネコだ。しかし、輝く残雪の山よりも、薪ストーヴの煙が上がる丸太小屋よりも、今私が居るべきなのは、ミャオのそばなのだ。
 思えば、実に好き勝手に生きてきた私、自分だけの時間を良きにつけ悪しきにつけ味わい尽くしてきた私が、それ以外のために、たとえば母のためにあるいは今のミャオのために、そばに居てともに過ごしてきた時間など、取るに足りない短さでしかなく、何の親孝行にも、何の恩返しにもなってはいないのだ。
 極端に言えば、母は私を育てるために死んでいったのであり、ミャオは私を見守る役目を終えて、これから死のうとしているのだ。しかし、私はいまだにひとり立ちできない情けない男であり、ミャオにはまだまだここにいて、私を見守っていてほしいのだ。
 
 そのミャオは、今、驚異的な生命力で生き続けているのだ。エサを食べなくなってもう1カ月にもなる。それまでは、夕方に出してやる10cmほどのコアジを一匹、さらに一日でキャットフードを大さじ一二杯、そしてミルクを少々というメニューだったのに。
 当時の体重は3.8キロもあったのに、今は2.5キロしかない。顔の周りはそれほどやせたとは見えないのだが、何といっても体周りの激やせぶりは見るも哀れであり、その姿のままでもう1カ月近くにもなるのだ。食べるものは、散歩に出た時の草と、夕方のナマザカナをなめて、その中の一切れ1cmくらいをやっと食べるだけ。

 それだけではやはり心配なので、横になって寝ている時に、前に動物病院の先生にもらった栄養補助液を一滴、ミャオの口元に垂らす。ミャオはなんだと頭をあげて、ぺろりと自分の口の周りをなめるというネライなのだが、半分くらいはうまくいかずにこぼれたり、ミャオがいやがり起き上がって、コタツの中に潜り込んだりしてしまうだけなのだ。
 ミルクは少しなめたり、全然見向きもしなかったり、水はしっかり一日3回ほど飲んでいる。そしてちゃんと歩いて、外でシッコもしているが、ウンチの方は完全な便秘で、固く乾燥したものが1週間に一度出るか出ないか。

 さらにミャオは、天気の良い日は外の草地でじっと寝て過ごし、天気の悪い日はコタツの中で寝て過ごして、夕方には少しサカナを食べた後しばらくして、私が体をマッサージしてやると、目を細めて小さく鳴くのだ。それが終わると、黙って私をじっと見る。

 最後まで看取(みと)ることとは、無理な医療を施さず、こうしてミャオを安心させて傍にいてやることなのだろう。

 先日、買い物のついでに本屋に寄って、前々回から書いてきた中村仁一医師(1940~)の著書、『大往生したけりゃ医療とかかわるな・・・自然死のすすめ』(幻冬舎新書)を買ってきて、次の日に一気に読み終えてしまった。
 その中で彼は、私たち中高年世代が、常日頃から疑い考えあぐねていたことに対して、医者としての経験による見事な切り口で、明確な答えを与えてくれたのだ。
 そこに書かれているのは、テレビ番組で見た時と同じ話なのだが、時にはユーモアたっぷりに(私は何度も声をあげて笑ってしまったが)、老人たちの死に逝(ゆ)く現実を目の当たりに見せてくれる。
 死を恐れるな、死に逝くことに慣れておけ、死ぬ時はガンにかかり、延命治療を拒否して、餓死(がし)という自然死の形が最も良いという彼の主張には、まるで残りの人生を悟ったような潔(いさぎよ)さと、たとえば今の若い研究者や著作者たちにありがちな打算や気負いのない、年寄りのすがすがしい思いが見られるのだ。 
 
 つまりそこには、日本人だからこそ強く共感できるような、仏教・神道・儒教の思想を併せ持った死生観があり、西洋人に訴えるために書かれたあの新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862~1933)の『武士道』にも通じる思いがあるのだ。
 誤解されないように言えば、これはあくまでも中高年者たちの死に逝く時のための覚悟を喚起した本であり、今の若い人たちにすすめるべき本ではないということだ。なぜなら、若い人たちこそはこれからの長い人生のために、病気の早期発見に留意し、医学の進歩を良く理解して、その最新治療の恩恵を受けるべきだからである。

 それにしても、常日頃から死に逝くことを考えてきた私だが、この中村医師の話には、新たな地平を見た思いがしたのだ。そうだったのかと。
 しかし併せて考えてみれば、日ごろからひとりで行動することの多い私には、傍にいるミャオの生き方と相まって、それはあらためて得心するほどのものではないとも言えるのだ。ただ、彼の医学的な見識によって、さらなる追認をしたのは確かである。
 
 それでも、そうして自分の行く末に何らかの光明を見出したことで、後は後顧(こうこ)の憂いなく、自分の時間をさらに味わい尽くすことができるというものだ。

 ミャオが、今の病にかかった時、私は予期していなかったミャオの死が近いことに愕然(がくぜん)として慌てふためいていたのだ。しかし、ミャオは急に死んでしまうことはなかった。私に心の準備を与えるために、ゆっくりと時間をかけて私に死に逝く姿を見せているのかもしれない。
 私は今は、ミャオを病院に連れて行った時ほどには、思い悩まなくなってきた。それは、死に逝くだろうミャオを傍でずっと見ているからだ。ミャオの最後の教えとして受け取るべく・・・。

 それに比べて、わずか半日足らずで逝ってしまったあの母の突然の死が、いかに私にとって大きな衝撃となって残ったことか・・・。

 夕方になって、ミャオが外から帰ってきた。ニャーオ。おーよしよし、帰ってきたか。サカナをあげるからね。」

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