ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(224)

2012-04-22 18:21:17 | Weblog
 

 4月22日

 ワタシは、ずっとコタツの中で寝ている。昨日は、一日中、強い風が吹きつける音が聞こえ、夕方からは屋根に叩きつける雨の音も聞こえていた。
 ワタシはあいも変わらず、何も食べる気がしない。ただ、一日に二三度、水を飲むだけだ。今、自分が生きているのは分かるけれど、何もする気がしないし、何も考えたくはない。時が過ぎていくのを、じっと見まもっているだけだ。その先にあるものへと、ワタシも一緒に、ただ身を任せてゆくだけ・・・。
 
 昨日の朝には、もう風が吹き始めていたが、まだ日も差していた。飼い主が、ずっとコタツの中にいるワタシを心配して、外に出るように誘った。
 ワタシはそれに応えて、ふらつく足取りで外に出た。生温かく少し冷たい外の空気が、ワタシを包みこむ。
 足元には、桜の花びらが散り敷いていた。見上げると、あれほど見事に咲いていた満開の桜は、今やその半分以上が散ってしまい、緑の葉が目だって増えていた。
 ワタシは、前に飼い主がつぶやいていた、一句をふと思い出した。

 「散る桜、残る桜も散る桜」


 「今日は、朝には雨も止み、午後になると昨日のあらしが嘘のように風も収まり、木々の枝葉もぴたりとそのままで動かない。ただ、庭一面に桜の花びらが散り敷いていて、椿の木の周りには、重たい花びらごとに積み重なっている。
 梅の花が終わり、桜の花が終わり、いつの間にか沈丁花(じんちょうげ)の香りも消え、椿の花は盛りを過ぎ、ただ、庭の一か所だけが、あのシャクナゲの大ぶりで鮮やかな花々の周りだけが、余りにも明るい。
 ウグイスが、のどやかに鳴いている。

 花の季節は巡り、次の季節へと受け継がれていく。命の連なりの時間は、また命が消え行く時間の連なりでもあるのだ。

 ミャオが、エサを食べなくなってもう一カ月と一週間、病院での一週間の点滴治療からミャオを引き取って、三週間、始めはほんの一口だけ食べていた魚も食べなくなり、ミルクも飲まずに、つまり水だけしか飲まなくなって一週間がたつ。
 何とか食べさせようとして、いつも食べていたサカナの、さらに腹の部分だけを細かく切って出したり、高齢猫用のパック詰めのやわらかいキャットフード、マタタビ、温めたミルク、薄めたスポーツ・ドリンク、グレイプシード・オイルなども出してみたが、全く食べようとはせず、抱え上げて無理に口に入れようとすれば死力を尽くして暴れるから、横になっているすきに、口元に栄養補助液を一滴たらすのが関の山。しかし、今ではそれも察して、コタツの中から出てこないというありさまだ。
 病院に行って、点滴を打ってもらえば、その一日だけは幾らか元気を取り戻すだろうが、たとえば前回のように、一週間入院しても、次の日からまた同じ状態に戻ってしまう。つまり、一日ごとの延命処置にしかならないのだ。
 それではと、さらに入院させて徹底検査をしてもらったところで、弱っている上に高齢の体ではとても手術どころではないだろう。

 いろいろと考えたあげく、それなら、今までここに書いてきたあの『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者、中村医師の言うように、こうして家に置いたまま見守ってやるだけで、結果的に餓死(がし)させるという結果になっても仕方ないのかとも思い、しかし答えは出てこない。

 もう長い間、私もぐっすりと眠れない日々が続いている。時々、ミャオが夢に出てくる。というよりは、昔そうであったように、ミャオを探し歩いている夢だ。ミャオ、ミャオー。周りに人がいれば、大きな声は出せない。あちこちの物陰をのぞいて歩く。
 ミャーゴ・・・確かに聞こえた声は、起きてみると、隣の部屋のコタツの中で鳴いているミャオの声だったのだ・・・。
 
 気持はふさぎこんでしまい、何もする気にならない。パソコンでウェブの情報を見たり、今までの山の写真を見たり、録画していた番組を見たり、ぐうたらに一日を過ごしてしまう。庭仕事も、遠出の散歩も長続きしない。

 こんなことではだめだと、自分の励ましにもなるような本を開いてみる。『自助論』(サミュエル・スマイルズ 竹内均訳 三笠書房文庫)。
 『天は自ら助くる者を助く』という出だしで有名なこの本は、明治時代に『西国立志編』という和訳名で出版されたものの原本であり、あの『ニュートン』誌の編集長であり、有名な地球物理学者でもある竹内均氏のやさしい語り口と同じような、分かりやすい訳文で、これまたあの『大往生したけりゃ・・・』と同じく読みやすい本である。
 
 『・・・外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間を励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度が過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである。・・・』

 そして思い出したのは、前にもあげたことのある『ささやかながら、徳について』(アンドレ・コント=スポンヴィル 中村昇他訳 紀伊国屋書店)の一節である。

 『・・・私たちの徳の大部分は人間だけに向けられる。それがこれらの徳の大きさであり限界でもある。
 これに対して同情は、苦痛を感じるすべてのものに普遍的に共感する。
 私はそう信じているが、私たちが動物に対して幾つもの義務を負うとすれば、それは何よりもまず同情によってであり、同情においてであろうし、まさにそれゆえに同情は、私たちもろもろの徳のうちでおそらくもっとも普遍的なのだ。動物を愛することも動物に誠実さや尊敬の念を示すこともできよう。・・・』

 しかし、私がミャオに対していかに誠実に対処した処で、それがミャオの命を縮めたのだという結果になったとしたら・・・再び私は、母が亡くなった時のように、またつらい思いを持ち続けることになるだろう。
 どのみち、人生では生きることも死ぬこともつらいのだ。それだけの喜びがあるとしても・・・。」

 『・・・天空は永遠に青く、大地はいつまでもゆらぐことなく、春になれば花が咲きほこる。
  だが人間よ、おまえはどれだけ生きられるのか。百年もない期間、この世のはかないことを楽しむのにすぎない。
  ・・・。
  生は暗く、死も暗い。』

 (グスタフ・マーラー 交響曲『大地の歌』第一楽章より 李白(りはく)の漢詩に基づく、音楽の友社刊『名曲解説全集』より) 

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