4月8日
辺り一面に、暖かい日差しが降りそそいでいる。ワタシは、生垣(いけがき)のそばの草地で横になっている。時々、風が通り過ぎる。朝にはあちこちで鳴いていた小鳥たちの声も、今は聞こえない。
たまに、道を走る車の音が聞こえ、ワタシはうつらうつらしていた頭を持ち上げる。周りに動くものの気配はない。目を閉じ、再び頭を横にして寝る。
このところ天気のいい日が続いていて、ワタシは朝から夕方まで、ここで横になってじっとしている。家から少し離れた所にある、今は誰も住んでいない家の庭の片隅である。ここには誰も来ないし、他のノラネコや鳥たちでさえ来ない、静かなワタシだけの場所だ。
相変わらず、ワタシは何も食べないで、水だけを飲んで生きている。夕方になって、日が陰り肌寒くなってくると、飼い主に迎えられて家に戻り、ストーヴの前で横になる。夜には温かいコタツの中に潜り込んで、朝までそこで寝ている。
確かに、今ワタシは、やっと生きている感じだ。しかし、こうして体が弱った時には、誰も来ない隠れ場でただじっとして、体の回復を待つことが何よりも大切なことであり、それはワタシが子供のころに母さんネコから教わったことであり、またワタシたちネコ族の防御(ぼうぎょ)本能の一つでもあるのだ。
それでも回復しなければ、その時はもうじたばたしても始まらない。結局は時の流れの中に、私の命が消えていくように、静かにその時を待つだけのことだ。そうして今まで、多くのネコたちは最後を迎えたのだ。
母さんネコや兄弟ネコたち、そしてワタシをこの家に迎え入れ可愛がってくれたおばあさん・・・みんなそうして、向こうの国へと逝(い)ってしまったのだ。ワタシも順送りに、その道を歩いて行くだけのことだ。
そして、こんなワタシを、今になってもじっと見守っていてくれる、やさしい飼い主が傍にいるのは、どれほどありがたいことか。長い歳月を、互いに歩んできた多くの思い出とともに。
ただ気がかりなのは、私が逝ってしまったら、飼い主がひとりで残されることだ。昔はその鬼瓦(おにがわら)顔が怖ろしくもあったが、今ではめっきりと涙もろくなってしまい、体のあちこちに老いの影が忍び寄ってきているからだ。
ただそれも、人の世の、生きものの世の理(ことわり)であり、残されたものは悲しみ、そしてまた自分も同じ道をたどって行くだけのことだ。ワタシがそうして死んでいくことは、後に残る者たちへ一つの死に方を見せることにもなるだろう。いつかは来る、この世との別れの時のために・・・。
ワタシは夢を見る・・・時の流れのように穏やかな小川が流れていて、その緑豊かな岸辺には、色鮮やかな様々な草花が咲き乱れている。その後ろには母さんネコや、おばあさんがいてワタシを呼んでいるような・・・。
「庭の梅の花がようやく満開になったが、その上に伸びる桜の枝はまだ固いつぼみのままだ(写真)。今年の春は、やや気温が低めだけれども、天気の良い日が続いている。この2週間、雨が降ったのは二日、それも午前中までには上がってしまうにわか雨だった。
それならば、できる仕事もいろいろとあっただろうが、私がやったのは、すでに枝葉を切り落としていた直径30cmほどもある古い木を切り倒して、その幹を切り分けてベランダの下に運び入れ、倉庫にあった1年分の新聞紙や雑誌などをまとめてかたづけ、ペンキ塗り替えのために倉庫の屋根の上にあがり掃除をしたくらいのものだ。
ミャオがそんな状態だから、買い物以外にはどこにも出かける気にもならないし、落ち着いて本を読む気にもならない。こんな時には単純な作業をするにかぎる。私は、前に書いたフィルムのスキャン作業、つまり昔、中判カメラや一眼レフで撮ったポジ・フィルムをデジタル・データに変換させるという、機械的な作業に没頭していた。
そして、その九州での山の写真の100本分ほどのデータをパソコンに取り込み、またDVDに録画した。昔プリントした写真に比べて、変換の時に画像の明暗などの手も加えられるし、何よりもはるかに大きな液晶画面でくっきりと見ることができるのだ。今さらながらに、科学技術の進歩の恩恵をありがたく感じている。
これで、北海道の家に置いてある、北海道や南北アルプスなどの山々の、数百本ものフィルムのデジタル・スキャンが楽しみになってきた。
まずはミャオの病状次第なのだが、今年もまた北海道の家に戻るのは、もう何度も登ってきた北海道の山々にまた登るためにというよりは、こうした昔の山の思い出に会うために帰るような気もしてきた。
若者は思い出をつくるために生きていき、老人は思い出にすがるために生きていくのだ。
そして今、私がむきになってまで、そうした昔の思い出を甦(よみがえ)らそうとしているのは、間違いなく、ミャオとの思い出が終焉(しゅうえん)を迎えるだろうことを考え恐れているためでもある。人は怖い時に、何かにすがりたくなるものだ。
その昔、私を暖かく、あるいは厳しく迎え入れてくれた山々・・・、また若き日の私をやさしく、時には激しく迎え入れてくれた娘たち・・・、そして、母とミャオ。
ミャオはまだ、必死に生きようとしている。病院での手助けを断った今、私ができるのは、いつもそばにいてやさしくなでてあげ見守ってやることくらいだ。それでも、これでいいのだろうかと思いながら・・・。
しかしミャオは弱ってはいるが、苦しんではいない。
前回書いたように、病院からミャオを引き取ってきたのだが、その後も一切食べようとせず、水を飲むだけでさらに一週間がたった。点滴を受けていた期間を除けば、もう1カ月近くもこうした状態なのだ。そこで、町のホーム・センターに行って、さまざまなネコの食べ物を買ってきて目の前に置いたのだが、ミャオは顔をそむけるばかりだった。
数日前のこと、いつも食べていた生魚のコアジの、腹の部分をさらに小さく切って、傍にはマタタビの粉を置いてやってみたところ、何とピチャピチャ音を立ててなめ始め、その一つを口に入れて噛み砕き食べたのだ。
私は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
実はその傾向は、その二日前からあったのだ。つまりその日に、これも久しぶりに、ミルクを少しなめていたからだ。これで、ミルク、サカナとくれば、ミャオはきっと回復していくに違いない。
世の中には20歳を越えて生きているネコもいるし、ミャオはまだ17歳で、人間で言えば84歳くらいだもの、せめて母が亡くなった年(それでもまだ早すぎる死だったという後悔が今も残るが)、その90歳にあたるくらいまで、もう2年くらいは生きてほしいと思う。
しかし、その喜びもつかの間だった。それから数日たった今、やはり前のようにしっかりと食べることはないのだ。サカナは、なめた後ほんの一切れ、1cmほどの肉身をやっと食べるだけ。体は、まるで断食をしている僧のように、下腹が大きく落ちくぼんでしまい、起き上がる時には少しふらつくほどだ。それでも自分で歩いて外に行き、トイレもしてくるのだが・・・。
しかし今、ミャオは必死に生きようとしているのだ。何とか、自然の治癒(ちゆ)力で、自分の病を治そうとしているのだ。人間のように、決してあきらめ、絶望したりはしないのだ。
あの哲学者キルケゴール(1813~55)は、『・・・絶望者が自分の自己を失ってしまうこと・・・それが死に至る病であり・・・死は病の終局ではなく、死はどこまでも続く最後なのである。』(『死に至る病』キルケゴール 桝田啓三郎訳 ちくま学芸文庫)と“死に至る病”について説明しているが、果たして固有である自分自身だけを考え、死についての哲学的な論理を構築していくこと、そして神の救いの可能性を求めることが、今生きるものたちへの積極的な手助けになるのだろうか。
ミャオは、決して死に至る病に取りつかれているわけではなく、あくまでも生の方へ目を向けているのだ。ただ本能的に生きたいだけであり、私にはむしろその姿にこそ、生きものとしての生の根源的な意味を見る思いがする。
そして、前回書いたように、あの老人ホーム診療所々長の医師であり、自らも病にかかっている中村仁一氏の言葉にこそ、死にゆく者への誇りある思いが見えてくる。
ともかく、ミャオが必死に生きている今、ワタクシはここで余り多くのことを書く気にはならない。ただ最後に、トマス・インモース氏(1918~、ドイツ文学者)の言葉だけをあげておきたい。それは私自身への思いでもあるのだが。」
『私には、(残りの生において)たったひとつだけの願いがのこされた。私の残された生を、できるだけ意識的に経験し、そして楽しむことである。
美しき宇宙万物、文学・美術・音楽といった人間文化の価値を感得させてくれた私の生命を、私は愛する。その生を、ゆっくりと楽しむ。死の時まで少しも急ぐつもりはない。死は、明日、突然訪れるかもしれぬ。それも構わない。今の今、生を存分に経験し、楽しんでおれば、死を恐れる必要はなかろう。』
(『死ぬための生き方』新潮45編 新潮文庫)