ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(147)

2011-09-24 21:55:50 | Weblog


9月24日

 拝啓 ミャオ様

 天気予報などを見ていると、九州ではまだ28度位の暑さの残る日が続いているようだし、それにもかかわらず、朝の冷え込みはもう一桁近くまで下がっていて、寒がりのオマエにはつらいことだろう。それで私が思い出したのは、こんな季節の変わり目の時に家にいたころ、オマエがよく明け方前になって、私の布団にもぐりこんできたことだ。
 その時には、わずらわしいと思っていたことでも、他に誰もいないないひとりっきりの時に、ふと思い出としてよみがえってくる。こうした小さな出来事は、時折思い返すか、あるいはその時だけの出来事として忘れて去ってしまうかである。
 つまり、そんなことを思い出したのは、いつも私が、オマエのことを気にかけているからなのだろう。

 そして、この北海道にも、一気に秋がやってきた。昨日今日の朝の気温は、9度、日中でも15度位までしか上がらず、ストーヴをつけようかと思ったほどだが、室内はまだ暖かく、靴下をはいてフリースの上着を着込めばそれで十分だ。
 二日前には、北海道の最高峰、大雪山旭岳(2290m)での初冠雪が観測され、反対側の黒岳近くにある石室(いしむろ)小屋では2,3cmの初雪があったそうだ。その辺りの紅葉は、もう盛りを過ぎる時期だったのだろうが、ひと時の初雪とのコントラストはさぞやきれいだったことだろう。

 私は、数日前に、その大雪の山々の紅葉を見に行ってきたばかりだった。
 それで今年の紅葉はどうだったのかと聞かれると、いつものように『きれいでした』と答える他はないのだ。それは、紅葉の盛りの判断がきわめて難しいから、私が見たのがベストだったかどうかは分からないのだ。
 つまり、登山者にとっては、その紅葉の期間中、毎日毎時間その場所を見られるわけではなく、日にち時間場所によって大きく違うこともあるからだ。ある人にとっては、最高の紅葉にめぐりあったとしても、日付や場所が変わればそれほどでもないだろうし、その逆に、良くなかったという人がいても他の日や場所によっては、きれいな紅葉だったということになるのかもしれない。
 もし、毎年の山の紅葉の具合を比較的に正しく判断できる人がいるとすれば、十年二十年とその時期にその場所に居続ける人、山小屋の管理人とか、写真などで毎年長期間滞在する人に限られるだろう。すぐに思いつくのは、あの涸沢カールにある二軒の山小屋からの紅葉の便りであり、それは稜線にある南岳小屋のウェブサイトとともに、私たち紅葉好きの登山者にとっては、ありがたい情報源になっている。
 一方、この大雪山でも、旭岳側、層雲峡側の両ビジター・センターからは、日ごとに変わる山の様子が報告されていて、そのサイトの写真を通して、紅葉の進み具合を知ることができる。
 さらには、『イトナンリルゥ』という、大雪の山々を愛するTさんによる(その彼女の毎年の夏から秋にかけての行動にはただ頭が下がるばかり)、きわめて詳細な信頼性の高い個人サイトもあって、さらに付け加えて姿見の池からのライブ映像とあわせれば、私たち登山者は大雪山の紅葉情報には恵まれているといえるだろう。

 とはいっても、山の紅葉の様子を判断するのは、もちろん自分が現地を歩いて見てのことだ。そして今回の、大雪山の紅葉登山では、どうだったのか。
 夜明けのころにクルマで家を出て、2時間余り走って大雪湖のレイクサイトに着き、シャトルバスに乗り換える。駐車場の車も数もそれほどではなく、バスも満員にはならなかった。前には何度か、遠く離れた所に車を停め、バスも増発の2台目に乗っていたこともあったというのに、連休のはざまとはいえ、天気もいいのに、思ったほどには混んでいなかった。
 どうも、今年の登山者の減少傾向は、大震災のこの春から続いているらしい。最も私には人が少ないほどありがたいのだが。

 終点の銀泉台(1517m)でバスを降りて、20分ほど歩いて、溶岩台地斜面の第1花園を眺める展望地点に着く。三脚のカメラを構える人たちも少ない。それで、今年の紅葉はどうだろうか。胸ときめく瞬間だ。
 ほぼ毎年、20年以上も同じ光景を見続けて来た私にとっては、色合いが今ひとつとか、まだ少し早いとか遅いとか、なかなかこれ以上はないというほどの紅葉にはめぐり会えないのだが(例えば’09.9.20の項参照)、今年も橙色が多く赤が足りない気がした。それでもそれなりに、十分にきれいな紅葉風景だった。(写真上)

 この流れ落ちる紅葉斜面の後には、ちゃんと背景になる山々の姿がなければならない。今日も、左側のニセイカウシュペ山(1879m)から平山(1711m)にかけての山なみがくっきりと見えていた。その山肌もまた黄色くなっているのが分かるけれども、遠めにも色づき具合は今ひとつという感じだった。
 そのうえに、残念なことに、上空は天気予報ほどには晴れていなくて、この後も薄雲が広がったままで、陰影に乏しかった。

 斜面から台地上に上がると、紅葉の主力であるウラジロナナカマドは、黄色のままや茶色に枯れたものもあり、一方ではきれいな橙色に色づいたたものもありと、様々だった。コマ草平を過ぎて、このコースの次の紅葉のポイントである第3雪渓の斜面が見えてきた。
 ここは、少し枯れ始めているものがあるにせよ、全体的に見れば、今が盛りといっていいほどに見事だった(写真)



 何枚もの写真を撮った後、少し冷静になって見てみれば、欲を言えばの話だが、上空の青空と光に乏しく、今ひとつくっきりとした景観になってはいなかった。まるで貼り絵のような色彩の鮮やかさだけは、目に残ったが。

 最後の斜面を登りきり、赤岳(2078m)に着く。ここまで何度も立ち止まっては、写真を撮ってきたからとはいえ、3時間近くもかかってしまった。20人ほどの人たちが、休んでいた。誰もいない岩の上にあがり、周りの山々を眺めた。
 西側には、眼下の雄滝の沢をはさんで、いくらかの残雪を見せて白雲岳(2230m)の東峰がせりあがり、その右手奥には、旭岳(2290m)が見えている(写真)。



 夏に白雲岳から見た時の、旭岳のあの鮮やかな残雪模様(8月12日の項)は殆んどが消えていて、次に雪に被われる日を待つばかりのようだった。(この二日後、頂上部が初雪に被われたのだ。)
 北側には、青空も広がり、その下には北鎮岳(2244m)から凌雲岳(2125m)、烏帽子岳(2072m)、黒岳(1984m)と並んで見えているが、今登ってきた方向には少し雲がかかってきていた。
 風が冷たく、ここで長袖の上にパーカーを着て、手袋をつけて、小泉岳へと向かう。銀泉台からこの赤岳まで登り、同じ道を戻る人が多いが、シャトルバスが出ているこの時期こそ、いつもはできない縦走のチャンスなのだ。
 さらに黒岳へのロープウエイとリフトを使えば、層雲峡口、銀泉台口、高原温泉口の三つを組み合わせ、逆も併せて六つものコースを取れるのだ。

 今回は、小泉岳から緑岳へとたどり、そして高原温泉へと下りることにした。それは縦走の稜線歩きというよりは、高低差の少ない高原歩きといったほうがよく、厳冬期をのぞいていつの季節でも、天気良いの穏やかな日を選べば、気持ちの良い展望コースになるだろう。
 特に夏の時期は、高山植物を見ながらの観察コースになるし、今の時期には、ウラシマツツジなどの地を這う紅葉を前景にして、空気が澄んでよく見える周りの山々を眺めながら歩いて行ける、私の好きなコースの一つなのだ。
 その道を、私は飽きることなく、毎年繰り返しているのだ。
 
 もともと私は、北海道そのものの気候風土が好きになって、移住してきたのだが、もちろんそこには山登りがその目的の一つとしてあり、さらにその山々の中でも、どちらかというと、この大雪山よりは、日高山脈の山々に憧れていたのだ。
 その日高の山なみは、あの北アルプスや南アルプスに匹敵するほどの、百数十キロもの長さにわたって十勝平野の彼方に連なっている。高度は2000m前後に過ぎないのに、北国の山らしく氷河地形の名残である幾つものカールを抱き、登山道も少なく、原生林に被われた秘境の山々なのだ。
 そして、そんな山々の姿を朝な夕なに眺めるのが、私のここに住むことの第一の目的だった。それがかなうと、次は目の前に見える山々に登ることである。

 この20年ほどの間に、その日高の山々の幾つもの頂きに立ち、その頂上での私だけのひとりっきりの展望を楽しんできた。登山道をたどって、ある時は沢登りで、そしてヤブこぎの縦走で、または残雪期の雪を利用して、あるいは厳冬期の深い雪の中など、いつも単独で登ってきた。今にして思えば、危険と隣り合わせの、無謀な行程もあったのだが、元気なだけは十分にあったあのころに行っていてよかったと思う。
 いうまでもなく、年を取り、体力が衰えてくると、自分に甘くなり、無理をしたいとは思わなくなってくる。そして、年ごとに日高の山に向かう回数が減ってきて、その代わり、幾らかは安全で楽に登れる大雪山系の山々に向かう回数が増えてきた。(最も全体的にいえば、一年に登る山の回数そのものが減っているのだが。)
 ともかく、いつかはじっくりと、この北海道の二大山系である大雪山と日高山脈について、私なりにこのブログでいろいろと書いてみたいと思っている。
 ただいえるのは、今、私がこうして秋の大雪山を目指してやって来るのは、そんな体力的な面からだけでなく、日高山脈は全体的にダケカンバ帯が稜線近くまであり、ナナカマド類が少ないから、大雪山系の山々ような鮮やかな赤色に被われるほどの山はなく、紅葉の名所といえるような所は、沢沿いに限られるからでもあるが。

 さて、雲は出ていたが、風も余りなく、高原状になった小泉岳からの道をゆるやかに下って行く。彼方には、遠くトムラウシ山が見えている。この緑岳へと向かう灰色の礫地(れきち)帯には、午後の逆光に照らされて、ウラシマツツジが、道の所々を赤くふちどっていた。
 それぞれ単独らしい登山者が、私を含めて数人、適当にポツリポツリと離れて歩いている。静かだった。みんな山が好きなのだ。

 緑岳の頂上からは、岩塊帯の下りになる。そしてハイマツ帯のトラバースを抜けると、夏には鮮やかなお花畑になる草原を下って行く。道の傍に、わずかにミヤマリンドウの青い小さな花が幾つか咲いていた。いつもは海老茶色のじゅうたんになる(’08.9.27の項)チングルマの紅葉もまだ早いのだろうか、さっぱりの色づきぐあいだった。
 だがそこからの下りで、何と右ヒザに痛みがきた。前回の山は、ほんのハイキング程度でしかなかったし、その前の小屋泊まりの同じ大雪山への登山からは、何と一ヵ月半以上も間が空いている。
 年を取ればこそ、日ごろからの小さなトレーニングが必要なのに、ぐうたらに”食っちゃー寝”を繰り返して、挙句の果てに牛なみの体になってしまったのだ。まさに自業自得の情けなさ。必死の思いでカニ並みに横歩きして、急坂の階段を下り、何とか予定していたバスの時間に間に合った。
 赤岳からは3時間余り、併せて7時間足らずの登山なのに情けないばかりだ。その上、胸も苦しくなり、日ごろの不摂生を嘆くばかりだ。これでは、いつもの本州への遠征登山さえ気がかりになってしまう。
 
 ともあれ、バスに乗ってレイクサイトに戻り、汗に濡れた下着を着替えてやっと一息つく。さて、いつもは近くの民宿に泊ったりして、次の日にのんびり帰っていたのだが、その宿も今が本州からの客で一番混んでいる時だし、何もそんな若者たちで賑わう宿の邪魔をすることもないと、妙な年寄りの遠慮心が起きて、そのままクルマに乗って家に帰ることにした。
 そして、まだ時間はあったし、途中で長い間会っていない友達の家を訪ねたのだが、残念なことに留守だった。それではと途中で温泉に入り、体をさっぱりして再びクルマに乗って、夕暮れのシルエットに沈む日高山脈の山々を見ながら家に帰った。
 
 今回の山歩きが、特別に印象に残る山歩きだったという訳ではなく、書き記すべき感動的な見ものや人との出会いがあったという訳でもない。ただごく普通に、大雪山の紅葉の山を見に行ってきたというだけのことだ。
 しかし、あの鮮やかな紅葉の彩(いろど)りを眺め、おおらかに広がる秋の大雪の山なみを歩いてきたこと、そんな静かで心地よい登山の一日だったことこそが、確かにそれは私の人生の時間の中の一コマになり、いつの日にか、あのミャオが私の布団にもぐりこんできた時の思い出のように、しみじみと思い出されることになるのかも知れない。

 「・・・そうするうちに、あのように変化に富んだ風景の中では、もっと目をひきつけ、もっと長く目を留めさせておくような物象が必ず見出されるはずだった。
 この目を楽しませるおもしろみが、僕にわかったのである。これは、不幸の中にあっても、精神を休ませ、悦(よろこ)ばせ、慰める。そして、苦痛感を打ち切りにする。物象の自然性が、この愉楽を非常に助けて、それをいっそう魅惑的にする。馥郁(ふくいく)たる芳香、鮮麗(せんれい)な色彩、優雅な形態は、われわれの注意をひく権利をわれこそ得んと互いに競うているかに見える。このような快感に浸るためには、ただ愉楽を愛しさえすればよいのである。・・・」

 (『孤独な散歩者の夢想』より ルソー著 青柳瑞穂訳 新潮文庫)