ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(146)

2011-09-18 15:13:29 | Weblog
9月18日

 拝啓 ミャオ様
 
 ミャオは、その後、元気に暮らしているだろうか。九州は、相変わらず暑い日が続いているとのことだが、そのうえ、これから一週間の天気予報を見ても雨模様の日ばかりで、ベランダでずっと座ったり寝たりして、一日を過ごすオマエにはつらいことだろう。それでも、毎日来てくれるおじさんからもらうエサを食べて、何とか元気にしていておくれ。
 
 数日前のこと、朝早くから家の中を気ぜわしく動き回る私を見て、オマエもただならぬ何かを感じていたのだろう、いつもの定位置のソファの上から降りたり上がったりしては、落ち着かなく私の動きを見ていた。そしてついに、私が玄関の鍵をかけようとしたところ、オマエは先に外に出た。たぶん、いつもの朝の散歩だと思ったのだろう。
 私が道に出て歩き出すと、オマエも傍に並んで歩き出したが、一瞬立ち止まり体の毛をなめ始めた。いつもの散歩でも良くあることだ。その時私は、オマエがついてくるのを待たずに、そのまま先へと歩き出した。10歩、20歩、振り返ってみると、オマエは座ったまま私の方を見ていた。

 何度も繰り返して書いていることだが、幼い頃、私は田舎の親戚の家に預けられていた。一月に一度、遠く離れた町で働いていた母が、私に会いにやってきた。それでも、わずか一晩泊っただけで、次の日の朝には母はもう帰って行った。
 その見送りの時に、幼い私は母と一緒に手をつないで歩いていたのだが、途中まで来ると、母は強い口調で私にもう帰りなさいと言った。母は突然速い足取りになって、振り向かずに私の元を離れて行った。私は、泣きながらその母の姿を見送り、仕方なくひとりで来た道を戻って行った。

 恐らく、その時、母は私以上に泣いていたのに違いない。数十年の歳月が流れ去り、その母は今はなく、そして今度は私が、すっかり年を取って子供返りをし始めたミャオを置いて、後ろも見ずに足早に歩き去って行くのだ。
 あーあ、親の因果(いんが)が子に報(むく)い、哀れ悲しき別離の定め、降るは涙か蝉時雨(せみしぐれ)。

 「旅の落ち葉が しぐれに濡れて 流れ果てない ギター弾き
  のぞみも夢も はかなく消えて 唄も涙の 渡り鳥」

 (昭和28年 作詞 吉川静夫 作曲 吉田正 唄 三浦洸一)

 この歌は、もちろん私が同時代に知っていたわけではないのだが、かつて、NHKの『なつかしのメロディー』かなんかで歌っているのを聞いたことがあり、その後、東京で働いていた時に、いわゆる”懐メロ”歌謡曲の編集にかかわる企画があって、その時に、古い日本の歌謡曲をかなりの数、試聴していて、その時に気に入った歌の一つである。(Youtubeで、その三浦洸一の歌を聞くことができる。)
 あの時代には、この歌のようなうら哀しい曲が多かったのだ。それは、誰もが敗戦という大きな負債を背負っていて、誰もが貧しく、ただ遠い明日への光を待ち望みながら、慎ましやかにそれでも必死に生きていた時代だったのだ。
 あれから数十年、日本はあの時代から比べれば、遥かに恵まれた豊かな暮らしの中にある。街中には、きらびやかなものが溢れ、若者たちの歌は、どれもが明るくさわやかに響いてくる。生きていくことでの哀しみなどは、もうなくなったのだろうか。
 いや、どのように時代が変わろうとも、どのような悲惨な時代であろうと、どれほど平和で豊かな時代であろうと、その時代の今を生きている人々にとっては、いつも喜びと哀しみは相半ばして訪れるものであり、ただその時々で、気づかなかったり、隠れていて見えないだけで・・・。


 私は、北海道に戻ってきた。前回6月に戻った時ほどではないにしろ、やはり、道や庭の草は伸び放題に茂っていた。しかし、その先には見慣れたわが家があった。あの良寛(りょうかん、1758~1831)和尚(おしょう)の一句が思い出される。

 「いざここに わが世は経(へ)なむ 国上(くがみ)のや 乙子(おとこ)の宮の 森の下庵(いお)」(さあここで、私は年を重ねて行こう。国上山のふもとにある乙子神社の森の下にある庵で。)

 (『良寛』 松本市壽・編 角川文庫)

 九州にいた時の30度近い毎日と比べれば、ここでは数度ほど低く、さすがに北国という感じだったが、なぜか蒸し暑さが残っていて、まだあのいまわしい蚊たちが、メタボおじさんの栄養価の高い血を求めて飛び回っていた。
 とても、そんな中で、草刈り仕事をする気にはならなかった。まして、一昨日など、もう秋になったというのに、気温は32度近くまでも上がっていたのだから。
 ただ、風で倒れて車庫の屋根にかかっていたヤナギの木を切り、小さな畑の簡単な収穫作業をしただけだった。キャベツは大きく育っていて良かったのだが、ミニトマトは雨が多かったらしく、余り甘みがついていなかった。
 今年の十勝の農作物は、私がいた8月までは、大豊作の予感すらあったのに、この9月にかけては曇りや雨の毎日だったとのことで、一転して不作の声も聞かれるようになっていた。農業は、この地元の基幹産業なだけに、その出来秋の収穫が気がかりである。

 家の林の樹々の中には、すでに黄色く変わった葉も見えている。九州に行く前には、もう2mもの高さに成長して、多くのツボミをつけて花を咲かせ始めていたオニユリは、あれから3週間、今は、最後の頭頂部の数輪の花が残っているだけだった。(写真)
 昨日今日と降り続いた雨を境に、その後は一気に気温が下がり、北海道の高い山々では雪が降るかもしれないとのことだ。ネットで見る山々の稜線上では、だいぶん紅葉が進んでいるようだ。毎年、繰り返し見ている山々の紅葉だけれども、やはりこの時期になると何かと期待をしてしまう。今年はどんな紅葉を見せてくれるのだろうかと。

 とはいうものの、今までミャオと一緒に暮らしていた毎日から、急にひとりきりになると、ミャオの面倒を見なくてもいいのだという開放感と、気が抜けたような思いが入り混じって、ある種の寂しい気持ちになる。
 そんな時に、ふと音楽を聴きたくなって、録画したままでまだ見ていなかった『ヴェルビエ音楽祭2011』の後半部分を見ることにした。

 すでに見終わった前半部分の、あの素晴らしいスター演奏家たちの共演については、前に書いたとおりであるが(8月23日の項)、この番組後半部分には、『ライジング・ピアノ・スター』と題された、グルジア出身のカティア・ブニアティシヴィリの二つの演奏会の模様がおさめられている。あのアルゲリッチからも絶賛され、今後が期待される若手のピアニストの一人だということである。 
 その一つめの演奏会は、ラフマニノフ(1873~1943)のピアノ協奏曲第3番である。ラフマニノフのピアノ協奏曲の中では、あのデヴィッド・リーン監督の名作『逢びき』(1945年)の中で使われたりして、特に人気の高い第2番がよく演奏されていて、耳にする機会も多いのだが、技術を要して難曲として知られるこの第3番も、負けず劣らずになかなかにいい曲であり、私はそのことを、このブニアティシヴィリの演奏で思い知らされることにもなったのだ。
 オーケストラは、若手を中心に編成されたヴェルビエ音楽祭管弦楽団であり、所々不ぞろいな部分もあtったが、それを今や老練の指揮者となったネーメ・ヤルヴィが手堅くまとめていた。しかしこの曲では、そのオーケストレイションがそれほどに重要視されているわけではなく、むしろ聞かせどころはピアノにあり、それをカティアは情緒たっぷりにそして力強く、鮮やかに演奏していたのだ。そのピアノの音に限らず、演奏する彼女の没我の境の表情の美しさ・・・。

 今やクラッシック・メディアの時代は、私がそれまで聴いてきたレコード、CDによる音だけの演奏から、演奏家たちのその時の演奏情景を鮮やかに目の当たりにすることの出来る、ハイビジョン映像の世界へと移り変わりつつあるのではないだろうか。
 それは、もともとは、演奏会場においてこそ味わえる生演奏の醍醐味でもあるのだが、今では誰でも、そんな演奏会の雰囲気の一端でも感じることの出来る、この美しい映像と音にすっかり引き込まれてしまうに違いない。CDの売れゆきが不振なったのには、そんなところに遠因の一つがあるのかもしれない。

 さて、このブニアティシヴィリは、その名前からして、いかにもグルジア系らしい感じであるが(現大統領の名前はサアカシュヴィリであり、私の映画ベスト5の一本である『ピロスマニ』(1978年)などのグルジア映画でも、こうした名前をよく見かける)、彼女の顔立ちには、むしろ民族の十字路といわれるこの国らしい、アラブ系の面影が漂っている。
 旧ソ連邦内の国であるグルジアは、今では、そのロシアとの間にある自治州をめぐって武力紛争が起きているのだが、彼女がそんな国の出身であることはさておき、なによりまだ23歳!という若さなのに、この円熟したピアノ演奏と、それにふさわしい大人の魅力をいっぱいにたたえた彼女の姿・・・私はたちどころに魅せられてしまった。
 もともと、旧ソ連系のピアニストには、私が知っているホロヴィッツ、ギレリス、リヒテルの時代以降も、次から次へと見事なテクニックと高い芸術性を兼ね備えた演奏家が現れていて、彼女もそうした流れの中の一人なのかと思ってしまう。

 二つめは、また別の日に行われた、ヴェルビエ教会の小さな会場での独奏会だったが、ここでさらにカティアは、その演奏技術の素晴らしさを私たちの前に披露してくれた。曲目は、リストの『ロ短調ピアノ・ソナタ』に始まり、ショパン、ストラヴィンスキーなどを弾いてくれたが、その中でも、私はストラヴィンスキー(1882~1971)の『ペトルーシュカからの3楽章』が一番面白く聞けた。強弱の音の構成とリズム感の素晴らしさ・・・。
 今年の春に、リストのアルバムでCDデヴューしたという、彼女の今後が楽しみだが、ただあの男勝りの激しい打鍵(だけん)ぶりからは、彼女のピアノに取りつかれた凄まじいまでの思いが伝わってくると同時に、もしかして指やひじなどを痛めやしないかと心配にもなってくる。
 久しぶりに感心して聴いたピアノ界の新らしいスターだけに、ふと老婆心が頭をよぎるのだ。

 ともかく、この2時間近くの番組を一気に見ては、それまでの私の心の中のつらい思いは消えて、ほんのひと時だけれども小さな幸せに包まれた。
 哀しみは、じわじわと忍び寄り、いつしか回りを満たしてしまうけれど、喜びはいつも不意打ちに訪れて、しかし、いつしか引き潮とともに去っていく・・。
 今回は、テレビで見て知った喜びだったけれども、まだまだこれから先にも、そんな様々な喜びとの邂逅(かいこう)が、私を待っているのかも知れない。だからこそ、この先に光が見えるかも知れないからこそ、人は今日を生き明日を目指すのだろう。

 ミャオ、オマエが待っていてさえくれれば、きっといつか喜びの日は来るものなのだよ。


                     敬具 飼い主より   

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