8月18日
拝啓 ミャオ様
雨や曇りの、肌寒い日が続いている。昨日今日と、朝の気温の14度から、わずかに3度ほど上がった17度までしか上がらない。
今朝も、起きると、靴下をはいたうえに、思わずフリースを着込むほどだった。10月初めの気温だとのことだが、外に出ると、今日もまた、木の葉があちこちに落ちていて、雨や露にぬれた周りの草木で、辺りは冷えびえとしていた。
8月になってから、もうエゾヤマザクラやシラカバ、キタコブシ、ナナカマドなどの、下葉のほうが散り始め、この所、その落ち葉の数が日ごとに増えてきている。
林の中では、いつもは、9月の初めくらいに出るキノコのラクヨウタケが、もういつの間にか大きな傘を広げていた。
そして、一月ほど前に咲いていた、あのオオウバユリ(7月19日の項)は、すでに種をはらんだ大きな球果になっていた。そこに、セミの抜けがらが一つ(写真)。
それは、6月にこの林全体で、耳を聾(ろう)せんばかりに鳴いていた、あのエゾハルゼミの抜けがら(6月3日の項)とは、明らかに大きさが違うエゾゼミのものだ。
数日前の晴れた日に、かなりの数の仲間たちと、エゾハルゼミの少し甲高い声とは違う、ジーと低く響くような声で、鳴いていたのだが、この天気の悪い中では、押し黙ったままで、一匹の声も聞こえない。
しかし、私にとっては、気温が低ければ、外で働くには適している。そこで、放っておいたままにしていた、草取りや草刈りの仕事にとりかかる。とはいえ、まだアブや蚊がうるさいし、その対策のために長袖を着ているから、しばらくすると、下のTシャツは汗びっしょりになる。
ようやく一仕事を終えて、さて、ゴエモン風呂を沸かすのは、手間がかかって面倒だからと、お湯を沸かしてバケツに入れ、風呂場に運び、行水を使う。
それは、まさに、恐(こわ)くて、臭(くさ)くて、見たくないものなーんだ、というなぞなぞの答えであり、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の、行水のシーンであります。
げっ、想像したくもないのに・・・と、ミャオの声。まあそう言うなって、ミャオだって、毎日何度となく、毛づくろいをするだろう。自分の股ぐらから、お尻の穴からすべてなめあげるじゃないか。人間だって同じことよ。汚くしていると、自分でも気持ち悪いからだ。
じゃ、ついでに、その汚い鬼瓦顔も何とかしていただけませんかね、だって。それを言っちゃーおしめーよ。けっこう毛だらけ、ネコ灰だらけ、お尻の周りはクソだらけ、とくらあー。なぜか、寅さんふうになる。
と、言うわけで、冗談は顔くらいにしておいて、さて、風呂上り、つまり行水上がりには、粉末のスポーツドリンクを水に溶かして、冷蔵庫に入れておいたものを、コップ一杯、・・・クー、こたえられんのう。
テレビのスイッチを入れるが、ろくな番組はやっていない。そこで、前に録画しておいた、映画を一本見ることにする。
7月始めに、NHK・BS2で放送された、『プライドと偏見』。2005年、イギリス映画、監督ジョー・ライト、主演キーラ・ナイトレイ、2時間7分。
余り、期待しないで見始めたのに、いつしか画面に引き込まれ、一度トイレに立っただけで、一気に見終わってしまった。いい映画だった。
原作は、ジェーン・オースティンの『高慢(こうまん)と偏見(へんけん)』であり、ずっと昔に、新潮文庫(中野好夫訳)で読んだことがある。その時には、女性らしい観察眼と饒舌(じょうぜつ)さ、そしてイギリス流の皮肉のきいたユーモアに、さすがだと思った憶えがある。
しかし、細かい部分は大分忘れていた。それが幸いしたのか、色々と原作との違いを考えずに、素直に、映画の流れに乗って見ることができた。
18世紀末のイギリスの片田舎、中流の地主階級である父母とその5人姉妹の物語。というと、ウォルコットの『若草物語』を思い浮かべるが、あちらは良きアメリカの、牧師一家の4人姉妹の話であり、どちらかといえば少女たちの成長の物語である。
この『高慢と偏見』では、年頃を迎えて、どこかへ嫁(とつ)いで行かなければならない娘たちの、憧れと不安の心理描写がたくみに描かれている。
ちなみに、映画では、現代日本語風に、『プライドと偏見』と変えられているが、原題は”Pride and Prejudice”であり、それで良いのだが、何か響きがしっくりと来ない。
ともかく、娘たちの恋の行方がどうなっていくのかと、その先が気になる物語を、原作者のオースティンは、急がずにじっくりと、当時の上流階級と中流階級の、身分の違いなどを、周りの人物たちの話しの中に、皮肉を交えて折込ながら、当時の良家の子女としての、あるべき恋愛のモデルとして書きあげていた。
この映画では、そのストーリーの面白さを、短い映画の中にまとめるべく、しっかりと脚本化されている。
そして何といっても、主役の次女エリザベスを演じるキーラ・ナイトレイ。しっかりした理性ある女性としての、彼女の、ひたむきな表情が魅力的である。
脇役陣もそろっている。父親役にドナルド・サザーランド(『マッシュ』での若い軍医役の彼も、名脇役になった)、母親役にブレンダ・ブレッシン(『秘密と嘘』の名演)、大地主夫人役のジュディ・デンチ(『恋におちたシェイクスピア』)等。
もちろん、短い映画の中で、原作のすべてが描かれているわけではないが、原作に勝るものがあるとすれば、それは間違いなく視覚的なもの、見事な風景を切り取ったカメラワークだろう。
さらに驚くのは、監督のジョー・ライトである。テレビ・ドラマ界出身であり、これが初めての映画での監督だとは思えない手際のよさで、当時、33歳。
ただ思うのは、ラストシーン。彼女が、彼の愛を受け入れて、黙って彼の手に口を寄せ、彼は自分の額を、ゆっくりと彼女の額に押しあてる・・・朝の光の中、たたずむ二人の姿。
英国人の、情熱を内に秘めた、理性と慎みの勝利の瞬間・・・もうそれだけで十分だった。原作にある、その後の父親との了解の場面などは、映画であるがゆえに、省いても良かったとさえ思えるくらいだった。
ただし、このオースティンの小説『高慢(自負)と偏見』は、何度も映画化されており、1940年のあのローレンス・オリヴィエによるものが、名作との評判だし、1995年のBBC放送制作による、原作を忠実にドラマ化したという、その35回、6時間に及ぶものが、決定版だとされている。
私は、残念なことに、そのいずれも見てはいないから、このオースティン原作の作品について、公平な評価を下すことはできない。
ただ言えるのは、久しぶりに画面にのめりこんで見ることができた映画だったということだ、あの『まぼろしの市街戦』(7月14日の項)以来の。
ともかく、この映画を見て、私は、若い頃のことを思い出した。皆がそうであったように、その頃、私たちは誰でも、恋の相手には、おくてであり、臆病(おくびょう)だったのだ。憧れの相手のことを考え、弱い自分のことを考え、なかなか次の一歩が踏み出せなかった。
少しづつ、少しづつ、お互いの気持ちがひとつに高まるまで、何ヶ月もかかったものだった。しかしそれで良かったのだ、その間、苦しく悲観的になることがあったとしても、一方では、相手のことを想いこがれる時を、それだけ長く持てたのだから。
今の若い人たちは、などと言うつもりはない。それは時代時代によって変わるものであり、またひとつひとつが、変わることのない恋の真実でもあるものだから。
つかの間、私を、昔の恋する時代に連れて行ってくれた、この映画、『プライドと偏見』に感謝。
年をとるということは、たくさんの経験ができて、昔の出来事を、もう一度、しみじみと味わえるということなのだ。若い頃には、その嵐の中にいて、目の前しか見えていなかったのに・・・。
飼い主より 敬具