ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(30)

2008-09-24 21:50:46 | Weblog
9月24日
 拝啓 ミャオ様 
 今日も晴れて、朝の気温は8度と冷え込む。日中は風が強く、気温も17度くらいまでしか上がらない。昨日までは、平年に比べて気温が高く、というよりは暑いくらいだったのに、昨日、寒冷前線が通過した後、この秋、初めての冬型の季節配置になって、北西の風が吹き、一気に冷たい空気に入れ替わってしまった。
 家の裏手の林の方からは、木々の梢をゆする風の音が聞こえる。懐かしいような、そして次なる白い冬の季節を知らせる風の音でもある。
 昨日、大雪山の旭岳(2290m)と黒岳(1984m)では、夕方前になって、初雪が確認され、今日は、その旭岳や利尻山、羊蹄山など、道内の主な高い山では、麓からの初冠雪が観測されている。
 紅葉の盛りの時に、雪が降り、次の日に晴れてくれれば、青空の下に、白い雪に覆われた稜線と山すそにかけては紅葉という、フランスの三色旗のような、鮮やかなコントラストの光景を見ることができるのだが。しかし、この数日の天気予報は、曇りや雨で余り良くなかった。それだからこそ、天気が崩れる前に、その盛りの紅葉を見ておこうと、一昨日(9月22日)、毎年の恒例の高原温泉の沼めぐりへと出かけたのだ。
 前回と同じように(9月15日の項)、朝、4時半頃家を出て、2時間半ほどで、紅葉の繁忙期の駐車場になっている大雪湖畔のレイク・サイトに着く。そこでシャトル・バスに乗り換えて、高原温泉まで行く。入り口のヒグマ情報センターで、毎年レクチャーなるものを聞かされて、ようやく、沼めぐりコースへと歩き出すことができる。
 何はともあれ、青空の下、紅葉に彩られた幾つもの沼を見て歩き、途中の高みからは、錦織なす大雪の山々を見ることができるのだ(写真 高根ヶ原の稜線下)。一周四時間ほどのコースの次から次へと、紅葉の見せ場が出てくる。カメラをザックにしまっておく暇もないくらいだ。
 後でカメラで撮った枚数を見てみると、この一日だけで160枚余りにもなっていた。昔のフィルム・カメラの時代には、枚数を気にして撮っていたが、今のデジタル・カメラに換えてからは、枚数を気にすることなく、思うようにシャッターを押すことができるようになったからでもある。
 もちろん、写真を撮ることだけに夢中になっていると、肝心の目の前の光景をじっくりと見ることができなくなってしまう。しかし、カメラにその場の光景を収めるることもまた、必要なことなのだ。それらは、私だけの大切な記憶の保管場所(アーカイブス)としての写真になるからだ。
 私は写真を撮る時に、芸術的な写真に撮ろうとか、評価されて写真誌に載るような写真を撮ろうとかは、考えたことがない。だから、私の写真はいつまでたってもありきたりのエハガキ写真ふうで、進歩がない。ただ私は、自分が登った山々の記録としての写真が撮れれば、それで良いのだけれど。
 つまり私は、後でその時の山の姿を思い出すために、写真を撮っているのだともいえる。それは、例えば自分の人生の中で、今にして思えば忘れられない出会いだったのに、その人の顔をどうしても思い出せない場合があるし、逆に、たいした出会いでもなかったのに、写真があるおかげで、その人のことをいろいろと思い出すこともあるからだ。
 もちろん厳密に言えば、写真がその場のすべてのことを写し出しているわけでもないし、また写っていることすべてが真実のものであるかどうかも分からない。しかし、そうしたシビアな実証、表現能力を備えた写真を撮るなどと構えないで、単なる自分の記憶の保管メディアとして、気楽に撮っていけば良いと思っている。
 ここに一枚の写真がある。当時2歳になる私が、32歳の母(なんという若さだろう・・・)に抱かれて写っている。私の手にはおもちゃが握られている。木で作られた象の形をしたおもちゃだ。その象の足のところが、四つの車輪になっている。
 私は、そのおもちゃのことを良く覚えている。セピア色の古い写真だけれど、その象のおもちゃは、青と紫のグラディエーションでぼかしたような色合いだった。
 もちろん、私は2歳時の記憶などは信じていないけれど、いわゆるデジャヴー(既視感)としての記憶があったのか、それとも、後になって母に聞いた話を元に、いつに間にか自分の記憶として作り上げていたものなのかは、分からない。
 ただ言えることは、この一枚の写真が残されていたことで、私は他にもいろいろとその頃のことを思い出すことができたのだ。
 写真について、少し小難しいことを書いたかもしれないけれど、私にとっての写真の意味を書いておきたかったのだ。ミャオ、その写真のおかげで、毎日オマエの顔を見ることができるんだ、どうしているのかなと思って。私の鬼瓦顔の写真を、九州の家のドアのところに貼っておけば、オマエも少しは寂しさが紛れるかなー・・・なんてことはないよな、オマエにとってはただの紙切れだもの。
 さて、この沼めぐりコースを終えて登山口に戻り、まだ時間もあるし、青空も広がっていたので、もう一つのコース、緑岳へと向かうことにした。そしてこちらでもまた、期待にたがわぬ紅葉の景色を見ることができたのだが、その帰り道で思わぬ出来事が待っていた。そのことについては、次回に書くことにしよう。
 (ここまで書いてくるのに、パソコンの調子が悪く、なんと昨日から二度も全部の文章を消してしまったのだ。まったく、なんとかならないだろうか。機械を相手には、ただただガマンするしかない。ミャオを相手にしている時のほうが、よっぽど分かりやすいし、ラクなのに。)
                      飼い主より 敬具