7月1日
雨が降っている。さらに、雨の日が続いている。
九州の家に戻ってきて、もう2週間にもなるというのに、晴れた日は一度もない。
薄日の差す時間帯があったり、ほんの少しの間だけ青空が見えて、太陽の光が降り注いだ時もあったのだが、ともかく、ほとんどは重たい曇り空のまま、時々小雨が降るという毎日なのだ。
そんな中でも、雨の合間をぬって、何とか草取り草刈り、庭木の剪定(せんてい)などやるべき仕事は終わらせてしまった。
ただこうも天気が悪いと、どうしても家の中にいることが多くなり、ひとり天下泰平(てんかたいへい)と決め込んで、ごろごろしていることにも飽きはててしまい、山を歩きたくなってきたのだ。
数日前、その日は一日曇りのマークがついていて、夜になってから雨とのことだった。よしそれなら、山に行こうと思った。
何度も言うように、カネはないけどヒマは十分にある私は、好きな山に登る時は晴れ以上の快晴の日に行こうと、ぜいたくな決まりを自分に言い聞かせている。残り短い登山人生を、しぶとくねちねちと自分の思い通りに楽しみたいのだ。
だから雲におおわれて何も見えないとか、ましてや雨の日に出かけるなんて、言語道断(ごんごどうだん)だと思っている。(毎日働いて決まった休みしかない人には申し訳ないが。)
若い時には、雨風もこれからのための経験、試練になるのだろうが、年をとった今では、何事も勉強のためだとケツを叩かれてまでして、悪天候の日に登りたくはないのだ。
もしそのムチを持つ人が、アミタイツ姿の女王様だったら、「どひぇー、女王様、お許しください」とか叫びながらも実は喜んで、山に・・・いや、やっぱり登りたくはないなー。年寄りは、色気よりは怠けぐせと親しくなるのだ。
こうしてひとりでいると、日々ぐうたらになってしまい、いつしかあのカフカの『変身』のように、身動きの取れない巨大なイモムシになって、部屋に閉じこもることになってしまうのだろうか。
いやいや、まだまだ、「ボクには夢がある、希望がある、そして持病がある」。
腰痛に歯痛、ときどき痔(じ)痛、さらに慢性の”おつむてんてん、脳天気”症候群といったありさまだから、「あとは野となれ山となれ」といった心境になり、CMの有名司会者には悪いが、医療保険なんぞには入る気もしないのだ。
しかし、前回の山登りからもう1か月も間が空いている。いかにぐうたらな私といえども、さすがに、じっとしていられなくなってくる。
自然が私を呼んでいるのだ。
”Nature calls me!" おっとこれは違った、直訳しただけで別な意味になってしまう。
どう言えばいいのか、そこで思い出すのは、あの西部劇の名作『シェーン』(’53)の、有名なテーマ曲「遥かなる山の呼び声」(The call for far-away hills)である。こちらも意味は少し違うが、ある意味では確かに思い出の山からの声でもあるのだ。
アラン・ラッド扮する流れ者のシェーン、実は早打ちガンマンであり、酒場で悪事を重ねるジャック・パランスとの、一瞬の決闘シーン・・・。
初公開後何年もたったリバイバル上映で初めて見たのだが、その時は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーが明快であり、それでよかったのだが、今になってみれば、何といっても、ジャック・パランスのあの不気味にチャラついた悪役ぶりがかっこよかったと思うのだ。
つまり映画では、主役を引き立てるための強い個性の悪役が必要なのだ・・・そんなことに気づいたのは、ずっと後になって幾つかの悪さを重ねた大人になってから、この映画を何度も見返した時だ。(さらに、見事な恋愛心理ドラマにもなっていた事にも気づいたのだが。)
少し前にも書いたように、この個性派俳優ジャック・パランス(1919~2006)は、あの名作映画『バグダッド・カフェ』(’87)で、ヒロインのドイツ女に恋する、昔ハリウッドで大道具の美術担当だった初老の男の役で出演していて、久しぶりにその姿を見てなつかしかった。(’12.10.29の項参照)
『シェーン』での名悪役ぶりを知っている私たちは、そこで二重の感慨にふけることになるのだ。映画の上でも30数年という歳月が流れている、何という時の流れだろうか・・・彼にとっても私にとっても。
東京で働いていたころ、50~60年代に活躍したジャズ・ポピュラー歌手、ペギー・リー(1920~2006)が初来日(1975年)して、私は彼女のコンサートを聞きに行った。
私は、彼女の立ち姿を見て、あのしみじみとした「ジャニー・ギター」の歌を聞きながら、その長い歳月を思い涙ぐんでしまった。
彼女は映画『大砂塵(だいさじん)』(’54)の主題歌であるこの「ジャニー・ギター」の大ヒット曲でよく知られていたが、そのころ私は、ヘレン・メリル、クリス・コナー、ジョー・スタッフォード、ミリー・バーノンなどの昔の女性ジャズ・ボーカルをよく聴いていて、ペギー・リーでは、あの『ブラック・コーヒー』(’56)がお気に入りの一枚だった。
そんなセンチメンタルな気分になったところで、いつも併せて思い出すのは、映画『バラの刺青(いれずみ)』(’55)で、ペリー・コモが歌っていた同名の主題歌である。”He wore the rose tatoo・・・”と今でも憶えているほどだ。
映画は上の『大砂塵』と同じように、昔風なメロ・ドラマがからんだ西部劇であり、これもまたずっと後になってリバイバル上映された時に見たのだが、さして印象に残るほどのものではなかった。
ただ『大砂塵』のジョーン・クロフォードと、『バラの刺青』のあのイタリア女優、アンナ・マニヤーニの、それぞれに年を重ねて生きてきた女性の哀しみだけが切々と伝わってきた。
つまり、この二本の映画はその映画の内容そのものよりは、まさにその哀切に満ちた主題歌で印象に残っているといっても過言ではないだろう。
まして私には、これらの曲を聴くと、あのころの彼女と別れたばかりのつらい思い出が、今でも切なく懐かしくよみがえってくるのだ。歌は世につれ、世は歌につれ・・・。
話はわき道の思い出にそれてしまったが、これも長い人生を過ごしてきた思い出だけが多すぎる年寄りの、いつもの繰り言(くりごと)、口グセなのだろうか。
山の話に戻ろう。
いつもなら出かけることもない天気だったのだけれど、ネットやテレビなどのあちこちの天気予報を見ていると、中には午後から小さくお日様マークが出ているものもある。
毎日の雨模様の空にうんざりしていた私は、雨が降らないだけでも十分だと思ったのだ。
いつもの九重、牧ノ戸峠の登山口に着いたのは、昼過ぎだった。
こんな梅雨空のさなか、この九重山群最大の見ものである、あのミヤマキリシマ大群落の花の時期ももうとっくに終わっているのに、まだかなりの車が停まっていたが、もちろん混雑期とは比べるべくもなく、らくに場所を選んで停めることができた。
今頃から登ろうという人は他になく、戻ってくる人に出会うだけだった。それもわずか十数人余り、1時間半あまり歩いた久住分かれで3人にあったのが最後で、後は天狗が城に中岳とまわって、もと来た道を牧ノ戸峠に戻ってくるまでの3時間ほどの間、もう誰にも会わなかった。
曇り空の下に見えていた山々も、戻りの途中からガスが下りてきて見えなくなり、そんな静寂が増す中をひとりで歩いて行くのは、何か心楽しくいい気分だった。
もし今の時期の北海道の山ならば、こんなガスがかかる時にはなおさらのことだが、ヒグマに注意して、気を張り詰めて歩いていかなければならないし、また日本アルプスなどの山々を歩くときのように、いつも誰かに会うというわずらわしさもなかった。
だから、北海道の山では、土日以外の晴天の日に、北アルプスなどでは時期や山域をずらして登るようにしているのだが(’12.11.8~19の項参照)、ただ花々が咲き乱れ、登りやすい天候の時期は短いから、どうしても人が集中することになり、やむを得ないことではあるのだが・・・。
ああ、それにしても、富士山に去年登っていてよかった。(’12.9.2~9の項参照)
ただ、雑踏が嫌で一度きりだと思っていたその富士山も、一度登ったことで、あらためて別な静かなルートからもう一度登ってみたくなり、またいつかはと思っていたのだが、このたびの世界遺産騒動で、ずっと先に延ばさざるを得なくなってしまった。
あの知床にも、世界遺産に指定される前の年に、最後になる三度目の縦走をして以来、(その時は天気も良く花々も盛りで、他に数人に会っただけの素晴らしい山旅だったから)もうその後は行っていないし、屋久島へは世界遺産指定からしばらくたって、もう人々のほとぼりも覚めたころだろうと思って出かけたのだが、誰もいない雨上がりの薄日さす森の中で、あの縄文杉と20分余りも向かい合って、ただひとりで過ごせたことの幸せな思い出があり・・・。(’11.6.17~25の項参照)
私は若いころに、スイス・アルプスの山々を眺めただけで、ヒマラヤにもアンデスにもカナダ・アラスカの山々にも登ったことはない。
けれども、本当に心からの安らぎを覚え、または感動にうちふるえた山々の思い出がいくつもある。それだけでも十分ではないのか。
世の中には、こうした山々での喜びを知らぬまま一生を終る人もいるだろう。もっともそんな人もまた、私が知らない別の喜びの世界を知っていて、そこで十分に楽しんでいるのだろう。
人生を生きるということは、そうした自分なりの楽しみを見つけて、十分に味わうことができたならば、それでいいのだと思う。それは、もちろん貧富の差や、地位身分の差、ましてや長く生きたかどうかさえも関係はないのだ。
この世に生まれきて、子供時代を過ごし、青春時代を送り、恋をして結婚し、子供が生まれ家族の世界が広がり、仕事に励み、その傍らで自分の趣味の楽しみも味わいながら、年を取っていき、穏やかな思いの老齢期を迎えて、静かにお迎えを待つだけのこと。
冷静に考えれば、生きてきたうえでの幸不幸の数なんて、誰でも五十歩百歩であり、大した差はないのだ。そんな人生の中で、他人と比べて何になるというのだ。
辛抱強く生きてやさしいあきらめを知り、自分だけの夢の楼閣(ろうかく)を、心のうちに持ち続けること、幸せな気持ちになるために・・・。
私はそんな思いをめぐらせながら、山道をたどって行った。
あの大群落が山肌をいろどるミヤマキリシマの花は、もうすっかり終わっていて、遅れて咲いているわずか二株の花を見ただけだった。
その代わりに、ミヤマキリシマが盛りのころには余り見ることのなかった、あのタニウツギの赤い花が鈴なりに咲いていて、特に扇ヶ鼻分岐あたりでは群落をなしていた。(写真上)
他にも数は少ないが、サラサドウダンやシライトソウなども見ることができた。
そして思った程に天気は悪くなく、少し青空がのぞいているところもあり、周りの山々もよく見えていた。
それで、私の大好きな天狗ヶ城(1780m)や中岳(1791m)からの展望を楽しむことができたし、何より、時々押し寄せては消える雲の合間に、見え隠れする山々の姿の素晴らしさに、あらためて気づかされる思いがした。
えらい写真家の先生がたが、一様に言われるのは、「晴れ渡った日ほどつまらないものはない、雨や曇りの日こそが次なる変化をとらえることのできるチャンスの時なのだ」ということ。
芸術写真にとんと理解のない私は、雲一つない空の下の山々の姿を撮った写真こそ一番だと、いまだに信じて疑わないし、そうしたいわゆる初心者の、”お絵かき写真”の域を出ていない写真ばかり取り続けているのだが、久しぶりにこうして天気の良くない日に山に登って、雲の間に間に見える山の姿を見て、なるほどとも思ったのだ。
構図、遠近感、陰影、チャンスなどのどれ一つも考えに入れることなく、ただいいと思ったから写すという、幼稚な感覚だけに頼ってきた私だが、この日の雲の動きの中の山の姿を見ていると、そんな先生方の言葉を少しだけでも思わないわけにはいかなかった。
かといって、すぐに写真的に素晴らしいものが撮れたというわけでもない。
下の写真は、その時の中岳から見た稲星山(1774m)の姿であり、後ろには、雲海の中に祖母山(1756m)がほんの少し見えている。
もちろん、これが芸術的な一枚などとは思っていないが、思わずシャッターを押したのは、ひとつに、前にもどこかで見た山の姿だと思ったからでもある。
それは北アルプスの水晶岳(2986m)から尾根をたどり、行く手にあの北アルプス最深部にある、赤牛岳(2864m)の、赤みを帯びて穏やかに盛り上がる姿を見た時だったのだ。
その時に、このコースで出会ったのは二人だけだった。私は、赤牛岳から黒部湖に下り、渡し船に乗って平の小屋に泊まり、(そこには楽しい釣り人たちがいてイワナをごちそうになり、風呂にも入ることができて、私の山小屋ベスト3に入れたいくらいの思い出になった)、そして次の日も快晴の空の下、五色ヶ原への道を登って行ったのだ。今からもう十数年も前の話だが・・・。
つまり、私にとっての山の写真は、芸術的なフォルムとして作り上げ切り取られた瞬時の輝きではなく、その時私の目の前にあり続けた全(まった)き山の姿、さらに簡単に言えば、私の記憶に残るべく撮られたものであるべきなのだ。
だから記念写真としての山の写真を撮り続けている私が、いくら何十万カットの写真を撮ったところで、芸術的なものにならないのは、そこに個人のアルバム写真にこだわる思いが頑(がん)として横たわっているからだ。
山での思い出は、まさしくそのような、印象的な心地よい思い出が多く残されているような気がする。
もちろん長い登山経験の中で、つらい悲しい思い出もたくさんしてきたはずなのに、それらは長い歳月の波に洗われて、いつしか丸く穏やかになり、今ではさほどのものではなかったようにも思われるのだ。
前に心理学の記事を読んでいた時にか、あるいはテレビを見ていた時にだったかは定かではないが、人間の記憶は、自分の脳の中にとどめ置く際に取捨選択されて、6:3:1の割合で、楽しい思い出、中間的な思い出、悲しい思い出へと分配保存されるというような話を聞いた憶えがある。
とすれば、私の山の思い出の中に、楽しく良かったという思い出が多いのも納得できるところだ。
ただ、いつも不思議に思うのは、その中間的な記憶に入るのかどうかはわからないが、突然、全く関係もない山道の曲がり角や、木の立ち姿、沢の流れなどが目に浮かんできたりすることがある。
写真に撮っている覚えもないから、写真の情景から繰り返し見て記憶化されたものではないし、かといってそこは確かに私が行ったことのある場所なのだ。
何のために、さほど重要とも思えぬ情景が記憶され、時に脈絡もなく浮かび上がってくるのか・・・。
ミャオとの思い出は、数多くの写真や、毎日の習慣的な行動の数々として、今も思い出すことができるのだが、何よりもはっきりと思い出すことができるのは、その顔や毛色などではなく、あのミャオの体をなでた時の、滑らかな毛の肌触りと、しなやかな体の流れ、体つきである。
それは他のどんな猫を触っても違う、ミャオの体そのものの感覚であり、もう1年以上もたつのに、私の手はその感覚を憶えているのだ。ああ、ミャオ。
外は今日も一日、しとしとと雨が降っていた。
「・・・その向こうに、芳子が常に用いていた蒲団(ふとん)―― 萌黄唐草(もえぎからくさ)の敷蒲団と綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。・・・時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れた天鵞絨(びろーど)の襟(えり)に顔を埋めて泣いた。
薄暗い一室、戸外には風が吹き荒れていた。」
(田山花袋『蒲団』より 日本文学全集 集英社)