3月7日
ようやく、晴れ間が戻ってきたけれど、雲が多く、肌寒い天気だ。朝は、-1度と冷え込み、まだまだストーヴの前から離れられない。
雨の合間を見ては、飼い主と一緒に散歩に行くのだが、今ではもう、ひとりで残されるのはイヤなので、途中で、自分からくるりと戻って、ニャーと鳴き、家に帰ろうと促す。
飼い主は、そんなワタシを見て、おかしそうに笑い、しかしその後、心配そうな顔をして言うのだ。
「いつもいつも、オレの傍から離れないで、どうするんだ。オレが北海道へ行ったら、オマエはひとりになってしまうんだぞ。」
しかし、そんな先のことを、今から考え悩んだところで、何になるというのだろう。ワタシにとって、一番大事なことは、目の前の、毎日だけなのだから。
暖かい所で寝て、時々飼い主に体をなでてもらい、しっかりとエサをいただく、このネコ三原則があれば、他に何もいらない。それだけで十分なのだ。
「庭にある、大きな豊後(ぶんご)梅の花が咲き始めた。まだ三分咲きほどである。薄紅色の花びらもきれいだけれど、枝先まで、小さく連なる、より濃い色をした蕾の姿が可愛らしい。
青空を背景にして、梅の花が咲いているのを見ると、やはり春が来たのだと思う。数日前には、もう気の早いウグイスの一鳴きが聞こえていた。
さて、前回まで、一休宗純(1394~1481)の、絵入り法話集『一休骸骨』について、自分なりに解釈してみたのだが、もちろん、そのくらいで、一休のすべてが分かるはずもない。
さらに、一休を知る上で、最も重要だとされているのが、一休の死の一年前、86歳の時に出された『狂雲集』である。
弟子たちが、それまでに一休が書きためていた、漢詩や散文などを集め、編集して、一休がそれらに目を通して、完成したものだとされている。
原文は、返り点も打ってない漢詩文だから、読みなれている人でないと、理解するのは難しい。そこで、前に参照として挙げていた本(中公クラシックス『狂雲集』)などを、頼りにして、読んでいくことにする。
そこに収められた559編は、おおまかな分け方がされているものの、それぞれの詩文の、作成年月も分からず、時代順というわけでもないが、一休の修行、諸国放浪の時代から、晩年にいたるまでのものが、網羅されていて、彼の思想とその心境を知る上でも、欠くべからざる資料となっている。
一休の、生い立ちから、師である華叟(かそう)のもとを離れ、三十代半ばまでの修行時代、そして、絵入り法話集『一休骸骨』を出す頃までのことは、前に書いてきた(2月25日の項)が、その頃の時代のものだと思われるものを、『狂雲集』から挙げてみれば。
『骨身に沁みるほどの、飢えと寒さの中での修行が、もう六年にもなる。しかし、その苦行こそが、仏の道への深い教えである。生れながらにして釈迦になったわけではないと、道は説いているのに、どの僧侶も、ただ食べることばかり考えている。』
しかし、その苦行の合間に、町に下りた時には、さすがの一休も、巷(ちまた)の欲望に負けてしまうのだ。
『今日は、山中で修行していても、明日になると、町に下りて、いかがわしいことをして、酔いつぶれてしまう。そして、いつも後悔するのだ。こんな私が、棒を使って、他の人に喝(かつ)など入れてよいものか。』(まるで、あの種田山頭火の世界ではないか。)
自ら、『狂雲』と名のり、風狂の世界に遊び、僧侶の戒律である飲酒、肉食、姦淫(かんいん)までも破って、堺の町を練り歩いていた一休だが、他方では、純粋な禅の道を求めるだけに、金銭にまみれた生活を送る、当時の僧侶たちについて、厳しく非難している。
その後の一休について、残されている年表をたどると。
62歳の時、臨済宗の先師、大応国師(だいおうこくし)ゆかりの妙勝寺を再建し、酬恩庵(しゅうおんあん)と名づけた。(現在の京田辺市にあり、後の一休寺である。)この酬恩庵はその後、能、狂言、連歌、茶道などの、室町文化を担う人々の、集まりの場ともなった。
しかし、73歳の時に、『応仁の乱』(1467年)が起きて、京都から酬恩庵に逃れるが、戦火は広がり、さらに各地を転々とする。
76歳、大阪、住吉の薬師堂で、盲目の奏楽者であり、巫女(みこ)だともいわれる、森女(しんじょ、あるいは森侍者、しんじしゃ)に出会う。(写真、一休寺に伝わる『一休宗純像並森盲女像』、正木美術館蔵)
その時のことについて、一休は、日付までも入れて、一編の漢詩を作っているのだ。そして、翌年の春、再会した二人は結ばれる。その時、一休、77歳、森女は30歳位だろうと言われている。
『森女は、私の高僧としての評判だけでなく、皇族の血脈につながることをも聞き知っていて、会いたがっていたし、私も、薬師堂で彼女の姿を見て、その歌を聞いて、もう一度会いたいと思っていた。』
さらに、その後の仲むつまじき二人の姿を、一休は、なんら恥じることもなく、そのままに歌いあげる。
『盲女である森女を輿(こし)に乗せて、私たちは花見に行く。寺をめぐるさまざまな問題で、うんざりしている私には、良い気晴らしになるのだ。見ている人たちから、何と言われようとかまわない。森女は、本当にきれいだし、いとおしい気持ちになってしまう。』
全くこれが、あの一休和尚の言葉か、77歳にもなる僧侶の言うセリフかと、思ってしまう。しかし考えてみれば、それを、単なる年寄りの女狂いだと、片づけることはできないのだ。
つまり、苦難と放埓(ほうらつ)の修業時代を乗り越えて、すべてのものは、虚空に帰り、天地に戻るとして、いわゆる涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の境地に達したかと思われた一休だが、現実に生きているこの身はと考え、さらに生きていくことに忠実であろうと考えれば、それは、臨済の教えにある、『随処に主と作れば、立ち処に皆真なり。』(何においても、ただひたむきに行えば、それは成し遂げられて、まことのものになる。)ということの、証しではなかったのか。
もし、それを悪く解釈したとしても、老人の性を直視すれば、晩年にして、一休が理想の女性(にょしょう)像としての森女に出会えたことを、むしろ喜んであげたい気さえするのだ。
老いてもなお、女性の姿そのものを愛し、美の化身としてあがめて、自己の製作意欲へと昇華させた芸術家たちは、たとえば、小説の谷崎潤一郎にしろ、絵画のルノアールにしろ、枚挙(まいきょ)にいとまがないほどなのだ。つまり、人は幾つになっても、己の美の姿を追い求めるものなのだ
『狂雲集』には、さらに続いて、一休の森女に対する、愛と讃嘆の漢詩が幾つも捧げられていて、最後の一編までもが、森女に対する感謝の言葉で締めくくられている。
『緑の木の葉がしぼみ、枯れ落ちても、春になると、昔からの約束のように、また再び芽吹いてきて、やがて、その緑の葉の間から、花が咲きだすのだ。私が、森女に出会えた、その深い恩を、ひと時でも忘れたとすれば、未来永劫(えいごう)の畜生道(ちくしょうどう)に、堕(お)ちてしまうだろう。』
この言葉を聞いて、もう私はただ涙する他はない。それは、一人で生きてきた盲目の女奏楽者と、同じように、男女の愛に対する盲者であった年老いた僧侶との、あまりにも遅すぎる、しかし純粋な思いに溢れた、奇跡的な邂逅(かいこう)であったことかと・・・。
その後の一休は、森女との交情を深めながらも、臨済宗の高僧としての務めを果たしていく。
80歳、天皇の勅命により、大徳寺の第四十八代住持となる。(しかし、一休はその大境内の中に、安住しようとはしなかった。)
86歳、酬恩庵にて、亡くなる。(前年に『狂雲集』完成。)
一休の死の床には、恐らく森女の姿もあっただろう。そして『本阿弥行状記』には、『一休和尚臨終の時、死にとうないと弟子にのたまいける・・・。』との記述が残されている。
(以上の漢詩等の訳文はは、2月25日の項であげた参照文献をふまえての、自分なりの解釈である。)
一休のことについて、まだまだ書くべきことがいろいろとあるのだが、拙(つたな)い文章を長々と続けても、何の益にもならないだろうから、4回にもわたって続けてきた話は、このあたりで終わることにしたい。
ただ、一休のことを調べていて気づいたのは、この日本の、平安時代末から鎌倉時代、南北朝時代を経て、室町時代にいたるまでの三百年程の間、戦乱に明け暮れた中世という時代に、何と多くの、名僧たちが、現れていたのかということである。
法然(1133~1212)、浄土宗の開祖
栄西(1141~1215)、臨済宗の日本における開祖
道元(1199~1253)、曹洞宗の開祖
親鸞(1173~1263)、浄土真宗の開祖
日蓮(1222~1282)、法華宗(日蓮宗)の開祖
少し時代をあけて、
一休(1394~1481)、臨済宗大徳寺派
蓮如(1415~1499)、浄土真宗本願寺派
さらに時代を下がると、良寛(1758~1831)の名が見えるだけで、その後の仏教界では、この時代ほどに、数多くの傑出した僧侶を、輩出(はいしゅつ)することはなかったのである。
無信仰の私ではあるが、また別な機会に、これらの日本の名僧たちについて、考えてみたいと思っている。古来からの宗教が、顧(かえり)みられない今の時代だから、こそなのだが。」