2月13日
このところ、雪は降ってもほんの少しで、すぐに溶けてしまう。
母がよく言っていたたとえ話だが、昔の田舎娘の化粧くずれのような”焼け野のまだら雪”状態では、とても山に行く気はしないし、といってそれなら飛行機に乗ってまでの本州遠征の雪山歩きをするだけの決心もつかない。
今ではミャオがいなくなったから、自由に時間は取れるようになったのに、いつまでたっても次の一歩が踏み出せない。望んでいた山登りなどもできるようになったのに、律儀(りちぎ)というべきかぐうたらというべきか、これまでの毎日をすぐには変えられずに、そのありがたさをまだ十分には利用できずにいるのだ。
もし私が宝くじに当たっても、おそらくは長年のその貧乏性から使い道に困り、みみっちくも手元に少しだけ残して、後はどこか困っているところへと全額寄付してしまうことだろう。
若いころには一獲千金(いっかくせんきん)を夢見て、何度も宝くじを買い、多少のギャンブルにはまった時もあったけれども、こうして年を取ってくると、今までの長年の窮乏(きゅうぼう)生活が身にしみついていて、今さら余分なお金など欲しくもないし、こうして毎日を生きていけるだけあれば十分だと思うようになってきた。
年寄りになっていくことの楽しみの一つは、それまでは多くの不満を抱えてはピリピリしていた、あの若き日のぎらついた欲望の呪縛(じゅばく)から、少しずつ解放されていくということだ。
そうしたストレスを余り感じなくてすむようになった今は、思えばずいぶん楽になったものだ。
しかし、人間の心理とは面白いもので、そうした自由な気持ちになったから、それですべてうまくいくというわけでもない。
つまり今まで、何々が欲しいと思って外部に働きかけていたことが必要でなくなると、そこで外部との関係が失われたり、疎遠(そえん)になったりしてしまい、いつしか少しずつ社会からは孤立してしまうようになる。
つまり自由になって得たはずのものが、自分の孤独を招くもとにもなってしまうのだ。
そんな時にさらに、いつも一緒にいた自分の身近な家族を失ったとすれば、孤立はさらに深まっていくことになる。
気分一新の山登りに出かける気にもならず、ミャオがいたころの毎日がそこここにちらつき、家に閉じこもって考えてばかりいれば、当然うつうつとした気分になってしまう。
読む本も、いつしか孤独や死についての哲学書やエッセイなどが多くなってくる。もっともそれらは、暗い絶望的な話ではなく、むしろ逆に、明るい将来や意義ある生について語られていることが多いのだが。
つまりそれらは、当然のことだが、自殺願望者たちが考える解決策としての死の考察(こうさつ)ではなく、これから先に訪れるであろう死について、心構えとして学んでおくべきことを説いているからである。
それらの本をひとくくりにして答えを出せば、死がいつもそばにあるということを頭において、これからも残りの時間を”よく生きよ”ということなのだ。
まあそれも大ざっぱに誤解を恐れずに言えば、哲学者や倫理学者たちが考える”生と死”という大きな命題は、そうして考えることのできる十分な時間のある人たちによる、あるいは職業として突き詰めて考えねばならぬ人たちによる、大きな研究テーマでしかないのだと・・・。
毎日を忙しく必死で生きている人々にとって、生だの死だのと考えているヒマなどないのだ。
さらに、それらの本の中で誰かが言っていたように、死については、私たちはもうその時には生の側にいないのだから、分かりようがないし考える必要はないのだ。そして、もし死が死後の世界を伴うものなら、期待してその日を待てばいいだけのことだ。
私の目の前で死んでいった二人、母とミャオが身をもって教えてくれたことが、今も私の頭の中にしっかりと残っている。
何も特別なことではない。ともかくも、その時までは生きていくこと、そしてその時が来たら、覚悟して静かに受け入れること・・・。
阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ懐(ふところ)へ、マリア様のみ胸に・・・宗教の違いを超えて、たどり着くべき自然なる神の懐は同じなのだろう・・・。
しかし、そうしたことがしっかりと分かるまでは、私は家に引きこもってばかりいて、いかに天気の良い日が続いたとしても、次にはまた重たい曇り空の日が来るのだと思い、いつまでも堂々めぐりの暗い気持ちの中にいた。
そんな時、私のすっかり滅入った気持ちの上に、さらなる憂愁のベールが包み込んできたのだ。
”毒をもって毒を制す”のことわざではないけれど、沈んだ気持ちの時には明るい声よりは、相づちを打つような悲しげな声の方が、大きなな慰めになることがある。(その逆もあるけれど・・・。)
ある時、ふと私の耳に一つのもの悲しいメロディーが響いてきた。
小さく、口笛でなぞってみる。そうだ、あの曲だ。
フォーレの「ピアノ五重奏曲第1番ニ短調」の、出だしの部分、ピアノの音が小さくアルペッジオ(分散和音)で聞こえてきて、次に弦楽四重奏がその後をついで、次第に変奏されて流れていく。
それは、東京で働いていた昔のことだが、毎日の仕事に疲れてはて夜遅くひとり住まいの部屋に帰ってきていたころ、ちょうどそのころ長く付き合っていた彼女と別れたこともあったのだが、憂愁の思いにとりつかれては、ただフォーレの曲ばかり聞いていたことがあった。
ガブリエル・フォーレ(1845~1924)は、後期ロマン派のフランスの作曲家である。
フォーレと言えば「レクイエム」というほどに、あの天国的な音の響きの鎮魂(ちんこん)曲が有名であるが、私が当時夢中になって聴いていたのは、「夜想曲集」「前奏曲集」「舟歌」などのピアノ曲はもとより、特に室内楽曲の数々、「ヴァイオリン・ソナタ」「チェロ・ソナタ」「弦楽四重奏曲」「ピアノ三重奏、四重奏、五重奏曲」などであり、それらの曲の中から聞こえてくる、心のうちに秘めた幽遠(ゆうえん)な思いや、時にはほとばしり流れくるひたむきな思いを込めたような、豊かな音の響きに魅せられていたからである。
霧の林の中をひとり、思いを胸にさまよい歩くような・・・。
そして、それらの曲の中でも、レコードに針を落とした瞬間に、私の胸に響いてきたのが、この「ピアノ五重奏曲ニ短調」である。
当時、ジャン・ユボーのピアノとヴィア・ノヴァ四重奏団によるレコード(エラート・レーベル)を聴いていたが、後にジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンとORTF(フランス国立放送管弦楽団)四重奏団によるレコード(シャルラン・レーベル)を聴いてすっかり魅了され、その後さらにコラールのピアノにパレナン四重奏団などを聴いたりもしたが、私にはこのシャルランの一枚さえあれば十分だった。
CDの時代になって、このシャルラン盤は日本ではヴィーナスレコードから再発売され(写真上)、ピアノ五重奏曲2番ともども(どちらも40分余りという極めて短い収録時間ながら)、すぐに買い求めて、こうしてたまに思い出しては聴いているのだ。
そうして、音楽を聴いてたっぷりと憂愁の思いのひとときに身をゆだねると、いつしか今まで胸の内にとどこおっていた何かが、もう洗い流されていることに気づくのだ。
人は、そのきっかけが何であれ、こうして再び自分の前にある道へと歩き出すのだろう。
写真の一枚でよみがえる記憶があるように、一つのメロディーから昔のことを、その時の自分を思い出すこともある。
それはこうしたクラッシックの音楽だったり、映画のテーマ曲だったり、ジャズやポピュラーだったり、歌謡曲だったり、民謡だったりと、”世は歌につれ、歌は世につれ”のたとえではないけれど、私は幾つもの音楽とともに生きてきて、その幾つもの音楽はまた私の生きてきた時代とともに流れてきたのだと、今さらながらに思うのだ。
その歌のことで、一人の門付け(かどづけ、家々を回る流しの三味線弾きや唄い手)の女の情景が浮かび上がってくる・・・。
あの小泉八雲が書いた『心』の中の「門付け」と題された一節である。
長くなるので前半を要約すると、次のようになる。
その冒頭には、1895年3月と書いてあるから、作者である、アイルランド系イギリス人のラフカディオ・ハーン(日本名小泉八雲、1850~1904)が、明治中ごろの1890年に憧れていた日本にやって来て、やがて旧松江藩の武士の娘、小泉セツと結婚して、その後、英語教師として松江から熊本へ、さらには神戸へと移り住んだ頃のことである。
(ずいぶん前のことだが、NHKで放送された『日本の面影』という小泉八雲のドラマでは、壇ふみがそのセツを演じていてその凛(りん)とした姿が今でも思い浮かぶほどだ。)
その彼が住んでいた家に、ある日、三味線をこわきに抱えた一人の若い女がやってきた。その傍にいる7,8歳くらいの子供を連れていた。
彼女の顔は、見た目は良くなかった。その上に病気の痕(あと)のあばたが、さらに彼女をひどく見せていた。
彼女は、玄関口に腰をかけて、三味線の糸の調子を合わせ始めた。
そうしているうちに、いつの間にか玄関の周りの家の外には、女子供や年寄りたちが集まってきていた。
そして、彼女は三味線を爪弾(つまび)き、歌い始めた。
しかし、その不格好な唇から聞こえてきたのは、まるで奇跡のような、澄み切って若々しく胸を打つような声だった。
玄関先で聞いていた彼は、今までにこれほど三味線をうまく弾き、きれいな声で歌う芸者を見たことはなかった。
彼女が歌うにつれ、周りの人々からは静かなすすり泣きがもれてきた。
彼には、その歌の意味が分からなかったが・・・しかし、
(以下は、”A Street Singer" 牧野陽子訳による。)
「・・・日本の暮らしの中の悲しみや優しさや辛抱強さが、彼女の声とともに伝わってくるのが感じられた。
それは目に見えぬ何かを追い求めているような切なさである。
そこはかとない優しさが寄せてきて、周りでかすかに波打っているようだった。
そして忘れ去られた時と場所の感覚が、この世ならぬ感情と入り混じりつつ、ひそやかに蘇(よみがえ)ってきた。
――今生(こんじょう)の記憶の中には決してない時と場所の感覚が。
この時、私は歌い手が盲目であることに気づいた。」
私は今でも、この子供を連れた瞽女(ごぜ、盲目の門付け女)のことを思い浮かべると、まぶたが熱くなるのだ。
必死で生きていくことには、何の理屈もないのだと。
おまえはこれほど恵まれた中に生きていて、一体何をぐずぐずと考えているのだ、という声が聞こえてくる。
せっかくの今があるのだからこそ、これからをよく生きるべきだと、ただ自分を励ますように・・・。
(参考文献:『<時>をつなぐ言葉 ラフカディオ・ハーンの再話文学』 牧野陽子著 新曜社、『心――日本の内面生活の暗示と影響』ラフカディオ・ハーン著 平井呈一訳 岩波文庫、『日本人の心』ラフカディオ・ハーン著 平川祐弘訳 講談社学術文庫)