ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

『北の国から』と『愛する時と死する時』

2013-02-05 10:41:55 | Weblog
 

 2月5日

 「福は内、鬼は外」。一昨日、誰もいない家の中で、ひとりで”節分”の豆まきをした。
 長い間、母と一緒に暮らしてきて、その折々に母が行ってきた様々な季節のことどもを、ひとりになってからもそのまま受け継いで続けている。
 若いころならば、そんな古臭い迷信に近い家庭の行事など、小馬鹿にしていたのだが、年を取るにつれて、なるほどこれらのことは、季節の変わり目への備えを促すためなのだと納得できるようになってきた。

 日本人は、日本人として生まれるのではなく、日本人として作られるのだという言葉が思い浮かんだ。
 もちろんそれは、あのボーヴォワール(1908~1986)の、「人は女に生まれない。女になるのだ――女はこうして作られる」という、『第二の性』の冒頭に書いてある有名なフェミニズム宣言ともいうべき言葉から思いついただけのことで、ここで改めて日本人論について考え直すというような大それた考えはない。

 そんな季節の移り変わりを知らせる”節分・立春”だからというわけでもないのだろうが、この三日ほどは晴れて暖かいまるで春のような日が続いていた。
 庭の隅に残っていた雪は、その前の雨で跡形もなく溶けてしまった。
 冬の雪景色が好きだと言っている私でも、こんな寒い家にいるからこそ余計に、春の日差しがとりわけ暖かく感じられるのだ。
 まず洗濯をして、一枚一枚とベランダに干していく。体じゅうに降りかかるぬくぬくとした日の光を受けて・・・。
 ありがたいことに、今、私は生きているのだと思う。
 次にその日の当たるベランダの椅子に座って、穴あき靴下などの繕(つくろ)いものをする。
 その昔、高校生の家庭科の時間に覚えた、針仕事がしっかりと役に立つのだ。

 思うに、中学高校時代に習った学科のすべてが、その後の人生の中でいかに役に立っていることか。
 そんな事とはつゆ知らず、小難しい勉強を嫌い、仲間とただ騒ぎまくっていただけの時間が、今から見れば何と馬鹿馬鹿しく思えることだろう。
 そんな若き日の不勉強ぶりを取り返すべく、ある時、今の高校の教科書を幾つか買いそろえて、勉強しなおそうとしたことがあったのだが、生来の怠け癖は治らず、取りかかってすぐに中断しては今に至っている。何事も、志(こころざし)はよしとすべきなのだが・・・。

 たとえば、上にあげた家庭科は言うに及ばず、誰もが必要だと思っていても話すことができない英語は、その基本となるものを中高校で教わるのであり、それは私の長期外国旅行の時の基礎的な会話のもとになるものだった。さらに、地理や歴史の科目で学んだことは、日本国内はもとより外国での基礎知識として、極めて有用だったことは言うまでもない。
 北海道でひとりで家を建てた時には、これまた数学の数式が大きく役に立ったし、周りの野山を歩き回る時には、幾らかでも生物の知識があれば、それだけ植生への理解も早くなるのだ。
 他にも、その後、数々の文学作品に親しむようになってからは、国語や古文のなお一層の読解力の必要性を痛感したのだ。

 すべては、中学高校時代に習得しておくべきものばかりなのだ。
 学生時代の勉強は、何も受験のためだけではない。いやそれ以上に、大人になって生きていく上での知識を集めた、自分の脳内百科事典、マイ・ウィキペディアを作るためのものなのだ。
 それなのに、そんなことには誰も気づくことなく、イヤイヤ勉強を続けては、中高生時代の大半の時間を無意味に終わらせてしまう。かく言う私もその一人だったのだが、あーあ、今にして思えばもっと勉強をしておくべきだったと・・・。

 暖かい日差しがあふれる家のベランダで、繕いものをしていた話から、わき道にそれてしまったが、さて、次は散髪に取りかかることにする。
 新聞紙を広げて、電気バリカンで自分の髪の毛を刈っていく。
 床屋に行かなくなってから、もう十年近くにもなる。わずか数千円で買ったこの電気バリカンは、故障することもなく、一月に一回、少し伸びた私の頭の毛をやさしく刈ってくれる。
 なるべく鏡に映った自分の顔は見ないことにして、見るとタラーリタラリとあぶら汗をかき、それを集めて煮詰めたところで、鬼瓦印のガマの油として売り出せるわけでもないから、ただ頭だけを見ては髪を刈っていくのだ。

 初めてこの電気バリカンを買った時さっそく使ったのだが、うまく使いこなせずに悲惨な結果になってしまい、そのトラ刈り頭を帽子で隠しながら、恥を忍んで床屋で散髪しなおしてもらったことがある。
 そうした失敗や経験を糧(かて)にして、今では”バーバー鬼瓦”の看板をあげたいくらいの腕前になったのだ。
 失敗挫折こそは、次なる成功のための大事なステップなのだ。
 若い時には悲観的に考えがちになることを、前向きにとらえられるのは、経験を積み重ねてきたからこそのことであり、こうして、年を取ったからこそ、物事に慣れては上手くなっていき、楽しみがまた一つ増えていくのだ。
 一方では、何事にも多感であり、針小棒大(しんしょうぼうだい)に考えては大騒ぎして、喜び悲しむ、あの落ち着きのない若き日の自分になど戻りたくはない。

 年を取れば、いつしか昔の苦しみ哀しみは薄れゆき、今にして喜びの甘い思い出だけが再び香りたってくる・・・。

 上の写真は、今スキャン作業をしている中判ポジ(リバーサル)フィルムからの一枚である。
 十数年前の4月、北海道は天馬街道(てんまかいどう)、野塚トンネル傍から国境稜線への尾根に取りつき、稜線をたどって野塚岳を往復した時の一枚である。
 連休前だから、縦走者の足跡一つなく、真冬の時期と変わらない白い雪の稜線を、ただひとり歩いて行った。
 まだ先にある頂きに着くことよりは、今、目の前にあるその時々の景観に目を奪われて、何度足を止めたことだろう。
 写真左が野塚岳本峰(1353m)、右が西峰である。

 その時の、4時間近くかけての急傾斜の尾根への登りや、稜線からの雪庇(せっぴ)の張り出しの崩落が気になったことなどを覚えてはいるものの、改めてこの写真を見た私の思いは、あの穏やかな白い稜線歩きの、まるで天国の門に至るかのようなひと時であり、今でも私をやさしい思い出のそよ風で包んでくれるのだ。

 このように、自分の頭の中にある記憶は、これまで生きてきた年数分の思い出として蓄えられていて、その忘れていた記憶の一つが、一枚の写真を媒体(ばいたい)にして、鮮やかによみがえってくるのだ。
 今、私の傍には昔の思い出を話し合える相手が誰もいないけれども、もともとこれまでひとりで行動することが多かったから、その時々に撮ってきたおびただしい数の写真の一枚一枚によって、自分の歩いてきた道を思い出しては、自分に語りかけることができるのだ。あの時に、私は確かにあの場所にいたのだと・・・。
 つまり、どんな物事でも、それが悪い結果になったとしても要は考え方次第、後になって自分の都合のいいように考えた方が、明日に続く道を見つけやすいということだ。

 私は、理髪料を節約するために自分で頭を刈ることにしたのであり、外食をせずに食事のほとんどを家で自分で作って食べることによって、食費を切り詰めることができるし、前回書いたように、必要な冷蔵庫やパソコンや本やCDは買うとしても、酒やタバコなどはとっくの昔にやめているし、夜は外に出ないしぜいたくはいっさいしないことで、九州と北海道での生活を両立させているのだ。

 その昔、忙しい東京での暮らしから北海道での生活へと移る時に、心に決めたことは、お金より静かな時間をという原則であり、そのために、お金がないから自分で家を建てたわけであり、水は時々枯れるような井戸水だけが頼りだし、暖房は家の林の木を切った薪(まき)でまかない、ゴミはなるべくそこで処分するようにして、トイレは外に作り工夫して処理できるようにして、五右衛門風呂にはたまにしか入れないが、ともかくそんな不便な生活にも見合うだけの、穏やかな時間がそこにはあるのだ。 
 もちろんこのような節約生活は、テレビのお遊び番組である、数日間無人島で暮らすだけの生活ではないことを、心しておくべきなのだが。

 つまり借金さえしなければ、節約して暮らしていけば、田舎では生活できる手立てはいくらでもある。
 今では一般的になって手軽に入れるローンこそは、実は名前を変えただけの巨大借金であることを肝に銘じておくべきである。お金がなければ買わないまでのことであり、なければないなりに田舎ではやっていけるということだ。

 こんなことを書いているのは、何度か目の再放送になるのかもしれないが、今、BSフジで、あの『北の国から』が放映されていて、それを楽しみに見ているからだ。
 それも最初からの、1時間番組の連続ドラマとして24回分放送されたものが、今年になってから平日の毎日に放送されているのだ。
 私は今まで、このシリーズを見ていなかった。ちょうどそのころ、北海道での家づくりに取りかかっていて、タダで借りていた古い空家と現場を往復するだけの毎日だったからだ。もちろんテレビもなかったし。
 後になって、友達からお前と同じようなことをやっているドラマがあると知らされ、その後、単発物の3時間ドラマになってからやっと見るようになったのだ。
 その中でも白眉(はくび)のシーンは、『'87 初恋』で、中学を卒業した純が、東京までのトラック便に乗せて行ってもらうことになり、そのトラックの助手席に座っている時に、今は亡き古尾谷雅人ふんする運転手から父親が渡したという1万円札を返されるのだが・・・。
 今思い出してもまぶたが熱くなってくる・・・。

 物語のそもそもの始まりは、総集編などを見て断片的には知ってはいたものの、今回のシリーズを見て初めて分かったようなことが幾つもあった。
 昨日の放送分で21回目であり、まだ全部は終わっていないのだが、中ごろあたりまでは毎回のテーマを絞った話にひきずりこまれて、その後少し散漫(さんまん)になってしまった話の回もあったが、ともかく楽しみに見せてもらっている。
 それぞれの回の話の中でも、何度かウルウルと来たのだが、この時ばかりは、もう耐えきれなかった・・・それは、東京から母がやって来ても、許せない気持ちがあってひとり家で寝ていた蛍(ほたる)が、急に母に会いたくなり、駅には行けずに、母の帰る列車を見送るために川べりの土手を走って行くシーンであり、私はひとりきりの部屋で声をあげて泣いてしまった。

 子供のころの母とのつらい別れの思い出が、この年になっても思い返されては、蛍の姿にだぶってしまったからだ。
 鬼瓦の目に涙・・・とても人様には見せられない姿だったのだが・・・ミャオがいたら、きっとあのざらついた舌でなめてくれたことだろうに。

 しかし、この『北の国から』のシリーズや、単発物を含めた一本一本の話のすべてが、納得できるものばかりだというわけではないし、多少の制作上のアラが見受けられる所もあるけれども、そうしたものを超えて、日本人としての私たちの心に響く何かがあるからこそ、毎回、見続けたくなるのだろう。
 上で少しふれたように、私たちは、日本人として生まれてきたのではなく、こうしたドラマのように日本人として育てられてきたからでもあるのだろうが。
 戦争後の昭和の世代が経験してきたもの、それはあのNHKの連続ドラマ『おしん』で描かれていたものと同じような、耐える世界であり、その後『おしん』が海外で、特に貧しい開発途上国で大ヒットしたというのも、うなづける気がするのだ。

 それにしても、ここまでのシリーズを見てきて感じたのは、この話を書き続けてきた倉本聰の脚本の力によるものが第一だとしても、幼い兄妹役の純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)の、自然なセリフと演技の素晴らしさ、そして父親役の田中邦衛、叔母さん役の竹下景子はもとより、その他のわき役たちの多彩な顔ぶれも・・・ひとつだけ例をあげれば、昔の時代劇の大スターだったあの大友柳太郎が、そのの憎まれ役である偏屈(へんくつ)じじいとして登場していたのだが、最後に死ぬシーンまでその迫真の演技からは目が離せなかった。

 日ごろから、テレビ・ドラマなど見ない私がこうして『北の国から』を見続けているのは、かなりリアルに仕上げられた北海道のドラマだからであり、この一家の生活が、私の北海道での生活から遠くはない貧しい暮らしぶりであるからであり、まっとうに貧乏に生きることの大切さを高らかにに歌い上げてくれているからである。
 それはまさに、あのローラ・インガルス一家の家族愛に満ちた『大草原の小さな家』の日本版であり、あの中野孝次のベストセラー『清貧の思想』の実践版でもあるからだ。

 この『北の国から』は、私の子供時代へと引き込んでくれるだけでなく、今のひとりでいる私を励ましてくれてもいるのだ。
 東京生まれの倉本聰が、北海道に移住してまで書き上げた話に、その昭和男の洒脱(しゃだつ)で一本気なロマンに、今はただたっぷりと浸っていたい。
 こうしてひとり田舎に引きこもっている、いじけた私とは違う世界だからこそ、このドラマの家族を憧れを込めて見つめていたくなるのだ。
 「古い奴ほど、新しいものを欲しがるものでございます」とかいう、歌のセリフがあったのだが・・・。


 所で話は変わるけれど、前回のクラッシックCDの話の後に書くべきだったのだが、その後テレビで放映されたクラッシック音楽番組についても少し触れておきたい。

 まずは、マウリッツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ選集。
 あの鮮やかな切り口でピアノ・ソナタの大曲「ハンマークラヴィーア』を録音した若き日のポリーニに比べて、今の彼は、30番,31番,32番と並んだ最後のソナタ集をなんと情感豊かに聞かせてくれることか。
 さらに、去年の来日公演が話題になったヤンソンス指揮によるバイエルン放送響のベートーヴェン交響曲の全曲演奏。
 最近では古楽演奏法などを取り入れた解釈演奏が脚光を浴びている中、しっかりと根づくドイツのベートーヴェン伝統をふまえて、今の時代にも変わらぬゆるぎない力を鮮やかに引き出したヤンソンス。
 若いと思っていた彼はなんと、ポリーニともどももう70歳になるという・・・時の流れ。

 同じ円熟味を感じさせる演奏家がもう一人。イタリアの名メゾ・ソプラノのチェチーリア・バルトリである。
 サイモン・ラトル率いるベルリン・フィルのジルベスター・コンサート(大晦日のコンサート)の前半では、バロック・オペラのアリアと舞曲が演奏され、後半はドヴォルザーク、ブラームスの舞曲とラヴェルの「ダフニスとクロエ」バレエ組曲という、舞曲というテーマにちなんで考えられたプログラムになっていた。
 この「ダフニスとクロエ」は、久しぶりに聞いたのだが、さすがに管弦楽曲の魔術師ラヴェルらしい見事な曲であり、若かりしころ私は、あの「ボレロ」とこの曲を背景に流しながら、大人の恋と若者の初恋についての映画を作れたらと、臆面(おくめん)もなく夢見ていたこともあったのだ。
 「君が緑の黒髪と君紅(くれない)の唇と・・・夢恥ずかしきこの別れ」などという、昔の歌を思い出す・・・。

 話をバルトリの歌に戻そう。私は、バルトリのアリア集のCDを2枚持っている。
 彼女は、あの一時代を築いたヴァレンティーニ・テッラーニの後を継ぐ、いやそれ以上のバロック・オペラやロッシーニ・オペラの歌手としての活躍を期待していたのだが、彼女の技量はバロックにとどまらず、近代オペラでも通用する見事なものであり、逆に言えばそのきらめくような明確な装飾音をつけての歌い方が、余りにも超絶的であり、少し気になるほどでもあったのだ。
 しかし久しぶりに見た彼女は、その容姿から見ても、豊かでまろやかな感じになっており、その彼女の歌声も今の姿にふさわしい、包み込むような温かさにあふれていた。(写真下)

 

 その一曲目の歌声を聴いた時から、私としてはブラボーものだったのだが、さらに私の好きなあの有名なヘンデルの『リナルド』からのアリア「涙の流れるままに」('10.2.27参照)、その原曲となったのが彼のイタリア時代に書かれたオラトリオ『時と悟りの勝利』からの「快楽のアリア」であり、彼女はそれを見事に歌いあげたのだ。ブラビッシモという他はない。

 その他にも、ベルリン・フィル首席奏者のオーボエやコルネットとの掛け合い演奏の見事さは、ジャズにおけるアドリブの掛け合いにも似て楽しかった。
 あーあ、これほどの演奏会なら、ぜひともそのホールで聞いてみたかった。(なんとこの日の演奏のために、何十万もする日本からのツアーも組まれていたとのことだ。)
 さらに4時間近くにも及ぶこの番組の後半では、その前の日の30日に演奏された、あのティーレマン率いるドレスデン歌劇場管によるカールマン・ガラコンサートがあり、カールマン(1882~1953)のオペレッタの名曲の数々を、ソプラノのシェプフとテノールのペシャワの二人が、明るく楽しく歌い上げていた。
 ドレスデンで聞いても、ウィーンのオペレッタの優雅さは伝わってくる。これもまたいい演奏会だった。

 生きていれば、生きてさえいれば、またきっといいことがあるのだろう・・・。

 しかし、一昨日の朝、テレビ画面に映し出された、市川團十郎の訃報(ふほう)の知らせ。私ごときの末席の歌舞伎ファンでさえ、一瞬、絶句したほどで・・・。
 つい先日、稀代(きだい)の才能を持った中村勘三郎を失ったばかりの歌舞伎界が、今度は大名跡(みょうせき)であり歌舞伎界の屋台骨を支える一人でもある團十郎までも失うとは・・・。


 「彼は大声で叫びたいと思った。急いで、大声で、言わなくてはならぬことがあまりにもたくさんあった――」

 『愛する時と死する時』より(エーリッヒ・マリア・レマルク著 山西英一訳 現代世界文学全集 新潮社)。