ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オンタデと宝永山火口

2012-09-09 17:29:32 | Weblog
 

 9月8日

 前回からの続きである。富士登山を思いたった私は、北海道から飛行機、私鉄、新幹線、タクシーと乗り継いで、富士宮口五合目に降り立ち、そこからしばらく登って、新七合目の小屋に泊まった。

 深夜、話声が聞こえた。私の上の段にいた、あの父娘の二人が荷物をまとめて下りて行った。時間は、確かに彼らが言っていた通りの、1時だった。
 多くの富士登山者がそうするように、今の時間から、ヘッドライトをつけて夜道を登れば、頂上での”御来光(ごらいこう)”を迎えて、朝日が昇る時を見ることができるのだ。

 私は、布団の中でじっと寝ていた。
 確かに、日本最高峰の富士山の山頂から、日の出を拝(おが)むというのは、日本人としてのよりふさわしい富士登山のあり方なのかもしれないし、それは江戸時代から今日まで形は変われども、脈々と受け継がれてきている、”富士講(ふじこう)”的なある種の信仰登山の形なのだろう。

 しかし、今回の私の目的は、今まで他の山々に登ってきた時と同じように、あくまでも富士山という山をよく知るために登るのであって、周りの景色を見ながらのその道程も楽しみたいのだ。
 だから私は、夜明け前の薄暮の状態ならまだしも(8月5日、10日の項参照)、夜の暗闇の中をずっと歩き続けることなどとても考えられなかった。

 そのうえ私は、自分の長い山行経験の中で何度も様々な”御来光”を目にしていて、どうしてもここでという気にはならなかったのだ。さらにできるなら、昇る朝日よりはその朝日に染まる周りの山々をこそ見たいと思っている(’09.11.1の項参照)。
 しかし富士山の場合、そのための対象となる山々が、低いか離れすぎていて、十分なモルゲン・ロート(ドイツ語、朝の赤い色)を楽しむことができないのだ。ただ積雪期に登って、バラ色に染まる南アルプスの山なみを見てみたいとは思うが。

 というわけで、私は、夢うつつの中まだ早すぎると思いながら、それもいつしか眠りの中に・・・。

 そして、しばらくはぐっすりと眠っていたのだろう。誰かが起きる物音で目を覚ました。時計を見ると、何と4時45分。しまった、4時に起きるつもりだったのに。
 山小屋ではいつも早立ちの人がいて、4時前にはもうざわざわし始めるから、自分の時計のアラームをセットしていなかったのだ。

 あわてて、周りに出していたものをザックに入れて、小屋の外に出る。夜明け前の地平が、黄金色の帯になって輝いていた。
 日の出前の、この早暁(そうぎょう)の空の色こそが素晴らしい見ものなのに。
 本来ならば4時過ぎに小屋を出て、ようやく東の空が白み始めるころ、その細くきらめく一筋の線が刻々変化していくのを、その夜明けの空を見ながら登るつもりだったのに。
 今やそれはもう、陽が昇ってくるほどの広い明るい帯となって東の空をふち取っていたのだ。

 5時、私は歩き出した。行く手のはるか上の方まで、点々とヘッドランプの小さな明かりが見えていた。ただし、私の前後には登って行く人がいなくて、静かな朝の山だった。
 東の山の端と地平の狭間の所から、“御来光”の朝日が昇って来た。

 さらに、その朝の光が眼下に広がる景色に陰影を与え始めていた。見事な俯瞰(ふかん)地図の様な眺めだった。
 一部が雲海に被われた富士山の裾野の所々は、雲が途切れていて、まず愛鷹(あしたか)連峰がひと塊り浮かび上がり、その先には伊豆半島が、中央部には天城・万三郎岳などの山々が連なり、そして左上には伊豆の大島が見え、さらにこの裾野が尽きる所は、田子の浦から三保の松原へと海岸線が続いている。(写真上)

 幸いなことに、昨日の軽い頭痛もすっかり治まっていて、体調に何の問題もなかった。しかしこういう時こそ、急がずにゆっくりと歩いていくべきなのだ。
 道は、火山礫(れき)や溶岩がむき出しになった斜面に、ジグザグにつけられていて、青空が広がる頭上には、次の山小屋が見えているのだが、なかなか近づいてこない。
 後ろから来たジーンズ姿に金剛杖を持った若者たち数人が、元気に私を追い抜いて行った。

 次の小屋は元祖七合目と呼ばれる3030m点にある。
 この富士宮口の登山道は、五合目からそれぞれに、1時間以内のほぼ等間隔に山小屋兼ベンチのある休息地点があって、ペース配分のいい区切りにもなるが、もっとも座れるベンチは少なく、結局は小屋の裏手の道のそばで休むことになるのだが。
 そんな富士宮口を選んだのには、理由がある。

 富士山には、四つの主な登山道があり、もっとも良く登られているのは、北側の河口湖口つまり富士吉田口であり、それは今では余り歩く人も少ない富士吉田の一合目から登る昔からのルートと、ほとんどの人が利用するスバルラインで五合目まで上がって登るコースがあるのだが、いずれも六合目で一緒になる。
 次に、東側の須走(すばしり)口はやや距離が長くなり、吉田口ほどには混み合わないのだが、上の八合目で吉田口からの道と合流して、一気に混雑してくる。
 そしてこの富士宮口の隣にある御殿場口のコースは、なんといってもその距離の長さにあって、その上、小屋数も少なく、敬遠されているが、逆に言えば静かな山歩きができるということでもある。

 ちなみに、各登山口からの、お鉢上のそれぞれの頂上までの時間は、富士宮口が5時間15分、富士吉田口が5時間50分、須走口が7時間、御殿場口が8時間20分。(以上『山と渓谷』付録地図より)
 
 さらに、山開きの間の夏の2ヶ月間の登山者数は、平成23年度で約30万人近くにものぼり(平均しても1日5000人というすさまじい数の登山者数である)、そのうちの56%、約18万人近くがが富士吉田口からであり、以下、富士宮口が23%、須走口が14%、御殿場口はわずか5%である(環境省のデータより)。
 つまり、富士吉田口と須走口からの道がが合わさった8合目から頂上までは、毎日の登山者の70%もの人々で混雑渋滞することになるのだ。

 その有様をテレビで見たことがあるのだが、押し合いへしあいのあの元旦の明治神宮の初詣(はつもうで)風景となんら変わる所はない。
 さらに、富士吉田口登山道から見上げると、まるで城塞、あるいは要塞のように山小屋が連なっているのが見える。頂上小屋4軒まで入れるとその数19。(富士宮口は8、御殿場口は5軒にすぎない。)
 もうこれでは、登山道というよりは、富士山浅間大社(せんげんたいしゃ)へと続く、参道であると言うべきなのだろう。

 以上のことを考え、自分の体力も頭に入れて、この富士宮口にしたのである。ただし、上にも書いたように富士吉田口や須走口では、下の方からでも御来光を見ることができるのに、この富士宮口からは見えにくいし、さらに他の三つの登山口には上り下りの道があるのに、この富士宮口は、同じ道を譲りあって上り下りしなければならないのだ。

 さて、次の小屋で八合目の3220mになり、ここですでにこの夏登った日本第2位の南アルプスの北岳の3192mを上回ることになった。そこには鳥居が立っていて、これから上は浅間大社の領域になるのだ。
 次の九合目で3400mを超え、この時期でもまだ雪渓が残っている。

 そして、荒涼たる火山色の中に、わずかの緑色を見せていたオンタデの分布もこのあたりまでになっていた。
 一歩一歩と動かす足が思うほどには進まないし、胸が苦しのは空気が薄い高山での影響からだろうか。
 そして、ついにはまたも脚がつってしまった。しかし、がまんして少しずつ歩いているうちにそれは何とか収まったのだが、胸苦しさは変わらない。
 ただ楽しみは、下に広がる伊豆半島や駿河湾の眺めであり、近づいてくる頂上の稜線である。

 道はにぎやかになってきた。御来光を終えて下山してくる人たちの数が増えてきて、前後にも登山者がいて、混雑してきたのだ。
 小さな子供を連れた家族連れも多く、疲れ果てている子供もいた。ただ何といっても、元気な男女の若者たちが多く、下山してくる彼らから挨拶されても、こちらはもう青息吐息の状態で、頭を下げるばかりだった。

 そして今さらながらに気づくのは、この富士山の登山者の年齢層とそのスタイルである。
 それは、中高年が殆どの南北アルプスなどの山と比べて、圧倒的に若者たちが多いということだ。それも学校登山などではなくて、友達、仲間で、この夏富士山に登ろうと話し合ってきたグループらしいのだ。
 まったく結構なことだ。若者たちが、その気になって苦労してでも、日本一の山に登ってやろうとするその気構えが嬉しいではないか。
 いつも山で出会う中高年グループのおしゃべりの騒がしさではない、にぎやかな騒がしさなのだ。

 この登山層については、あの白山に登った時にも感じたものだ(’09.8.4の項参照)。この二つの山に共通するものは、ともに霊山として知られる山であり、昔から信仰登山がおこなわれいて、今も形は変われども受け継がれているということだ。
 日本の山について考える時には、近代登山という側面からだけではなく、宗教登山の伝統も併せて考えなければならないのだ。(深田久弥の『日本百名山』は、そのことを十分に評価として取り入れている。)

 ただ心配なのは、若い人たちの登山スタイルである。もちろんちゃんとした登山靴に山用の服というスタイルの人が多いのだが、中にはジーンズにスニーカー、そして小さなタウン用デイパックだけという姿の若者もいるのだ。確かに小屋が多いから何とかなるだろうが。
 まあ考えてみれば、この富士宮口の往復のコースタイムは8時間45分であり、高山病の障害さえ出なければ十分に日帰り登山が可能な山だし、天気が良ければ軽装でも問題はないのだろう。
 ただ私は、3700mという高度に備えて、様々な小物を詰め込んでザックの重さが10kgにもなってしまったし、それはそれで重さが気になって、登りに支障が出るのだが。

 さて、私は最後の急斜面のジグザグ道をたどりながら、やっと大鳥居のある浅間大社奥宮の頂上に着いた。8時50分、新七合目の小屋を5時に出たから、まずまずの時間だった。
 神社にお参りして手を合わせ、母が有名神社でそうしていたように、家の神棚に供えるべくお札を買った。

 そして、いよいよ日本の最高峰地点(3775.6m)である剣ヶ峰に向かった。
 三角点の周りには、数人の人がいるだけで混んではいなかった。ただ、機器点検のためか、係の人が立ち働いていて、展望台には上がれなかった。眼下の巨大な火口を眺め回した後、わずか5分ほどいただけの頂上から下りてきて、お鉢一周のコースをたどった。

 そして白山岳に向かう途中で、道から少し外れた大きな溶岩の上に腰を下ろした。ようやく一人きりになれた。そして、期待していた展望は、10時に近い時間としては、十分な眺めだった。

 確かに周りには、湧き上がってきた積雲がまるで子羊のように群れ広がってはいたが、山々はまだ見えていた。
 まずは南アルプス、甲斐駒、鳳凰、仙丈、北岳、間ノ岳、農鳥、塩見、荒川三山、赤石、聖と並んでいる。
 その南アルプスから離れて北側には八ヶ岳連峰、横岳、赤岳、阿弥陀と見える。その後ろ遠くに北アルプスの山々、槍・穂高がそびえ立ち、さらに後立山(うしろたてやま)の峰々までもが雲の間に見えているのだ。そして、中央アルプスから御岳山(おんたけさん)も・・・。

 再びお鉢一周を続けるが、二番目に高い標高の白山岳(3756m)へは、残念ながら立ち入り禁止のロープが張られていた。次の久須志(くすし)岳に上がると、氷河ブロックのような残雪を谷筋に刻んで剣ヶ峰が高く見えた。(写真)

 

 今の時間でも人でいっぱいの吉田口頂上だったが、奥宮神社で再び手を合わせ、その裏手にある大日岳からさらにちょっとした岩登りをして伊豆岳(3749m)山頂に上がり、そして成就(じょうじゅ)岳へは先に行って戻る形でその頂きに立った。
 残念なのは、西側の雲が増えて2000mの高さ付近までもう雲海状になっていて、丹沢や大菩薩(だいぼさつ)、富士外輪の山々が見えなかったことである。

 一周を終えて、富士宮口の神社前に戻る。まだ11時だけれども、このままこの山頂小屋で泊まり、今日の夕日と明日のご来光を見てから山を下りてもいいと思った。
 小屋の人に尋ねてみると、小屋の受け付けは4時からだから、それまで時間をつぶして下さいとのことだった。(南北アルプスなどの山小屋では部屋に入れてくれるのに。)

 まさかあと5時間もの間、コマネズミではあるまいし、お鉢をぐるぐる回っていても仕方ない。
 ともかく晴れた日の富士山登頂は果たせたことだし、体調もいいから、このまま下りることにしよう。それも前からの計画通りに、御殿場口コースを経由して宝永山に登り、富士宮口に戻ることにして。

 下りの道は、富士宮口、吉田口の混雑ぶりがうそのような静けさだった。数百メートルおきくらいに、単独の登山者が登ってくる。話を聞くとちゃんと登山口から登り始めてきたそうだ。
 8時間もかかる最長コースの道を、何とエライことだろう。山好きたる者は、富士登山に際しては、すべからくこの御殿場からの道をたどるべきなのだ。

 やはり下りは楽で、火山礫の道をずんずんと下りて行くが、同じ下りの人も少なかった。
 まだ、駿河湾の海岸線が見えていた。ということは、あの浜辺からも、雲の上に富士山が見えているということだ。
 八合目の小屋で一休みして、足がつらないようにスポーツドリンクを買って飲んだ。次の七合目には、小屋が少し離れて三つもあった。その先が、この御殿場コース下りの最大の呼び物、大砂走りへの入口分岐になっている。

 そこで前を行く若い男に話しかけたが、彼も宝永山に行くと言うので、一緒に並んで下って行く。この先の深い砂の大砂走りと比べれば、まだ序の口なのだろうが、何と気分のいいことか。
 少し大きな礫(れき)の混じった砂の道は、抵抗なく大股でずんずんと下って行けるのだ。思えばそれは、残雪の尾根や沢筋を下っていく時の感じに似ている。
 ただし、自分のあげる砂煙りがひどいけれど。(富士宮口からの登山道ではマスクしている人をよく見かけたのだが、なるほどそのためだったのかと納得。)

 さて、これから先が大砂走りというところで分岐になり、名残惜しい気もするが、右手に宝永山への道をたどって行く。なだらかな火口稜線をたどればすぐに宝永山の頂上(2693m)だった。
 富士山本体のお鉢よりも大きいといわれる、江戸時代の宝永年間に噴火したその火口の雄大さ、その火山礫斜面の中で、さらに上に伸びて行こうとするオンタデの緑の鮮やかさ・・・。ここに来て初めて、山の景観を見たような気がした。

 同行する彼とカメラのことから山のことなどを話していくうちに、私よりはずいぶん若い彼なのに、同じような好みだと分かり話がはずんだ。

 頂上からは、火口底に向かっての、一気に砂走りの下りになる。そこは隣の第二火口との境になっていて、緑が濃くなり、何とちょっとしたお花畑になっていたのだ。
 白い花のオンタデ(あるいはイタドリ)に赤い花の変種(雄花)と言われるメイゲツソウ(写真)、ホタルブクロ、イワオウギ、ムラサキモメンヅル、さらにまだ花が咲いていないトウヒレン(アザミ)の仲間らしいものもあった。そして、一匹のアサギマダラがひらひらと・・・。

 少し登り返して、富士宮口五合目分岐点で休むことにする。ここから見ると宝永山の頂が、第一火口と第二火口を分ける分水嶺になっているのが良く分かる。(写真)

 

 まだまだツアーやハイキングの人たちが登ってくる中、六合目の小屋に出て昨日の道に戻り、出発点の五合目へと下りたが、下りには3時間かかっていた。
 もう2時半を過ぎているというのに、昨日以上にまだはっきりと富士山の頂上が見えていた。

 クルマで来ていた彼と別れて、バス停に行くと、3時に出る三島行きのバスがあった。私の他に、外国人の若い男一人と日本人の若い男が二人、彼らと少し話をして、富士山の印象を尋ねると、両者一緒に宝永山と答えた。それはまさしく私の答えでもあったのだ。

 バスはその五合目から、上り側に長い車列が続く道を下り、テーマ・パークやサファリ・パークを経由して三島駅に着いた。
 そこで、彼らと別れ、駅前の観光案内所に行くと、まるで客室乗務員みたいな背の高いきれいなおねえさんが、すぐそばのビジネスホテルを案内してくれた。何と、特別プランの安い料金でということで、行ってみるとまだ新しいホテルできれいな部屋だった。

 シャワーを浴びて汗を流し、外に出ると夕焼け空を背景に富士山がシルエットになって見えていた。近くの店で、大盛り詰め合わせのアナゴ丼を食べた。

 すべてが思った以上にうまくいったのだ。そういう時もある。私は幸せな思いに満たされて、広いベッドの上で眠りについた。

 ああ、富士山、宝永山、きれいなおねえさん、安くて新しいホテルの部屋、たらふくのアナゴ丼・・・母さん、ミャオ、ありがとう・・・。