ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(107)

2009-06-21 17:50:49 | Weblog



6月21日

 昨日の夜から少しむし暑くなり、今日は、朝から気温が18度もあって、すぐに小雨が降ってきた。梅雨の時期に、こんなことを言うのはおかしいけれど、全く久しぶりの雨だ。
 朝、飼い主と一緒に、いつもの散歩に行ってきた。飼い主は先に帰り、ワタシは後から戻ってきて、雨にぬれてしまった。ベランダから、家の中に入り、ニャーと鳴くと、飼い主がやってきて、おーよしよしと、言いながら、ワタシの体をタオルでふいてくれた。
 飼い主が戻ってきて、3週間足らずの間に、雨にぬれて体をふいてもらったのは、確か、たったの二度だけだ。それほどに、これまでは雨が降らずに、良い天気の日が続いたのだ。
 もっとも、飼い主の話によれば、この後が、本当の梅雨入りで、天気予報も、ずっと曇りか雨だそうだ。

 しかしワタシにとっては、天気もそうだけれど、それ以上に、飼い主のこれからの動向が気になる。こうして、毎日、生魚をもらい、好きなだけミルクを飲んで、安心してぐっすり寝ることのできた日々が終わり、また、ひとりぼっちのノラの生活に戻る時が、近づいてきているのではないかと思うからだ。
 ままよ、今はただ、この雨模様の空の下、しっかりと眠っておくほかはないのだ。明日のことは、明日になって考えればよい。

 「北海道に戻る日が、近づいてきた。いつも、そのたびに思うことだけれど、何も知らずに、私のそばで寝ているミャオを見ているとつらくなる。
 ミャオと一緒に、ここで暮らすことが、イヤなわけではない。むしろ、私にとっては、ここにいれば良いことのほうが多いのだ。
 まず、ミャオがいることで、確かに少し、自分の自由がきかなくなるが、それでも、ミャオと一緒にいることによる、精神的な安らぎを得ることのほうが、私には大きい。
 さらに、この九州の家のほうが暮らしやすいのだ。トイレは水洗だし、風呂は毎日でもはいれるし、いつでも洗濯できるし、つまり、別に特別立派な家でもなく、ごく普通の古い家なのだが。

 北海道の家は、乏しい予算の中で、自力で建てた山小屋だから、今になって思えば、不便なところが余りにも多すぎるのだ。
 トイレは、家の中にポットン式があるが、お客様専用で、自分は外に作ったバイオ・トイレ(聞こえはいいが、他人には勧められない、あの立ちナントカ)を使っている。特に、冬の雪の時や、大雨の時は悲惨である。
 次に、時々枯れてしまう井戸水のために、水を好きなだけ使うことはできない。その上、水が冷たくて、古い二槽式の洗濯機はほとんど使っていない。そのために、2週間分の洗濯物を持って、離れた町のコインランドリーへ行かなければならない。
 外の五右衛門風呂も、確かに沸(わ)かして入れば最高の気分なのだが、沸き上がるまで1時間以上も、火の傍についていなければならないし、水が心配で、そうしょっちゅう沸かすわけにもいかない。


 そんな不便な小汚い家だけれど、何といっても北海道が好きで、自分で建てた家だ、そう簡単に、見限るわけにはいかない。むしろ、北海道の家に戻ると、ほっとして、やはりここはいいなあ、とさえ思ってしまうのだ。
 つまり、ことは簡単ではない。ミャオを選ぶか、北海道を選ぶかといった単純な問題ではないのだ。世の中には、イエスかノーか、あるいは黒か白かというような、択一(たくいつ)的な問題ばかりではないのだ。
 昨日、民放の『人生の楽園』という番組の中で、京都の伏見人形”饅頭(まんじゅう)喰い”が出てきて、そのいわれを話していた。

 『ある男が、まんじゅうを持っていた子供に、”両親のうちどちらのほうが大事か”、と尋ねたところ、その子は、手にしていたまんじゅうを二つに割って、”おじさん、これどっちがおいしい”、と聞き返したそうである。』

 つまり、私にとって、ミャオも北海道も、比べられないもので、合わせて一つの、大事なものなのだ。前回、山について書いたことも、同じことで、九重の山も、北海道の山も、私にとっては、どちらも大切な山々なのだ。
 ただ、目の前の日常が変わること、例えば、ミャオと一緒に散歩すること(写真)が、できなくなるのは、私にとってつらいことなのだ。ミャオにとっては、私以上にツライことになるが。

 金曜日のNHK・教育で、なんとあの、フランツ・ウェルザー・メスト指揮による、クリーヴランド管弦楽団の演奏会が放映された。それも、ブルックナーの交響曲、5番、7番の2曲、という内容で。ただし、10時半という時間は、私のもう寝ている時間なので、録画して、翌日に見たのだが、なかなかに興味深かった。
 一つには、私は、今はもうすっかり、中世・ルネッサンスやバロックばかり聞いているのだが、久しぶりにブルックナーを聞いて、ロマン派のシンフォニーの良さを再認識したということである。
 次に、ブルックナーと言えば、ベーム、カラヤン、ヨッホム、ヴァントと言われた時代から、次の次の世代である、ウェルザー・メスト達の時代へと移り変わってきているということ。まだ若手だと思っていた彼が、もう49歳にもなるのだ。
 そして、ブルックナーの第5番の演奏が、あのブルックナーゆかりの、オーストリアはリンツの、ザンクト・フローリアン修道院の教会で行われたということ。
 ウェルザー・メストにとっては、故郷への凱旋(がいせん)公演でもあったろうし、アメリカの名門オーケストラ、クリーヴランド管弦楽団とはいえ、その団員達にとっては、ブルックナーの聖地で、それも音の反響が多い教会での演奏に、緊張している様が見て取れた。
 私は、若いころのヨーロッパ旅行の時に、何度も教会での演奏会に足を運んだのだが、もちろん、それぞれの教会や座る位置にもよるが、そのこだまするほどの、音の反響には、少なからず驚かされ、また納得することも多かった。
 ウェルザー・メストの指揮は、その教会での深い残響の中に、原始霧の中から現われてくる、ブルックナーの思いの音をちりばめ、漂わせ、いとおしむかのようだった。
 私たちが、今までブルックナーに抱いていたイメージ・・・つまり、教会のパイプ・オルガンが奏でる、神の意志のごとき、地響きをあげる重低音の迫力に似て、フル・オーケストラの重たい響きで迫ってくる演奏・・・からは少し離れて、それは響きの中にあっても、それぞれの音が天使たちのように、きらめき舞い上がるやさしさに満ちていた。
 ブルックナー自身の、内なる神への感動の高まりを、表現することはもとよりのことだが、より以上に、ブルックナーの逍遥(しょうよう)する果てしなき思いのほうに、ウェルザー・メストの共感があったように思えてならない。
 
 アントン・ブルックナー(1824~1896)。オーストリアのリンツ郊外に生まれ、少年時代をリンツのザンクト(聖)フローリアン修道院の、少年聖歌隊、オルガニストとしてすごし、のちに学校教員として作曲をはじめ、次第に名声が高まり、ウィーン大学に迎えられるが、生涯独身のまま、その地で没し、彼の遺言通りに、遺体は聖フローリアン地下に納められる。
 ブルックナーは、同時代のワーグナー、ブラームスほどには、もてはやされなかったが、偉大なるベートーヴェンの交響曲の跡を継ぐべく苦闘して、結果としては、同じように九つの長大な交響曲を残した。
  神への信仰を、その神秘性と倫理性を、矛盾することなく併せ持つことができた最後の時代に、その信仰をよりどころとして、純朴(じゅんぼく)に生きたブルックナー。
 彼の交響曲の、壮大な音の伽藍(がらん)の中に、我々は今、人として、神への真摯(しんし)な思いを聞くべきなのだろうが・・・生きていくということとは・・・。


 ミャオよ、しばしの別れだ。オマエにも、神の恩寵(おんちょう)がありますように・・・。