昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

想い出日記(夜間高校:3)

2005-03-19 20:40:24 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ☆ 入学式
 受験を終えてから10日目に合格の通知が届いた。これまでの10日間はとにかく長かった。心配で眠れぬ夜を過ごしたこともあった。四六時中胸の奥底に在った不安は全て杞憂に終わったわけである。

 入学式当日は日曜日で朝から良く晴れていた。久しぶりにスーツを着て早目に家を出た私は、暖かな陽の当たる道を軽やかな足取りで式場に向った。開設されてから数年しか経っていないから、まだ独立の校舎は無く全て中学校からの借り物である。
 だから入学式は中学校の休日を当てなければならない訳である。式場に当てられた体育館には紅白の幔幕が張られ、3年生以下の全員が我々新入生を迎えて呉れた。
 この時知ったのだが、3年生の中に兄が親しくしていた人が居て、その人が私を見つけて声を掛けてくれた。それまで何となく不安で落ち着きを失っていたのだが、それで余裕が出来て周りの様子が良く見えるようになった。

 本校の在校生の数は3年生以下、新入生の私らを含めて150名で、1学年ごとに普通科・工業科に別れて全部で6学級あった。
式は校長の挨拶から来賓の祝辞へと形どおりに進められ、最後に各教師の紹介と担任教師が紹介された。先日の試験日の教師は私ら普通科の担任である事が分かった。
またこの式の校長の話から、本校の生い立ちについて次の事が判った。
  (1) 昭和25年2月~北海道美唄東高等学校の沼東分校として創立
  (2) 昭和28年~第一種校・北海道美唄沼東高等学校として独立
更に本校は開校以来3年そこそこの未だ浅い歴史であることと、我々が第三回生だと言う事も判った。
式が終わって新入生は割り当てられた教室に集まった。これからの4年間学業を共にする級友の初のご対面である。クラス全員で25人、試験日に予想したように私と同年輩者若しくはそれより若い一般人が10人でその内女性が2人、残りは私より5歳若い現役の中卒者だった。男性が18名で女性が7名の構成である。
 
 HR担任はO先生と言って社会科担当であった。このO先生とは奇しき因縁で繋がり、約20数年を経て釧路市の高校で長女の担任となった。まさに親子二代で同じ教師の世話になったと言う訳である。
  
 校長の挨拶にもあったが、今25人の級友も卒業時にはどれだけの数になるのか全く判らない。夜学生というのはそれだけ厳しい状況下にあるという訳である。
 何しろ昼間仕事に追われ更に夜に学ぶ訳であるから、それなりの根性が必要で覚悟が必要である事は言うまでも無い事ではある。

 校長並びに各来賓の言葉をしっかりと胸に刻み込んで、4年間の勉学は必ず全うする事を強く心に誓った。

 ☆続く

日々の雑記

2005-03-18 22:28:45 | 日々の雑記
  ☆ 浅春の兆し?
 今日買い物で久しぶりに街へ出掛けた。空はどんよりと曇ってはいたが、朝起きた時にはもう既にプラスの気温になっていて、それは夕方まで続いた。
 
 街は全体は春先特有の靄の中にあった。繁華街の通りはあらかた廃雪され縁石が現れていた。車の交差では一苦労する郊外の住宅地とは大違いである。

 先ずは今日の買い物の主要目的である釧路市物産購入の為、釧路川左岸に在るに港町釧路のウオーターフロント「F・W・MOO」に入る。
 この「F・W・MOO」は{フイッシャーマンズ・ワーフ・ムー(マリンアワーオアシス)}のことで、釧路市の物産特に海産物の殆どを扱っている。シーズンともなれば駅前の「和商市場」同様観光客の絶えない場所である。

 本州に送る色々買い揃えてから釧路川岸壁に出た。川に架かる馴染みの名橋「幣舞橋=ヌサマイ橋」は浅春の靄の中・・・遅い北国の春はもう直ぐ目の前、「春遠からずで・・・」ある。
 この写真は釧路市広報より拝借しました。

想い出日記(夜間高校:2)

2005-03-17 20:39:21 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ☆入学試験
 入学試験は3月上旬の日曜日午前中に行われた。場所は仮り校舎となる中学校の教室が当てられた。一般の受験者は、現役中卒者とは別の場所で行われた。男女合わせて15人が集まっていた。見回したところ私が一番年嵩のようで、同じ年頃が4人ほどで他は1・2歳くらい年下のように見受けられた。
 
 試験科目は3科目で国語・社会・数学の順で、国語と社会は割り合い簡単にこなしたが、数学の段階では鉛筆を持つ手はしばしば固まったままだった。それは私だけで無く殆どの人が同じようだった。年頃から言っても、恐らく終戦前後のどさくさの最中に学業を終えたのだろうから、国語と社会はともかくとして数学などは毎日の生活に余り関係ないから、今まで覚えている訳も無くまさにチンプンカンプン状態だった。
 あたかも考えているような振りをしているが、実は頭の中は既に真っ白で、時折り顔を上げて辺りを見渡すが眼はあらぬ方向で彷徨よい時間ばかりが空しく過ぎて行った。

 試験会場の教官(理科担当の教師で2学年からHR担任)が、私の横で立ち止って答案用紙を覗き込んでいたが、見かねたように一つの問題のヒントを呉れた。
 それは私ばかりでなく、ところどころで立ち止っていたから私同様にそれぞれヒントを与えていたのだろう。

 兎にも角にも試験は終わった。国語と社会はそれなりに有る程度自信は持てたが、数学だけは全然駄目で何とかして半分ほど解いたが後は白紙で提出した。どうにかして書いた半分だって全部不正解かも知れなかった。

 しかしもうそんな事は如何でも良くなっていた。ある種の緊張感から開放され安らぎと、とにかく大きな事をやってのけたと言う満足感で一杯だった。

 後は試験の結果を待つばかりである。雪解けの道をのんびりと家路に着いた。

 ☆続く

想い出日記(夜間高校:1)

2005-03-15 21:01:58 | じゃこしか爺さんの想い出話
   ☆ 受験のきっかけ
 夜間高校へ入る気になったきっかけが何だったのか・・・今はその記憶も曖昧ではっきりしない。昭和22年の夏、樺太から引き揚げて来て先ず落ち着いたところが道央(札幌市の近く)のとある大手の炭砿町だった。私が15歳の時である。そしてその年の秋家計を助けるため炭砿の職に就いた。十五歳と言えば当然新制中学生の筈だが、私の学業は終戦の翌年で終わっていた。言うなれば「国民学校高等科2年中退」これが私の学歴である。

 就職してからも猛烈に勉強がしたいと思った事もあったが、何よりも早く仕事に慣れる事が先決であったから、何時の間にかそんな思いは脳裡から消え去り、仕事に追われまた恋に現を抜かす日々が続いていた。そんな生活に対して朧ろ気ながら疑問を抱き始めた頃だった。炭砿の共同浴場の壁に貼ってあった「夜間高校の生徒募集」の広告を眼にした時だった。
 極く簡単な広告文だったが、一瞬雷に打たれたような強い衝撃を受けた。全く忘れ果てていた勉強に対する思いが沸々と湧いてくるのを感じた。

 職場の同僚たちを見ると、旧制中学卒または新制中学卒ばかりで、高等科2年中退なんていうのは私一人くらいなものだった。気が付いて良くみると就職して既に4年も経っているのに一番下っ端で、責任ある部署にも就けず何時も置いてきぼりを食っていたのである。それに高等科2年生と云っても名ばかりで、戦時中は専ら援農と開墾に明け暮れ、戦後はソ連の使役に駆り出されて、本来の勉強などは殆どして来なかった。
 そんな状態で過ごして来た私は余りにも物知らずであった。それまでに悔しい思いを何度かしていたので、その生徒募集の広告は神の啓示に等しかった訳である。

 逸る心に矢も盾もたまらず早速く翌日の昼休み昼食を後に回して、高校の仮設事務所の在る中学校へ駆けつけ願書を手にした。往復約4キロの道程の半分は駆け足だった。

 ☆続く

約半月ぶりの大雪!

2005-03-12 20:45:07 | 日々の雑記
 今週末に出された全国的規模の大荒れの気象予報は的中し、約半月ぶりの降雪は11日の夜半から吹雪を伴って朝方まで荒れ狂った。折角く夏並みにまで乾いた道路は、正に元の木阿弥すっかり吹き溜まりの中に埋もれていた。
 時折り家を揺るがす程の大風に何度か眠りを覚まされた未明、更に意地悪く震度4の地震が襲った。その後余震は無かったが心許ない浅い眠りのままに朝を迎えた。

 吹き溜まりこそ50センチを越すほどの積雪だったが、風が吹き抜ける場所などは思っていたよりは少なかった。そんな家の車庫前と玄関前の雪は妻と長女が片付けて呉れた。肉体労働など無理の利かない身体を良い事に、私は家の中でぬくぬくと新聞テレビ見ているだけである。心の中では「本当に済まない」思いながら・・・これホント!
                
                

 一昨日折角く妻が掃除しリンゴと食パン補給した餌台の上には、もっこりと綿帽子を被ったかの様な雪で覆われていた。何時もは追いつ追われつして餌を奪い合っていた鳥たちは、今朝に限ってまだ一羽も姿を見せない。
この大雪の何処かで「行き暮れて」いるのか、聊か心配である。
             
               

財布を忘れた!

2005-03-10 22:20:27 | 日々の雑記
 朝から真冬日の午後、毎月一回予約通院している日赤病院皮膚科に出掛けた。数年前のこと、当時勤務していた工場内の機械の台座に躓いて右足親指の「生爪」を剥がしたのだが、生来の無頓着さから「大した事無いさ・・・」とばかり、水洗い後消毒だけで病院にも行かずに済ましていた。その時すっかり全部が剥がれていれば別にどうってことも無かったのだが、後で思うにその簡単に考えていた事が大きな間違いだった。

 やがて古いのが取れて、その後に生えてきた新しい爪の色が妙に黒ずんで全く生気が無く、日を追う毎に黒さが増し爪の厚さも二倍ほどにもなってしまった。日頃何かと暢気な私も漸く心配になりだして早速く日赤の皮膚科に駆け込んだ次第だ。

 サボる事無く気長に通院して来た甲斐があって、最近にでは爪の厚さもだいたい元に戻り色にも艶が出てきた。又いわゆる「爪の半月」も大きく良い形となって来た。

 その予約日が今日で時間に合わせて家を出た。何とか駐車場の空きを見付けて車を停め、保険証と診察券などの確認中に財布布の無いのに気付いた。財布は何時も買い物やウォーキング用の普段履きに入れてあったのだ。今日は他所行きに取り替えたのをウッカリ忘れたのである。
 予約時間は迫っているので家に戻る時間は無いし、さりとて病院に知人が居る訳でも又都合よく患者の中に知人が来ていることなど考えられなく一瞬頭が白くなった。個人病院なら何とかなるのだが、なにしろ相手は日赤なのであるからそんな便宜など図って呉れそうも無いし、先ずそんな事は考えられない。諦めて出直そうかと思った時に、念のためにと車に置いてある「ニトロ」の小袋を思い出した。確か何かの用意と思って小銭を入れて置いたのを咄嗟に思い出したのである。
 その小袋はダッシューボードの奥にあった。中身を確認すると色々混ぜて七百円ほどあった。それを手に受付に駆けつけた。間一髪セーフだった。
 それから約一時間診察から投薬まで終わり、支払いも併せて五百円足らずで済んだ。

 本来「ニトロペン錠」は狭心症発作の特効薬の筈だが、今回は全く関係の無いところで見事に助けられたのである。正に「ニトロ様さまである」

 そこで教訓一つ
  ☆ 用心に怪我なし   ☆ 転ばぬ先の杖    ☆ 濡れぬ先の傘

エアロバイク

2005-03-09 20:30:46 | 日々の雑記
 昨日一昨日と連日プラス気温が続いたが、とにかく風が強かった。今日はプラスにこそならなかったが、風は前日の比でなく17メートルを越す強風が一日中吹きまくっていた。晴天で気温も正午頃には零度近くまで上昇したが、強風注意報が出ている中では外歩きは到底無理で、止む無く家歩きに始めた。
 
我が家には数年前に通販で買った「エアロバイク」が一応在るのだが、例え家の中であろうとも歩行にはそれなりの変化があるのに比べて、ただ座っているだけの運動はどうも私の性に合わなくて普段でも余り使う事は無かった。
 しかしこの連日の家歩きにもいささか飽きも来ていたから、途中から「エアロバイク」に切り替え更に雰囲気を変えてCD(石原裕次郎)を流した。ボリュウムを上げそれに合わせて大声で歌いながら歩き続けた。
 
 窓を開放して日光浴を兼ねて半袖シャツ姿で始めたのだが、ただ歩くのとは違い20分も続けたら汗が出始めて来た。この季節汗の後の風邪が心配で早々に切り上げた。

 家の中でサングラスとは不審に思うでしょうが、両眼とも白内障手術の後だけに過度の紫外線を避けるためです。
                 

おでん

2005-03-08 20:31:01 | 日々の雑記
 久しぶりにプラス気温となり最高が4.度にまであがった。ここ暫らく真冬日が続いていたから、今日は有り難い一日となると期待していた。しかし快晴で青空がいっぱいに広がっていたにもかかわらず、16メートルもの風が日中ずうっと吹いていた。
 遥か阿寒の山々から湿原の野面を渡って来る風は、老いの身にはかなりこたえる冷たさで、ウォーキングに出掛けたものの早々に退散し途中近くのジャスコに立ち寄って買い物を済ませて家に戻った。

 こんな日はやはり鍋物に限るのだろうが、このところ鍋物が重なっていた事もあって今夜のお副食は「おでん」と決まった。今までにも「おでん」らしきお副食は何度もあったが、本格的に銅製の電熱式「おでん鍋」を使っての事は久しぶりである。

 もとより老夫婦の食べるものだからその品数も量も知れたもので、根野菜と豆腐食材が主だが、老妻の長年積み上げて来た味加減は抜群で、心行くまでその味を堪能したのは云うまでも無い。
 但しこれに人肌に温めた「トックリ」でも在ればまことに申し分無いのだが、長らくドクターストップの身の上、ただただ諦めざるをいない。
                

まだ何も無い釧路湿原!

2005-03-06 20:50:15 | 日々の雑記
 ここ暫らく続いた晴天もそろそろ明日辺りから下り坂になるらしく、また日中の気温が久しぶりにプラスになるとの予報を信じて、市内から20キロばかり離れた「釧路湿原展望台」の在る高台まで遠出をした。

 しかし早春とは名ばかりで、動植物の宝庫とも云われ、丹頂を初め日本では此処でしか見られない「キタサンショウウオ」などの固有の生物が数多く棲息する湿原、我が国最大のしかも最後の国立公園「釧路湿原国立公園」もこの時期は、歌の文句の「・・・は、何も無い・・・です」の通り、いまだひっそりと冬の眠りの中に在った。
 ただ気温が最近に無く上昇した所為か、遠くの山々がやや霞んで見えるのは、一足早い春の前触れの証しであろうか。       


 夏の間ウォーキングで何度も来た、サイクリングロードはまだ雪に埋もれたままで、
   ただ「歩くスキー」を楽しむ人たちのスキー跡が残ってるのみだった。

              

鶴居村へ!

2005-03-05 18:56:58 | 日々の雑記
 昨日所用があって隣の鶴居村に行って来た。37キロ程内陸に在る村で、その名の通り「天然記念物の丹頂が棲息する」と云うことから名付けられた。
 今年は雪が少ないからと云っても、元々が山地なので冬の季節は路面凍結で起きる事故が多いため、余程の事の無い限り滅多に訪れる事はしないのだが、今回は連日の晴天続きで道路も全く夏と変わらないとの情報を得て、昨年の秋以来約5カ月振りに出掛けたのである。

 初めは昼食時を避けて午後にしようかと思ったのだったが、先方の「地元産の評判の美味しい蕎麦を一緒に」との言葉に惹かれて、丁度昼頃に着くよう見計らって家を出た。

 村で唯1軒の蕎麦屋が、家の畑で栽培し製粉した蕎麦粉100セントの蕎麦は確かに評判どおりで腰が確かで歯触りと喉越しに申し分が無かった。「かしわ蕎麦」を戴いたのだが、その鶏肉も戸外で飼育しているとかでその歯応えもなかなかのものだった。
 中でも気に入ったのは蕎麦汁である。ともすれば街の蕎麦屋での砂糖の甘さが残るものとは違って、やや「塩っぱ目」ながらその素朴さは忘れ難い味だった。

 陽が翳るようになればやはり路面が凍る恐れがあるので、未だ陽の高い内に早目に帰ることにした。帰宅途中「丹頂給餌場」での写真を撮ることも今日の予定の内にあった。

 途中車を停めて雌阿寒岳も撮った。目一杯アップにしたのだが、丹頂同様手持ちのデジカメでは限度があった。それと己の技術の未熟さも否めなかった。