昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

想い出日記(夜間高校:4)

2005-03-21 20:44:09 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ☆ 授業内容
 
 入学式の翌日から、愈々授業が始まった。1日の授業時間は午後6時から9時までの3時限で、その1時限毎に10分間の休憩があった。

 通学路は距離にして約3キロ在った。徒歩では速足でも優に40分は掛かる勘定だから、少なくとも始業時間の10分前頃までに着くには、5時には家を出なければならない。残業などはとても出来る訳が無かった。夜学に通うとの事で便宜を図って貰っては居たが、繁忙期には随分厭な思いをしたこともあった。
 又この通学方法には、炭砿鉄道便を利用する事も出来た。しかしこれには運行時刻からかなりの時間的ロスが在って、時間に余程の余裕が在る時以外は滅多に利用する事は無く、専ら時間ギリギリでの徒歩通学で通した。

 授業科目は主な物で「国語(甲と乙)・数学(解析と幾何)・社会(一般社会と日本史世界史)・理(科学と物理)・英語等々」があった。
  Ⅰ(国語)
 今なお強烈に記憶に残っているのが古文である。担当教師は本校(東高校)から来ていたのだが、かなりの長身で眼が大きくて何時もギョロギョロと生徒等を見回して、黒板に字を書きながらでも、生徒の動きが判り余所見をしている生徒に向っていきなりチョークを投げつけると的を得た早業を見せていた。そして一言「先生は後ろにも眼が在るんだ」付け加えるのが常であった。そんな事からこの教師に付けられたあだ名「トンボ」だった。これは本校でもそう呼ばれていたからでもあった。
 またこの教師で一番印象深いのは、「徒然草」に精通していた事で、その全段隈なく諳んじて居た事である。ある生徒が読み上げているのを聞きながら、「今読んだところは間違っている」訂正させたが、書いてある通りに呼んだ事を告げると改めて教科書を確認して「これは教科書が間違っているから、直して置くように・・・」その時限は終わった。後日生徒らが文献で調べたところ、教師が正しかった事が判った。それ以来この教師の評判は上々で、のちのクラス会などでも話題に上った。
  Ⅱ(数学)
 国語に対して数学の時間は大の苦手で、終わりのベルを待ちわびて腕時計ばかりを気にしていた。国語や社会の1時間に比べてやたらに長く感じられてならなかった。
何しろ「数学」などと云う科目は後にも先にも習った覚えが無く、過去に私が習ったものは、そんなややこしい物でなく初等科6年の時の「算数」である。それがいきなり数学となり、解析・幾何などと言われても頭が痛くなるばかりだった。特に「関数・三角関数」の「サイン・コサイン・タンジェントetc」に至っては、まさにチンプンカンプンでまるで異次元の話であった。
 これは私だけでなく、他の年配者は大体似たようなものだったらしい。
  Ⅲ (社会)~一般社会・世界史・日本史 
 一般社会は身近で日常的な内容が主だから、現役中卒者に比べて私らは年齢を経てる分、容易に 理解出来て有利だった。世界史・日本史も初めての教科だったが、興味あることだけに身が入った。また世界史はヨーロッパーの昔の物語りを聞くようで惹き付けられていた。
  Ⅳ (理科)
 理科も初めての教科だった。解析などのような理解に苦しむほどの計算が無いだけに、容易に溶け込めた。それまでまるで知らなかった化学的の蓄積妙に心地よく、恰も自分がとても賢い人間に成ったかの錯覚を覚え楽しかった。
  Ⅴ (英語)
 授業は「this is a pen」から始められた。文法上の決まりさえ理解すれば、初級英語だけにそれほど難しいもので無かった。要は初めの「食わず嫌い」的要素が大きかっただけであった。

 授業は数学を除いてクラスの中でも上位にあったので、何時しか兄貴分としてナにかにつけて頼りにされた。とにかく毎日の通学が楽しかった。それに同年輩の友人が出来た事は大きな収穫で、ともすれば単純に成り勝ちな生活に彩が加わり充実していった。

 ☆ 続く