ブログカテゴリー内に、想い出項目があるのに、最近はサッパリだねと指摘された。
そう云われれば全くそのとおりで、決して忘れてしまったわけでは無いのだが、唯暖かくなるにつれて日課のウォーキングの範囲が広まり、湿原から市内の各公園へと連日のように歩き回り、日々新しい自然の発見に追われていただけなのです。自分なりに発見した野鳥や山野草などを、下手は下手なりにカメラに撮り入れて来て、ブログに掲載することも又老ブロガーの楽しみなのです。
さて前置きはこのくらいにして、タイトルの本題に入りたいと思います。
それは終戦の翌々年の夏こと、ソ連軍の統治下にあった樺太西海岸国境近くの炭鉱町で起きた出来事です。新聞やラジオが無かった(終戦間際日本軍部に止められた)にも関わらず、正にショッキングニュース・「人肉事件」と呼ばれ口か口へと伝わり、周辺の町村は勿論のこと、おそらく樺太全島にまで広がって行ったのだろうと思う。
その話をする前に当時の炭砿住宅事情について少し説明して置きます。一般には江戸時代の長屋と同じようなもので、6軒から8軒が連なって一棟と成ります。いわゆる「○○軒長屋」と呼ばれるものです。またこの長屋の集合体を○○町と名付けその真ん中あたりに詰め所が設置されて集落全体を統括していた。 更にその長屋ごと1軒ごとに、○号の○舎と呼んで統一していたのです。ここうした集落が10個ほど当時の炭鉱町にありました。これは樺太ばかりでなく、道内はもとより本州や九州の炭砿でも凡そ同じだったと思われます。
事の発端は、近頃さっぱり奥さんの姿の見えないのに気付いた隣人が、旦那にその事を訊ねたが余り要領が得ないので、翌日家の前で遊んでいた幼児に聴くと、口ごもって逃げようとしたので更にきつく問い質したところ、今度はあっけらかんと「お母ちゃんかい・・・死んだからお父ちゃんと一緒に食べちゃったよ。冷たいご飯に掛けて食べたら美味しかったよ」と答えたという。半信半疑で何度も聴き直した結果、どうやら本当の事らしいと判ったので大騒ぎとなった。
更に話は発展した。家族だけで処理したので無く、この家の主は元々が肉職人だったとかで、自分の妻の死体を捌き調理して売り捌いていたという。
戦後のことでしたから、物資よりも何よりも食料不足で困窮していた時代だった。口伝いに依るとそれは飛ぶように売れたらしい、それも低所得者には手の届かない高級食材であるから、買って食べたのは殆どが会社の偉方か医者だった用である。後で聴かされ全員青くなり嘔吐に襲われ、入院した者もいたと云う。
当時傍若無人でなる流石のソ連軍憲兵も銃を構えて遠巻きにするだけで、中々近寄れなかったそうである。死体は床下から本人が掘りだしたとのことである。後日医者の詳しい検査結果では、かなり前から精神的に止んでいたらしいのだがが、奥さんの突然の死が精神異常への引き金と成っての凶行であると判定されたとのことです。
この事件は、私が2歳から15歳まで育った炭鉱町での出来事で、その事件が起きる約半年前に隣町に転居していたので、私自身が直接見聞きした訳ではないが、かなり信頼できる方からの情報であったと記憶している。但し永い年月と私自身の加齢による記憶違いの多少有ることは否定出来ませんが、最近樺太時代の同級生と確認し合ったので、こうゆう事件が確かにあったのは間違えの無い事です。
そう云われれば全くそのとおりで、決して忘れてしまったわけでは無いのだが、唯暖かくなるにつれて日課のウォーキングの範囲が広まり、湿原から市内の各公園へと連日のように歩き回り、日々新しい自然の発見に追われていただけなのです。自分なりに発見した野鳥や山野草などを、下手は下手なりにカメラに撮り入れて来て、ブログに掲載することも又老ブロガーの楽しみなのです。
さて前置きはこのくらいにして、タイトルの本題に入りたいと思います。
それは終戦の翌々年の夏こと、ソ連軍の統治下にあった樺太西海岸国境近くの炭鉱町で起きた出来事です。新聞やラジオが無かった(終戦間際日本軍部に止められた)にも関わらず、正にショッキングニュース・「人肉事件」と呼ばれ口か口へと伝わり、周辺の町村は勿論のこと、おそらく樺太全島にまで広がって行ったのだろうと思う。
その話をする前に当時の炭砿住宅事情について少し説明して置きます。一般には江戸時代の長屋と同じようなもので、6軒から8軒が連なって一棟と成ります。いわゆる「○○軒長屋」と呼ばれるものです。またこの長屋の集合体を○○町と名付けその真ん中あたりに詰め所が設置されて集落全体を統括していた。 更にその長屋ごと1軒ごとに、○号の○舎と呼んで統一していたのです。ここうした集落が10個ほど当時の炭鉱町にありました。これは樺太ばかりでなく、道内はもとより本州や九州の炭砿でも凡そ同じだったと思われます。
事の発端は、近頃さっぱり奥さんの姿の見えないのに気付いた隣人が、旦那にその事を訊ねたが余り要領が得ないので、翌日家の前で遊んでいた幼児に聴くと、口ごもって逃げようとしたので更にきつく問い質したところ、今度はあっけらかんと「お母ちゃんかい・・・死んだからお父ちゃんと一緒に食べちゃったよ。冷たいご飯に掛けて食べたら美味しかったよ」と答えたという。半信半疑で何度も聴き直した結果、どうやら本当の事らしいと判ったので大騒ぎとなった。
更に話は発展した。家族だけで処理したので無く、この家の主は元々が肉職人だったとかで、自分の妻の死体を捌き調理して売り捌いていたという。
戦後のことでしたから、物資よりも何よりも食料不足で困窮していた時代だった。口伝いに依るとそれは飛ぶように売れたらしい、それも低所得者には手の届かない高級食材であるから、買って食べたのは殆どが会社の偉方か医者だった用である。後で聴かされ全員青くなり嘔吐に襲われ、入院した者もいたと云う。
当時傍若無人でなる流石のソ連軍憲兵も銃を構えて遠巻きにするだけで、中々近寄れなかったそうである。死体は床下から本人が掘りだしたとのことである。後日医者の詳しい検査結果では、かなり前から精神的に止んでいたらしいのだがが、奥さんの突然の死が精神異常への引き金と成っての凶行であると判定されたとのことです。
この事件は、私が2歳から15歳まで育った炭鉱町での出来事で、その事件が起きる約半年前に隣町に転居していたので、私自身が直接見聞きした訳ではないが、かなり信頼できる方からの情報であったと記憶している。但し永い年月と私自身の加齢による記憶違いの多少有ることは否定出来ませんが、最近樺太時代の同級生と確認し合ったので、こうゆう事件が確かにあったのは間違えの無い事です。