ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

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2006-08-10 | Weblog

交わらない無数の直線。
埋められることのない距離。
永遠に出会うことのないそれぞれの志向の、
隔絶した領界と、
それぞれの起源と歴史の環境に由来する、
それぞれの領界を満たす幻想のモジュール。

それぞれの領界の内部に閉じた、
無数のゲシュタルトが生きられているにしても、
閉じた領界と領界を結ぶ、
だれも見たことがない空のみちがあり、
そういう予感においてもなお、
敵であり味方である者たちへ、
きょういまここで、
胸を開いてつたえるものがない。

そうであればこそ、
空っぽであればこそそのことを、
切実な空虚さの名において、
どんな形式ももたない、
にもかかわらず、
いつか消え去るまえに、
挨拶のひとくさり。

精神に訪れたゴチャゴチャを、
不可能のもとに集合したムニャムニャを、
確実にとどけておかなくてはならない、
という要請がどこからかこみあげていたのか。

それがなにかがわからないが、
あれもこれもすべてがもっともだ、
とは口が裂けてもいえなかったが、
ただここにあることを超えていく、
不可思議なシグナルが、
小さな蓋然性のもとに、
とどいていたのだろうか。

あるいはある切実な渇きがあり、
肉体と精神の制約をこえて、
通信を交わし、
どんなに遠く隔てられていても、
まちがいなくとどいている、
という光景がその果てに描かれた
最後のイメージだったのだろうか。

いつか成就される、
「我」と「汝」の関係性、
そのように予感されたものが、
この世への信の形態として、
不可思議な信仰の起源をつくり、
ニンゲンの不可解な生理の、
不可解なうながしにおいて、
数限りなく生み出され、
数限りなく反復されて、
語られてきた魂と呼ばれるものの属性が、
果たしてどれだけ自明のことだったのか。

しかし遠くまで行くためには、
ここに踏みとどまらなくてならない、
ここを措いてはなにもはじまらないという法則は、
いまも世界を深く貫いており、
厳しいという反省がくる前に、
生活はすでにその歩みを進めているものであったから、
要請はさらに深く潜行する以外なかったのか。

埋められることのない距離があり、
交わらない無数の直線があり、
永遠に出会うことのない、
一つの志向と別の志向があるとしても、
ここにないなにかではなく、
ここにこうしてあること、
ただそれだけで、
それ以上でも以下でもない、
そういう了解において、
それだけで祝福され肯定される、
便利な装置がどこかにあればいい。
そのような妄想と祈念において、
無数の祭礼や儀式が繰り返されてきたのか。

しかしどんな感慨を結ぶことも、
すべては虚妄と迷信に基づくものかもしれず、
その等しく共有された幻想において、
不幸や惨劇が肥大したのかもしれず、
ただ訪れる現実に拮抗するために、
強度を確保しておくことだけが、
生活の最終の準則を形づくってきただけだったのか。

わからんぜ、一体何なのだ、
ということだけは鮮明だったから、
それだけはしっかりと胸に刻んで、
ただ一点、
わかったふうな口を利くことだけはやめような、
ということで、
俺とオマエは合意したことがあったと思う。

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