ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「脱中心化」の問題

2006-08-08 | 私見
「新しく赤ん坊ができたことを知ったときその幼児に起こった嫉妬は、その本質において、状況が変わることに対する拒否である。(中略)
ところで、感情的現象と言語現象との間の結びつきが明瞭にうかがわれるのは、この嫉妬の「超克」の段階においてです。つまり嫉妬が克服されるのは、<過去―現在―未来>という図式が構成されたおかげなのです。事実、この幼児の抱く嫉妬の本質は、自分の現在にしがみつこうとするところに (中略) 彼はこの現在を絶対的なものと考えていたのです。(中略)
このようにみますと、そうした時間的構造が習得されることと――それによってその時間構造に対応するさまざまの言語的手段が生きてくるわけですが――嫉妬が克服されている状況との間には、関連があるということがお分かりでしょう。
嫉妬の状態はその幼児にとって、自分がその只中で生きている他人との関係の構造を再編成し、それと同時に実存の新しい次元(過去・現在・未来)を手に入れ、しかもそれらを自由に組み合わせたりするその機会だったといえるわけです。
ピアジェの言葉を借りれば、嫉妬を克服する際の問題はすべて「脱中心化」(decentration)の問題だということができそうです。」
(M・ポンティ著『幼児の対人関係』滝浦静雄訳/1966年みすず書房より)


幼児にみられた「現在を絶対なもの」と捉える思考から派生する感情は、「成人」でも無縁ではない。
ここで語られる「時間的構造」が介在しない思考は、単に個人だけでなく、社会的な状況においても非常に大きなテーマとして現象することになる。
例えば、大衆的な動員に動機づけられたある種の人間や組織にとって、こうした心理の原型的メカニズムは、大衆の操作可能性や利用可能性を高める上で、きわめて重要なリソースとなりうる。
現在、メディア、政治、官、宗教、各種利益団体など、社会的な機能集団の多くは、このリソースの利用を最大化することに血道をあげ、メッセージの中味を練り上げ、動員を競い合っているようにみえる。
具体的には、笑い・怒り・哀歓・嫉妬・同情・正義・義憤・裁断など、幼児と成人が共有する「いまここ」における感情的リアクションの喚起と共感、共有の醸成がメインテーマになっており、それが組織利益と直結している。
より本質的にいえば、「時間的構造」をその思考に組み込んだ「成人」の社会システムに向けた(あるいはその成育へ向けた)コミュニケーションではなく、逆に「成人」からの退行を促すような社会的コミュニケーションが幅広く機能しているということになる。
引用文からいえば、「脱中心化」ではなく、単なる「中心化」。
現象からいえば、「幼児」性をまぶされたり、つけこまれたりする情報・サービス・商品によるコミュニケーションと消費である。
こうしたカタチで現に回っている社会システムがあるということ、そして日々の生活のあらゆる場面で影響や拘束を受けているということを、「成人」としてどう捉えるのか。「成人」として、「脱中心化」をどう行使したらよいか。しかも、果たしてそれが可能な余裕のある社会なのか、という問題を含めて、このことはきわめて重大な意味をもっていると思う。







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