ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「一つの問い」20240626(20240329)

2024-06-26 | Weblog

 

 

知に憧れ、知に加わり、知を学び、知を競い、知を誇り
知の高みに昇ったつもりで無知を見下ろし赤ペンを入れる

俺たちはこのルートに入って抜け出せない歴史の中にいる

知に染まり、知にまみれ、知に毒され、知に呪われ
日々、赤ペンを入れ、赤ペンを入れられる

白紙のままに生きることは許されない
赤字だらけのことばを交換しながら白紙を埋めていく

(一つの仮想の問いが浮かぶ)

はるかに遠いいつか、知の限界線を目撃して
赤ペンを捨て、このルートの外に出る日が訪れるのか

あるいは、いまここで、知の本質的な用法、つまり
非知と無知を裁かない知の展開ルートを見出せるのか、否か

 

 

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「一般意志(ルソー)」20240626

2024-06-26 | 参照

 

 

───竹田青嗣『人間的自由の条件』2004年

人々はいたるところで「不正」や「腐敗」を見、
これを「正しい」状態に置き換えるように要求する。
ところがするとただちに、何が「正しい」状態かについて
さまざまな議論が百出する。
互いが自分の考えこそ「一般福祉」(国民の利益)を
最もよく代表すると主張し、また互いが、
他のそれは特殊利害に動機づけられていると考える。
「不正」や腐敗」の存在することは明らかであるのに、
それをどのような仕方で〝正す〟かについて、
困難はひとめぐりしてもとの根本的な出発点に戻る。
さまざまな考えに関してだれがその妥当性を決定するのか、と。
そしてこの問いに対する妥当な答えは、
「一般意志」の概念なしには不可能なのである。

大きく言えば、われわれは他者の「悪」や「不正」に対する
三つの批判の根拠をもっている。
一つはルサンチマン、一つは絶対的な正義感、一つはルール感覚である
(はじめの二つはしばしば重なりあう)。そしてこのうち、
現代社会において十全な「正当性」を与えることができるのは、最後のものだけである。

ある人間が暗黙のうちに「人間はかくあるべし」という自分固有の基準をもち、
それに沿わないという理由で他者を「正しくない」と非難するなら、
そのような非難は「正当化」されえない、
しかし、なんらかの合意があらかじめ暗黙のルールとして共有されたのち
それが破られたり守られない場合には、非難は「正当」である。
そこで合意による「一般意志」が違反されているからだ。

もしも「自由の相互承認」「一般意志」という原理を投げ捨てるなら、
われわれは社会や他者を批判するための、
そして「善」を擁護するための本質的な根拠を、
人間的「自由」の本質から取り出さないで、「自己信念」の絶対的擁護や、
絶望からの反動形式による「絶対正義主義」などから取り出すほかなくなるのである。

 

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