───竹田青嗣『人間的自由の条件』2004年
人々はいたるところで「不正」や「腐敗」を見、
これを「正しい」状態に置き換えるように要求する。
ところがするとただちに、何が「正しい」状態かについて
さまざまな議論が百出する。
互いが自分の考えこそ「一般福祉」(国民の利益)を
最もよく代表すると主張し、また互いが、
他のそれは特殊利害に動機づけられていると考える。
「不正」や腐敗」の存在することは明らかであるのに、
それをどのような仕方で〝正す〟かについて、
困難はひとめぐりしてもとの根本的な出発点に戻る。
さまざまな考えに関してだれがその妥当性を決定するのか、と。
そしてこの問いに対する妥当な答えは、
「一般意志」の概念なしには不可能なのである。
大きく言えば、われわれは他者の「悪」や「不正」に対する
三つの批判の根拠をもっている。
一つはルサンチマン、一つは絶対的な正義感、一つはルール感覚である
(はじめの二つはしばしば重なりあう)。そしてこのうち、
現代社会において十全な「正当性」を与えることができるのは、最後のものだけである。
ある人間が暗黙のうちに「人間はかくあるべし」という自分固有の基準をもち、
それに沿わないという理由で他者を「正しくない」と非難するなら、
そのような非難は「正当化」されえない、
しかし、なんらかの合意があらかじめ暗黙のルールとして共有されたのち
それが破られたり守られない場合には、非難は「正当」である。
そこで合意による「一般意志」が違反されているからだ。
もしも「自由の相互承認」「一般意志」という原理を投げ捨てるなら、
われわれは社会や他者を批判するための、
そして「善」を擁護するための本質的な根拠を、
人間的「自由」の本質から取り出さないで、「自己信念」の絶対的擁護や、
絶望からの反動形式による「絶対正義主義」などから取り出すほかなくなるのである。