ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

1981 夜の果てから

2006-08-12 | Weblog
遠くでオマエを呼ぶ声が聞こえたが、
オマエの唇はそこへ向かわなかった。

どこかへ出て行こうと思っていたが、
行く先を訊ねられても、
オマエは向かうべき方角を告げることができなかった。

そこに否定すべき執着があるのか、
それともそれは強いられたものなのか。

ひとつだけ明らかだったのは、
オマエの眠りはまだだれかに守られていたということだ。

じぶんの弱さを裁断するこころが、
差し出された現実を呑むとき、
倒れるひとつの全体がある。

気の迷いにとどまるこころが、
みずからの限定にむせびながら、
こまやかさを語るとき、
死に瀕するもうひとつの全体がある。

眠り足りないからだに引きずられて、
こころにもない歌に唱和したとき、
オマエは腐食するじぶんを目撃していた。

そうして結語は、道連れに、
アナタがたとともにであったのか。

オマエのこころが発語へと向かわないなら、
オマエは発語を断念してそれを引き受けろ。

拒むことだけがオマエを証するものなら、
オマエは喜んでその対価を支払って、
そうして、本当に拒むために時間をかせげ。

装われた温顔と手厚い慰安を湛えた、
どんなふうにでも転ぶことができる手管の敵たちが、
糸の切れた凧のようなオマエの、
焦点を結べないでいるまなざしや、
ひ弱な足許をすくおうと身構えている。

周到に設計されたガイドブックを片手に、
手ごわい現実の司祭たちがオマエの骨を抜いて、
一切の結語である忘却のプログラムへと誘っている。

まだ見ることのない明日が、
オマエにとっていったいどんな意味があるのか。
オマエの夜と引き替えにできるほどの何かがあるのか。

どう考えてもその閉じられた情の温もりに、
オマエの夜を飼い慣らすチカラはないのだから、
季節の結び目をめがけてプログラムされた交歓から身を引いて、
まだ血を流したことのないオマエを、
神殿から放たれた飼い犬たちが襲ってくる日のために、
オマエはオマエの孤独な夜を磨いておけ。


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