完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

またひとつ・・・知る   ~身近な人の急逝~

2006年10月13日 | Weblog
私は中年である。
今週はひどく忙しかった。
思わぬ出来事で週の半分がつぶれたからだ。

その出来事で、またひとつ自分自身の歳を認識させられた「中年」である。

さて、その出来事だが・・・すぐ近所の親父さんが亡くなったのだ。

酒に酔って風呂に入っての溺死だった。

ことわざにある。「遠くの親戚より、近くの他人」・・・その通りだ。

私の兄弟たちは年に2度、5日ほど顔を合わすだけだ。
そんな兄弟たちより、近所の親父さんとの関係の方が、余程日頃の
生活に影響を及ぼしていた。

もちろん、近所うちが気分の良いことばかりではない。
たいしたことでもないのに波風が立ち、腹立たしいこともあった。
だが、この土地に暮らすということに欠くことのできない存在だった。

誰しろ自分の家庭において様々起こる事例が、一般的に「どうしたら
良いのか?」と不安になることがある。

それを自分の中で認識するためには「近所」というのは、とても
身近な「物差し」になる。

もちろん単位となる「ご近所・町内」を見回して微調整をしなければ
ならないが・・・。

我が地域では、いまだ葬儀を自宅で行うことが多い。

近所・町内うちが集まって葬儀を手伝うのだ。

私もすぐ隣ということもあり、その中心として手伝わせてもらった。

日頃の仕事と全く違う作業は、とても疲れた。

忙しいのではない。ある種まったりとした時間だが、それを過ごさないと
身近いた「親父さん」を「故人」として受け止めることができない。

また、そうした非日常の中で「中年」である私でさえ、初めて
体験することも少なくなかった。

「人間の感情」「本音と建前」「日頃見せない人間の裏側」等々
本当に人間が「悲しい生き物」だということ。

それを再確認した。

私にも経験があるが、家族はこうしたときに事の重大さを認識できない。
また、今回のように「突然の死」はそれに時間が掛かる。

そして、徐々にその死を認識するのと同時に、今までと違った「責任」を
背負わされたことに気がつく。

人間の脈々と続いている「いとなみ」に畏怖するしかない「中年」の
私である。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに突然の不幸が訪れますせんように。

「寿命」なんて信じない。必然の中でしか「終焉」を迎えたくない。

                              may







コメント (2)
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