Fish On The Boat

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『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』

2023-03-09 21:40:05 | 読書。
読書。
『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』 ロバート・ロウランド・スミス 鈴木晶 訳
を読んだ。

朝起きて、身支度をして通勤し仕事をして昼食を食べてサボって……などという一日の起床から就寝までを18の章に分けて日常レベルの哲学をする本。その都度さまざまな学者を引用しますが、堅苦しさはありません。ちょっと難しいところはありますが、それでも平易な言葉遣いと分かりやすい論理で展開していくエッセイです。

ただ今回は第2章の身支度の章でひっかかってしまうところがありました。朝、完璧に身支度しておく、また、前もってしておく、だとかは、自由度を下げるからよくない、と説いているのです。自由がないということは、悪くなる自由がないことでもあるけれども、良くなる自由もないということだから、と。でも、僕はおかしいと首を傾げたのです。朝の身支度って、自由云々よりもマストじゃないか、と。忘れ物をしないようにするのは、前もってやろうが出立の時間前にやろうが、同じことをやるのだから前もってやったほうがいいものではないだろうか。そこに自由度などない。問うべきは、システム。自由度のないシステムに組み込まれているからこそ、身支度をいつどのくらいするかで自由度が変わるのではなく、身支度を包み込んでいる生活のシステム自体に自由度を下げないなにかが必要なのではないのだろうか。

と、序盤でこうなったので、少しばかり懐疑の目でもって読み進めていくことになってしまいました。ですが、それぞれの章でよくぞここまでの切り口で力強く分析しかつ哲学するなあと感心する場面が多く、繰るページが増えていくのに順じて「こりゃ、やるもんだなあ」と讃えたくなってくる。一度疑い始めた読書は苦しいものになりがちですが、著者の仕事ぶりの良さが、どんどんとある種の僕個人の信用のようなものを勝ち得ていってくれました。

さて。「これは!」と唸りながらメモったのは、第13章のテレビを見る時間についてのところです。
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「また、テレビ画面のなかの人びとから反撃されることも、野次を浴びせられることもなく、自分の意見にだれも反対しないという自己満足に浸ることができる。(中略)テレビではそれが許される、いやむしろ奨励される。」(p207ー208)
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お客様は神様です的な部分です。テレビを見る習慣が人々に気づかれずにすうっと人間の意識の裏に影響を与えるとすると、そのひとつがこの、いくらいちゃもんをつけようが反論はされないので自己満足に浸れる、というところなのではないでしょうか。クレーマーとかモンスターとかが生まれる背景の一部にはこういったことが関係してるのかもしれなくはないでしょうか。まあそれでも、意見を主張できるようになるという良いきっかけを作るところはあると思います。意見を持ち、発するということの初期段階での助けになってそうではないですか。それが、馴れてしまって、そこに自己満足になることへの「ためらい」と意見そのものの確かさに対する「ためらい」が薄れることに、問題が生起し、良い部分と表裏一体のものとしてでてくるのではないか。どこまで自由にモノを言っていいのか。そういうところって、クレーマー的なふるまいのみならず、愚痴とかもそうであって難しいですね。どれも、悪いところと良いところが表裏一体で、文脈などによってどちらが前面に出てくるかが変わってきます。

次に印象的なのが、第14章の「夕食を作って食べる」に書かれている、オルトラン(ホオジロの一種)という鳥の料理と調理、そして食べ方にいたるまでの方法があまりに残酷でびっくりでした。スズメほどの大きさのオルトランを生け捕りにするとまず両目を潰し、窓の無い箱に閉じ込めイチジクのみを食べさせ、四倍にまで無理やり太らせたら、ブランデーの中に生きたまま入れて溺死させる。それから羽根をむしってローストして出来上がりなのだけれど、食べ方もまたすごい。頭だけはかじりとって、あとは肉も内臓も骨をむしゃしゃ食べるのだそう。これがあまりに残酷なので、食べる者はナプキンを頭からかぶり、他人の目から、そして神の目からもその行為を隠すのだと。ちなみに、元フランス大統領のミッテランが最後の晩餐に食べたのが、この料理だと書いてありました。美食にしてもなんにしても、それが「道」となって追求されていくと、その「道」の純粋性が増していきます。「道」の純粋性さえよければ他は構うものか、となるのかもしれない。このオルトランの逸話からそう感じたのでした(たとえば戦争にしたって同じようなところがありますよね)。

その他、膝を打った代表的なところは、愛されることと憎まれることはともに、対象から深い関心を得るというところでは一緒とのところ。そして、
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もし友情にたったひとつの定義しか許されないとしたら、それはアリストテレスが述べている定義になるだろう。すなわち、友情においてはけっして相手より上に立たない、というものだ。(p232)
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などでした。

こういう種類の本は、頭のウォーキングになるというか、ちょっとした頭の運動、体操になる本という感があります。それだけではなく、しっかりと残っていくものもあり、上っ面だけの本ではありませんでした。著者はフリーの経営コンサルタントで、なおかつジャック・デリダに「俊逸!」と言わせたそうです。鍛えられた、良き頭脳による哲学の一般書なのでした。


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