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『「空気」の研究』

2021-06-11 22:20:13 | 読書。
読書。
『「空気」の研究』 山本七平
を読んだ。

日本人がつよく拘束されている「空気」を論じた1977年発刊の名著。

「空気」へと決定打をあびせた本書の論考をもってしても、現在において「空気」という現象はしぶとくつよく僕らのあいだに根付いてしまっています。でも、ちょっと難しいながらも、本書の内容をある程度咀嚼できる人が増えたならば、「空気」を覆すチャンスも増えていくし、本書が読まれ続けることで、「空気」に抵抗するためのファイティングポーズは継承されていく、つまり覆すチャンスが潰えずつないでいけるのだと思うのです。

本書は、具体例を多く引きながらだけれど、でも中心は本格の抽象的論考で進めていく形ですから、言外でイメージするところでけっこう苦労しました(というか、この本で僕は、読書中にその内容を言葉を離れて考えていがちなことにはっきり気付かされました。そして読書は本来そういうものだとも思います)。読んでいる途中の抽象的論考のその後の展開を推理する、対象となっている「空気」を自分なりにどう捉えてきたかをふわっと整理する、「空気」に関する考えで著者を出し抜く気持ちもまんまん(だって時代の利がある部分はあると思っていますからね)。合計すると、まあ疲れるし思ったほど読み進まないのでした。が、しかし、そのワンダーランドを濃密に冒険しているのは確かなのです。

ほんとうによい読書になりました。こういった、「格闘に似た対話」となるような読書でこれまで読解力をつけてきたんですもの。まだまだ自分にとって高い山はたくさんあるのだ、と希望に近いなにかを感じるのでした。

閑話休題。

最初に「空気」とはどう生まれるのかについて。「臨在感的把握」という語句で著者は表現していますが、モノや言葉、人などから元々感じとれるイメージのようなものがあります。お寺のお札や神社のお守りになにを感じるでしょう? そうやって自然と感じとることが「臨在感的把握」であり、ここから空気が生まれます。そうして、その空気が共有されてつよくなり、仕舞いには科学的な論証までもはねのけて物事を決定する動力源になってしまう。太平洋戦争中に戦艦大和が、沈む覚悟で出港して撃沈されたのも、空気による決定のためだと、本書で例に引かれていました。

さて、40年くらい前の本ですが、ここで語られる日本人像はいまもそうは変わらない。まず、政治家や官僚、会社員などさまざまな人々は何かを隠しているものだと前提するいわば「不信」の態度を持っていることがそのひとつ。次に、これは欧米では革新的な視座ではあるのだけれど、実は日本人的だとされるものがふたつめ。それは、ある出来事にはその背景にこそ原因がある(生活習慣病の原因は高カロリーの食物を入手しやすいからなど)という現象学的(現象学という概念にもさまざまな捉え方があるようですが)といえるような捉えかた(本書では「情況論理」と表現)に潜む「無責任さ(自己無謬性=自分は関係していないという意識)」。

つまり、「不信」と「無責任さ」が大きく二つ、日本人の気質としてあるのだと読める。これこそ、空気を生みやすく、そして空気に翻弄されやすい気質でしょう。この、「空気」と密着した気質は、何を起源としているか。明治以降のみを考えれば、王政復古によって力をもたされた天皇を「空気」で把握しなければならなくなったことが大きいのかなと思いました。そこで「空気」の扱いが血肉化したのかもしれないと推察するところです(ただ、あとがきによると、明治がきっかけでも、初期はそうでもないようで、徐々に空気支配がつよまっていったようです)。

明治維新によって、それまでの臨在感的把握を切り捨てる方向へとパラダイムシフトを促されます。そういったものは科学的ではない、西洋的ではない、だからいわば「ドライ」な考え方を持ちましょう、という有名どころでは福沢諭吉らによるリードです。著者は、このようにあるものを「ないことにする」ことによって、かえってそれは深く沈潜し、逆にあらゆる歯止めが利かなくなり傍若無人にふるまいだすことになり、結局、「空気」の支配を決定的にする、と述べています。抑圧して失敗するパターンです。

また、「空気」支配はつきつめると、暴力などの「原理主義」行動に行き着く。だから、警戒してそこから脱却するのがほんとうはよいことです。対象を相対的に見れなくて、絶対的に見たうえで対象と一体化してしまうのが空気醸成のエネルギーですから、脱却のためには自由でいないと、なのでした。それも生半可な自由(水を差して現実へ引き戻す自由程度のこと)では、空気から脱却したはずの通常化したところからさらに空気支配が生まれてしまうとのこと(ここはもっとちゃんとまとめて説明しておきたいところなんですが、気になる方は本書をあたってください)。だから突っ切った自由が大切になる。それはたぶんに、孤独をかなりの割合で含んだ自由です。さらにいえば、その自由とは、一体化から逃れた自由であり、自分を拘束している「空気」を把握することだそうです。これは今でいえば、メタ認知的に「空気」を見てみることではないでしょうか。

それにしても、ここまで分析・考察されていても、「空気」ってまだまだ現代でもつよいですもんね。「空気」という現象を否定しようとすらしない人が多いし。「空気」を自分のために使ってやろうとする気持ちが上の世代から下へと再生産されてきたからじゃないのかなとも思いました。あるいは、空気に逆らったら怖い、という気持ちの再生産、でしょうか。

僕の簡単なまとめはここまでです。本書を読むと、もっと豊潤に「空気」の論考や「水=通常性」の論考を楽しめます。こまやかに考えてみたい人はぜひ手にとって読んでみてください。


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