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『詩の誕生』

2024-04-30 20:27:46 | 読書。
読書。
『詩の誕生』 大岡信 谷川俊太郎
を読んだ。

1975年のこと、創刊第一号の対話(対談)誌に掲載された、同い年の詩人・大岡信さんと谷川俊太郎さんによる、詩の誕生とはなにかから始まり、詩や言葉を探っていく話し合いです。

詩は、言葉が先にあってそこから想像が広がっていく形でできていくものなのか、それとも、言葉以前に精神面で感じていることがあり、それを言語化するという過程でできていくものなのか。この大きく二つのとらえ方から対話は始まっていきます。ちょっと興ざめなネタバレになってしまいますが、詩ができていくほんとうのものとしては、後者の、感性が先にあり言語化していくというものというとらえ方のほうにが対話の中で落ち着いていきます。ですが、言葉が言葉を呼ぶというテクニカルな方法のほうを否定しはしません。言葉先導の詩作は、それはそれでおもしろいものができあがり、一つの遊戯的な側面を持つものです。そういった詩作には、辞典を引いたり図鑑をめくったりしながら目に飛び込んだ言葉を組み合わせる、なんてやり方もあるようです。

そして、詩の誕生と対になるような連想で、詩の死についてもお二人は考えていきました。これも、大きく二つのとらえ方がなされています。ひとつは、「詩の社会的な死」で、もうひとつは「詩の個人的な死」。

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一篇の詩は、個人のなかで生きたり死んだりするけれども、その同じ詩が社会的性格を持っている。(p15・大岡氏による)
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「詩の社会的な死」、についてのところは、今の言葉でいえば「コモディティ化」と言っていいと思うんです。詩が社会的に響かなくなるのは、そのインパクトであった、詩が表現して外界へ放っているものが、社会の文脈の中に組み込まれてしまったからかもしれません。つまり、詩が放っていたものがある意味で社会をつくる構成因子のひとつになったから、詩として驚かなくなりその強さは感じられなくなった。そうとらえられるのではないか。

かたや、「詩の個人的な死」は、その個人の中に組み込まれて消費されたのではないか。消費とはなんだろう、と考えると、この場合イメージの消費ですから、「飽きた」というのはあるでしょう。また、この場合も社会的な場合に近い感覚で、個人の内に「組み込まれた」というのもあると思います。たとえば、ハニーデューメロンを知らなかった人がそれを知って手に入れ、眺めて匂いを嗅いで食べて、「こういう果物があるんだなあ!」と鮮烈な印象を覚えたとします。で、それを何度か繰り返せば、ハニーデューメロンの見た目や匂いや味を覚えてしまい、驚かなくなります。これは、その感覚を身体と頭で覚えたからであり、つまりハニーデューメロンをかなり消費したからだ、と言えるのではないでしょうか。

それでは、以下からは引用を。

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だから少なくとも自分にとって詩とは、人間に喜びを与えるものだということだけは、わりあいはっきりしている。その喜びというのは、単純にうれしいとかなんとかじゃなくて、もちろん非常に官能的なものまでくるみ込んだものなんだけれども。(p40・谷川氏)
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→まず、詩の読み方を自分なりにわかることが必要なのだけれど、高尚だとされるような西欧の詩集のものじゃなければ、わりかし素人読者であっても自分なりに読めて喜べるものって、一冊の詩集を手に取ればひとつふたつ以上は見つかるものなんじゃないかな、というのが僕の意見です。


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詩人というのは特別な存在で、家庭なんてものは捨てるべきであるといった考え方が主流だったけれども、家庭という日常性の中からでも十分に詩は汲みとれると僕は思っているんだ。日常生活をバカにすれば、それは無限にバカなものになるけれども、逆に日常生活のなかに詩のモメントを探れば、日常生活は無限に深化していく奥深さをもっているという感じなんだ。(p72・谷川氏)
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→これは詩や詩人に限らず、小説や小説家にも言えることでしょうね。もっというと、音楽や絵画などの表現、創作の分野でも大切に見つめられるべき部分ではないか。


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自分の中から言葉を生み出すのが詩の才能であると昔は思っていたけれども、このごろぜんぜんそうは思えない。詩の才能てのは、有限の語彙から何を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ。選ぶということに、人間の経験とか成熟とかが実はかかわっていて、自分の詩と他人の詩の違いがあるとすれば、それは選択の違いだけだろう、という感じがとても強い。そのときの選択の基準というのは、僕にはカンとしか言いようがない。当っているか当っていないかという判断は、分析のしようがないようなものなんだな。(p98-99・谷川氏)
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→感性がまずあって、感じたものを言語化するというやり方からいえばそうだろうと思います。でもここでは才能ではないとされていますが、言葉から言葉を生むという方法で作られた詩には、おもしろい造語があって、やっぱりセンスや知性がその裏に潜んでいる感じがするものです。あと、選ぶことが創作のカギのように語られていますけれども、これ、経験からいうと、DTM(デスクトップミュージック)で曲作りををするときなんて特にそうでした。音色を「選び」、音の配置や長さを「選び」、ハーモニーをやっぱり「選んで」いくようにして作っていった自覚が、DTMをやっていた学生当時からありました。同時代に宇多田ヒカルさんも、やってることは選択なんだよ、みたいなことをご自分のSITEで書かれていたような覚えがあります。


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詩を待つ待ちかたを考えてみると、視覚的な待ちかたと聴覚的な待ちかたが、詩の必然としてあるのじゃないかな。イメージが言葉以前のものとして頭に浮かんでくる状態で言葉を待つ場合と、音楽的なリズムが言葉以前に自分のなかにある状態で言葉を待つ場合の、二つがあると思う。(p108・谷川氏)
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→続けて、聴覚的な待ちかたが現代においては貧しくなってしまった、とありました。なぜなら、現代詩は七五調を避けてきたからです。このあたりには、戦中の標語で使われたりしたことの反省や忌避、カウンターの感覚があったのではないでしょうか。また、この「視覚的」と「聴覚的」の二種類の待ちかたを自覚できると、表現の技術としての幅が広がるなあと思います。


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(「コップの詩」は)コップを正確に記述しようというのが出発点だけれども、最終的には、通常われわれがコップと呼び慣れているものを、コップじゃないものにしたいという欲求があるんだな。コップを正確に記述していく過程で、コップがコップ以外のものに変容してい欲しいという気持ち。(p116・谷川氏)
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→このコップの詩は本書に転載されています。読んでみると、いくつもの独特な切り口と、そのぐうっと肉薄した描写力によって、「よく見てるもんだわ!」と感嘆の息が漏れるほどのすごさがあって、さらにそうやって描写する作者の粘り強さも感じられる上に、詩自体とてもおもしろい。とくに描写力は、小説を書く人ならば負けたくないところですが、大勢の書き手が負けてしまうだろうほどです。
さて。コップがコップ以外のものに変容して欲しい、というところですが、これは解体とそれによる異化作用について言ってます。僕も僕なりの素人フィクション書きの技術として、解体とそれによる異化作用の技術は主要な武器として持っているので、この箇所を読んだら「あっ」と気づきます。


というところでした。ここではこれより先には進みませんが、後半部分もおもしろいのです。中世の歌合(うたあわせ)がかなりの丁々発止な会合だったことや、松尾芭蕉の群を抜いた才能とその厳しさと悲哀についてなどがあります。そこから知るのは、古来から磨かれた詩歌の技術とその作品って、そうとうの緊張感のなかでの厳しい競い合いのなかから生まれてきたっぽいということです。僕なんかはやっぱり現代人で、甘やかされた空気のなかで生きてきたようなところがあって、競争が嫌いですからね。まあ、競争が、他人の足を引っ張る、だとか、出し抜く、だとか、他者と協力しない、だとかいった性質のものばかりに成人するまで触れてきたからかもしれません。今一度、そういったところも見直したいな、と思いました。


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