Fish On The Boat

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『悪人』

2010-09-14 20:51:02 | 映画
映画『悪人』を観てきました。
数年前に『フラガール』がヒットした李相日さんの監督作品で、
主演は妻夫木聡さんです。

何日か前に、モントリオール国際映画祭で主演女優賞を深津絵里さんが
この映画の演技で受賞されたというニュースが流れましたよね。
そのあたりにも興味を惹かれて観にいったのでした。

行きつけの映画館は本日メンズデーな上に、
朝一回目の上映を観にいったのですが、
それなのに、けっこうお客さんが入っていました。
妻夫木くん人気でしょうか、深津さん目当てでしょうか、
はたまた、「本当の悪人は誰なのか」という本作の
扱うテーマの求心力なのか、女性のお客さんばかりです。

原作が芥川賞作家さんのものだということなので、
観る前から、ある程度の重みのある、ガツンときてもおかしくない
作品だろうと覚悟していました。
はたして、『悪人』は、その予想に近い、けっこうな重みでのしかかってくる作品、
観ているうちに心の中に重い何かが発生する作品といった感じがしました。

いかに「悪」というものがありふれていて人間世界にはびこっているか。
その自分の言動や行為が果たして「悪」なのかどうかということを、
僕ら日本人があまり、人によってはほとんど内省していないことが浮き彫りにされていると思います。
「悪」は、悪意とか配慮の無さだとかがこの場合浮かんできます。

映画の中でもそういったセリフがあるのですが、
「自分には余裕がある」ということを見せたいがために、
他人の真面目さや悲しみまでをも笑おうとする人たちがいる。
そういう精神性が、世間の中に一つの柱として存在するのかもしれない。
とかって、ひとごとじゃないですけども。

また、主人公の妻夫木くんや深津さんにはそういう、
他人を嘲笑うようなところがないのですが、それゆえなのか、孤独です。
彼らのような地道で地味でひっそりと生きている人間は、
前述の「自分を余裕があるように見せたい」人間が主流になってしまっている世の中からすれば
傍流になっている。
そしてその傍流という環境にいる人は「悪」にされやすいのだと思う。
言われも無く「悪」だという濡れ衣をきせられやすいのと同時に、
「悪」の色に染められてしまいやすいということ。
境遇や運命によって「悪」になってしまう。
いや、深い所で「悪」になりやすいタイプと言えるかもしれない、
これはちょっと後で述べます。

こう観ていくと、世間の主流である「余裕があると思わせたい、人を嘲笑う人たち」がその本質は「悪」
の方向性に向いているにも関わらず、この作品での、表層の色分けとしては比較的「善」であるものと
されていたような気がします。それはそれ、数の論理というものも働いているのでしょう。
作者は、本質的に「悪」である面を忘れるなかれ、と訴えているようにも思えます。

一方、もしかするとマイノリティなのかもしれない、ひっそりと懸命に生きている人たちが、
本質は「善」であるにもかかわらず、この作品では「悪」の立場になってしまう。

もしかすると、この辺り、卑怯さやそれのベースになっているであろう臆病さというものが
関係しているのかもしれないです。
うわべだけでちょろちょろ悪を演じている人間というのは、「空気を読め」じゃありませんが、
自分の立場がちょっとでも苦境にたつことを恐れて、なんとしてでも大多数の側であったり、
のけ者にされない側であることに神経質なほどこだわっているのだと思う。
一方、ひっそりと生きていて、調子いいことであれば悪であってもふるまうということをしない
ポリシーみたいなものを持っている人間は、ここぞというときには悪であっても、自分の信念の
正しさを信じるところがあるのだと思う。
とかなんとか書いていると、悪と正しさがごっちゃになってきますね。
ごっちゃになるくらい、何が「悪」か、どこからどこまでが「悪」かという取り決めっていうのは
難しいということです。
深い所で「悪」になりやすいというのは、この、自分の信念に従ってしまうのが吉と出るか凶と出るか
わからないところにあるんじゃないかと思うのですが。
また、妻夫木くんでいえば、感情の昂ぶりが一つの焦点です。
うっ屈した気分やそれのベースにあるかもしれない言語化を億劫がる気持ちっていうものが、
「悪」への坂道へとその人を蹴落とす役割をもっている可能性があることを
踏まえておきたいです。

さて。
だからといって、この作品は「こうだ!」と断言することができないくらい、
込み入っていて多面性を持っていて、いろいろな様相が描かれています。
それも、派手ではなしに、「ちょっと明暗を変えました」という程度の表現の仕方で
描いています。そういうのもあって、だから、感想を書くことは難しいのです。

さきほど、「他人を嘲笑うタイプ」を世間の主流と書きましたが、それだけではなしに、
自由に悪意を放出するタイプを主流としたほうがいいのかもしれません。

この映画で描かれている悪意は、自由によって生まれた悲劇でもあります。
でも、悲劇という言葉はこの作品の前には陳腐に響くだけのものになり下がります。

きっと、この作品が訴えかけている何かの、大きな一部分はこうだと思います。
<「悪」というものはどうしても発生するものだ。そして、その「悪」による連鎖が重大な悲劇を
産むことにもなる。そのことについては「知らなかった」で済ませない欲しい。>

この映画や原作本をバイブルにせよ、だなんて鼻息の荒い訴えはまるでありません。
「2010年最重要映画!」だとか「現代に生きる日本人はこれを直視しなければいけない!」などと
強く言ってはいけない種類の作品であることも間違いないでしょう。そういう位置づけにはすべきではない。
だけれど、漱石の『こころ』や太宰の『人間失格』のように古典として読み継がれてきて、
一種、マストな享受アイテムなんだけど、そんなに騒がれないというポジションにあって欲しい
作品ではあると言いたいです。

う~ん、ほんと、感想を書くのが難しい映画ですね。
悪意などの「悪」ってものの醜悪さを、教えられるでもなく自らわかるということの場を
作ってくれる映画でもあります。フィクションであっても、そのままの現代人がでてきますし、
そのままであるがゆえに、愚かな者も素直な者も美化されず…、
いや、主演の妻夫木くんなんか、かなりとっつにくそうなキャラになりきってたにしろ美青年だし、
深津さんは狭い世界でずっと生きてきたようには見えないくらい美しくて、その美しさは
きっと広い世界を見てきたが故に保たれている美しさなんじゃないかって思ったりもしました。
美化とは違いますけれど、その主演の2人を配した点でいえば、やっぱり映画なんだなっていう感じはする。

樹木希林さんがおばあちゃんの役をやってらっしゃいますが、
ほんと、この映画で一番の魅力的なキャラかもしれない。
愚かなんだけど、そういうところも含めて理想のおばあちゃん像のような気がしましたね。
樹木希林さんはこの映画で何かの助演女優賞を獲ったらいいです。

どうなのかなぁ、この『悪人』といい、初夏に公開された『告白』といい、
最近は「悪」ってものを考える時期に入っているのかもしれないですね。
不勉強でよくしりませんが、高橋源一郎さんも「悪」に関する本を
出されたのではありませんでしたっけ、違ったかな。
ほんと、いろいろな世代がいろいろと考えてみるのに悪くないテーマだと思いました。
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