Fish On The Boat

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『かもめ・ワーニャ伯父さん』

2018-08-03 20:43:09 | 読書。
読書。
『かもめ・ワーニャ伯父さん』 チェーホフ 神西清 訳
を読んだ。

戯曲です。
チェーホフ四大戯曲のひとつ目と二つ目だそう。

『かもめ』の途中までの段階で、
女優の息子で若くて自分の文士としての才能を認知されたい人物と、
才能を認められる流行作家との対比がまず出てきていて、
前者のむきだしの苦悩と後者の隠された苦悩についてがなるほどなあと思いました。
人物のタイプとして違うのだろうけれど、
打って出たい気鋭の若者とはえてしてそういうもので、
世に出た創作者はそういうものだったりする、
というようなスケッチのように読めた。
さらに、ニーナという若く美しい女優志望の女性の転落があり、
作者は人生の苦味を無慈悲にも盛り込んで、
そこでその魅力的なキャラクターがどう考えるかに賭けているように読めました。

つづく、『ワーニャ伯父さん』。
女性の登場人物、エレーナに、ソーニャに、どちらもすばらしい。
アーストロフ医師に対するソーニャのセリフがまたよかった。
破滅の影の中に足を踏み入れ気付かず苦悩していると、
そっと優しく正しい言葉で道を照らすのです。
博打とか酒とかに手を染めても、
「あなたはだれよりも立派な方です」と言ってくれて、
「どうしてご自分でご自分を台無しになさるの?
いけないわ、いけませんわ、後生です、お願いですわ」なんて返されたら、
たいがいの男は大きな感謝とともに自分を顧みて自らを正そうと発起するんじゃないかな。

心からそういうようなことを言い
アクションをしてくれたりするのって、
まあたとえばチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の女性がすばらしいといったって、
時代が時代で、女性の地位が低いなかで形成された最善の姿勢だろうと思うわけで、
みんな一人で生きていく現代ではそういう要素は薄くなるんだろう。

現代は、同じことをするにしてもテクニカルだったりして、
それがほんとうにうまくてもどこか響いてこなかったり興ざめだったりするんです。
ある種の素直さ、それは防御力が低くなって傷を負う危うさを裏返しに持っているものだけれど、
そうやって生きる人からでる奮い立たせる言葉には力がある。

戯曲を例にとっても時代をそのまま汲み取ったことにはならないのだと承知しながら、
それでも、『ワーニャ伯父さん』の時代はまだ人と人とのつながりが強くて、
それがストレスにもなるだろうけど、素晴らしい面もあったよなあと思いをはせる。

なんだか、女性の自立、インディペンデントな女性の生き方、だとか昔から言われてきて、
その性格がどんどん強くなっているのかもしれないけれど、
もしかすると、頼り・頼られするような性質は、
ある程度男女間では持っていた方が生きやすいし、
もっとうまく生きれるのかもしれない、なんて思いました。

そして最後に解説を読むと、ぐっと深読みした気分になります。
忍耐というのがカギであるといいます。
苦しい人生、境遇、運命、それらに対しての忍耐に希望があるような感覚。
この本書の二作に関しては、希望まで昇華されていませんが、
「なにか深くまではわからないけれど、どうやらこれが突破口だ」
とチェーホフが言っているかのようなラストになっている。

実際、人間、ガマンして生き抜いていくものですよね。
ずっと楽をして生きていく人はいるかもしれないけれど、
それだと、人間としての深みにかけたまま歳をとって死んでいく。
人生の醍醐味って、辛さや苦しみとも関連があって、
そこに忍耐やガマンが処方箋になってたりする。

でも、ストレスにさらされてガマンし続けると、
僕なんかそうですけど、心臓が悪くなったりしますからね、そこは限度があります。
息抜きの時間をとり、そして我慢や忍耐をしすぎないこと。
過ぎたるは及ばざるがごとしですから。

この作品は100年以上前のものですが、
『ワーニャ伯父さん』に登場するセリフに、
苦しんで開拓をして、その後、
こなれた土地で暮らすようになる後世の人たちは自分たちに感謝してくれるだろうか?
いいや、そんな開拓者のことなんて、ゆめにも思わないだろう、
というようなのがあります。
かなり意訳ですけど、そのようなニュアンスのセリフがあります。
そうなんだよなあって思いますよね。
僕も北海道の開拓された土地に住んでいますけれども、
開拓者である屯田兵たちに感謝したことってたぶんないです。
開拓者たちは、未来の孫や玄孫たちが
自分たちに感謝して生きていくことを夢想したかもしれない。
でも、薄情というか、そうじゃないものなんですよね。
だからといって、未来の子孫たちへ国の借金だとか環境汚染だとかの
負の遺産を背負わせていくのもどうかとは思います。

こういう、100年とか、あるいはもっと長いタイムスケールで、
その時々を生きている人たちに対して、血の通ったイメージで考えてみることは
実はけっこう大事なんじゃないでしょうか。

古典を読むと、そんな本筋とは関係の無いことも考えてしまいます。


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