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『現代思想入門』

2023-04-14 11:35:11 | 読書。
読書。
『現代思想入門』 千葉雅也
を読んだ。

デリダ、ドゥルーズ、フーコーを中心に、フロイト、ラカン、ニーチェ、マルクスらにも遡り、レヴィナス、メイヤスー、マラブーらにも言及する、できるだけの平易な言葉で語られる現代思想の入門書です。

本書の最後では、現代思想の読み方指南もあります。そこでは、まずデータをダウンロードするように読むことが大事だとされる。中途でいちいちツッコミをいれてはいけない、と。これは話を聞いているときと同じだ、とあります。僕はほんとうによく、読んでいる中途で「待て待て?」とツッコミをいれます。それをメモっておいて、こうして感想・書評を書くときに使うのです。マナー違反なんだよなあ、ということを改めて思い知ってしまいました(それでもやめませんが……)。

どうして読んでいる最中にツッコミをいれてはいけないのか、というと、そうしてしまうとその先をきちんと読めなくなるからです。まず、著者の主張をまるごと受け入れてみることが大切だといいます。僕がツッコミをいれるときは、ツッコミの地平線と著者の地平線の二重線で読んでいるところがあるかもしれません。ふつうに読んでいる時よりも疲れますから。

さて。序盤では、秩序つまり権力の側や規律なんていうのものは、それにそぐわないものを矯正したり排除したりする、ということが述べられます。僕の考えとしてもまったくそのとおりで、そこから脱出するべきベクトルが、現代思想の推進力であるのでしょう。

では簡単に、内容との格闘へと入っていきます。序盤部分の引用から。

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多かれ少なかれ、自分が乱される、あるいは自分が受動的な立場に置かれてしまうということにも人生の魅力はあるのです。(p21)
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能動性と受動性が互いを押しあいへしあいしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。(p22)
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これまで僕が考えてきたのは、他律性を排することで(≒自律的であることで)その人の幸福度や生きているぞという感覚が強まる、ということでした。他律性を支配に重ねて考えてもいる。なんでもお仕着せでさせられているとストレスフルだし寿命だって短くなるらしいことを知ったのも根拠にあります。

本書で言っていることは、他律性を受け入れよ、ということで、僕の考えよりもダイナミックな生を想定している。だとしてもの僕の考えだと、それでもなお、他律性を排すのは大事だとなります。これはたぶん、人間一般がどういうものか、社会一般がどういうものか、という個々の世界観に拠っているのではないか。

他律性を受け入れながらそのグレーゾンーンでやっていけるのは、それなりに高い知性そして理性のある人たちで構成されるグループに限定されるのではないか。いわゆる一般大衆、マジョリティであるだろう層が前提だと、他律性を受け入れるうんぬんでその個人も関係も疲弊するのではないか。

社会的な競争、性的な競争、個人的優越のためなど、そういったものがひしめくマジョリティ層の社会では、他律による「足を引っ張る行為」があったり、誹謗中傷の酷いレベルのがあったりもする。自分を守るため、自己の安定のためには、他律をできるだけ排す方法は有効だと思うのです。

ただ、このあいだ河合隼雄さんの『コンプレックス』を読みながら考えたこと・学んだことに照らすと、そうやって自分を守ったり、自律的にやっていったりすることで、少しずつ自分が成長して、他律(外の社会との関係)に耐えられるようになっていく。それから、他律を受け入れるようなダイナミックな生へ移行するとよい。

『コンプレックス』では、自我が弱い段階ではコンプレックスと対決しても耐えられないことがあることが書いてありました。自我が育ってから、少しずつコンプレックスと相対して対決し、解決してエネルギーとしていく。他律を受けれいることも、似たような感じでやっていくのが最善なんじゃないかと考えるところです。

本書『現代思想入門』では未練をもちながら決定を下すことが大人ではないか、と書かれています。これは後悔もそうだと考えられそうです。また、感情を切り捨てながら技術的なポイントを反省するのはこころの負担にならないのでお勧めなのですが、これも、こころが育ったなら感情も込みで反省するのがよい、と僕は思うし、本書の後半で著者もフーコーを引きながら「無限の反省ではない有限の反省」として同じようなことを述べています。

ということで、デリダやドゥルーズの現代思想の前提をまず考えてみて、そこで一般のマジョリティたちに適用するにはずれがあるのでは、という話でした。他律を受けいれるダイナミックさはわかるのだけど、耐えきれない人たちは多数いると思うので。ただ、本書では、フーコーがその後期に、主体性と言うか自律性というか、そういったものを重視していたらしいこともちらっと述べられています。

ちょっと先走っていて個人的な解説になりました。ここで、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの現代思想のキーワードを書いておきます。それは二項対立からの「脱構築」です。
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二項対立は、ある価値観を背景にすることで、一方がプラスで他方がマイナスになる。(p27)
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善と悪、健康と不健康、身体と精神、自然と文化などの二項対立のどちらかを取るのではなく、そのどちらの間のグレーゾーンの立場を取ったり、そこからはみ出したりするのが「脱構築」です。ここがまずおいしい匂いのするところで、ここを突破口に他の枝葉末節的な部分や、その根っことなったところを探っていく構成になっています。

ここでまた、秩序による排除や矯正について考えたことを。
たとえば発達障害なんていうカテゴライズこそが、管理社会という秩序による支配からでてくるもので、それってマジョリティの側が強固であることの証拠にもなっています。ですが昨今の、発達障害と言われるような傾向・性質の人つまりマイノリティを、治そうとしたりせず共存していこうというのは近代の見つめ直しで、近代以前への回帰でもあると考えることができます。

一説に、世界中の精神科病床の25%が日本にあり日本の精神医療は50年遅れている、なんて言われるそうですが、これこそ、いまだに管理体制・権力というものへの思慮が欠けていることの現れなんだろうなあ。排除・矯正や差別を副産物として生む、秩序・管理・規律・権力といったものに無批判であり、ゆえに強力だからなのかもしれない。フーコーへの理解度や浸透度がものを言ってる気がします。権力は、被支配者側がそれを支えているという見抜きが大きくひとつあります。管理体制・権力に対する日本人の意識は、もしかするとガラパゴス化しているのかもしれない。また、外国人労働者への冷たい処遇なども、差別・排除など秩序や規律の論理が強力すぎるためゆえのことが表面にでてきているのかもしれない、と思いました。

というか、本書を第三章まで読んだらそこに気づけるのですよ。権力は被支配者が支えている、なんてところからどんどん繋がっていきました。自由が好きで大切だと思うならば、本書は面白く読める本です(少々難しいところはあるにはあるのですが)。

個性だとか多様性だとか、もっと育てようと言いながらも、それらは権力の手のひらの上でならばね、という注釈がこの社会ではついている。権力、マジョリティ、秩序というものはそういうものなのです。いわゆる、「はみださない範囲で」という都合の良い注釈がつきます。鎖国してたのなら通用するのでしょうけども。

国の競争力を上げるならば、国・権力・マジョリティ・秩序の側がもっとリスクをとらないといけなくないでしょうか。堅牢な安心の城であれこれやっても、それが通用するのは鎖国みたいな閉じた世界でだけです。ある程度、泳がせないと、はみ出させないと、何か生まれたりしません。

国・権力・規律・マジョリティ・秩序を重視しすぎたあと、どうなるか。考えてみたら貧しい軍事国家になるんじゃないのか。自然にそういうイメージが湧くのだけれど。権力・規律・マジョリティ・秩序のどんな部分が良くないかって、それらにそぐわないものを排除したり矯正したりするところなんですよね、返す返す言いますが。

最後に。

脱構築といった現代思想の出番って、日本では待望されるべきものなんじゃないでしょうか。現代思想の考え方やそれに促される姿勢、そして自覚的でいられることが、日本人の栄養素として不足しているんじゃないか。日本人としての群れがバージョンアップしてちょっと変わっていくためには、ですね。

でもみんな、自分が生きることに精一杯で、「それどころじゃねーんだ」なんでしょう。生きることに精一杯同士で競争して、足を引っ張ったりし合ってもいますし。そうやって疲弊している民衆は支配しやすそうで、そういう民衆はただ時の流れに乗っかって生きてしまうのかもしれない。自戒を込めて、になりました。

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