Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『嘘を取り戻せ』 後編

2018-10-01 06:00:00 | 自作小説7

 気がつくと、四畳半くらいの薄暗いコンクリート張りになった部屋のベッドに朋樹は寝かされていた。一体ここはどこだろう。身体に痛む箇所はないが、頭がややぼんやりとしていて重く、軽い頭痛もあった。
 「目が覚めたか。」
 いきなり傍の暗がりで男の声がして朋樹ははっと息をのんだ。
 「ここは?どこ?」やっとのことでこれだけ言えた。
 「札幌だよ。それ以上は詳しく教えられない。手荒な事をして悪かったね。でもね、君は重要参考人なんだ。これからここのボスと顔を合わせてもらうよ。」
 朋樹はここでやっと、自分が拉致されたことを思い起こした。自宅アパートの階段で狙われたのだった。あれからどれだけ時間が経っているのか気になったが、部屋を見回しても時計はなかったし、それならと思ってズボンのポケットを探ってスマホがあるか確認したが、残念ながらそこには無かった。財布やカード入れも同様だった。落胆混じりに朋樹は男に訊いた。
 「重要参考人って、いったいなんの?」
 男は少し吹きだしながら、
 「ハッキング。その目的と方法についてだよ。しらばっくれたって、君のためにならないよ。」相手がニヤついている気配を感じた。脳裡には誤解や冤罪の文字が浮かぶ。朋樹は自分がどう思われていて、どういう状況なのかを懸命に整理しはじめた。とても難しい状況であることがすぐにわかったのだが、まだまだ情報に乏しく、戦略を立てるところまでは行きつかなかった。相手がどんな組織なのかもわからないのだ。
そうしているうちに、足下の方向にあるドアから、外の照明に照らされて大きな影をまとった太った男が部屋に入ってきた。お疲れさんです、目覚めたんすね、などとベッド脇の男と二言三言交わし、それから朋樹に、永井朋樹さん、君、こっち来てもらえる?と声をかけた。部屋から出ろ、ということらしい。
 パーカー姿の太った男に連れられて部屋を出た。まだ少し足が萎えていておぼつかないし、なによりこの施設すべてが薄暗いため、蹴躓かないように気をつけながら歩く朋樹だった。だが、すぐに広い四角い空間に出た。パソコンが何台も並んでいて、痩せぎすや太ったのが静かに画面に向かっている。右側の壁際に、痩せすぎてもいないし、太ってもいないスーツ姿の男が椅子にかけ足を組んでこちらを向いている。パーカー姿の男の誘導で朋樹はスーツ姿の男の目の前まで来た。見るからに神経質そうな男だった。
 「それで、どこまでわかった?」とスーツ姿がパーカー姿に言った。
 「いえ、まだなんにも訊いてないっす。僕らの出番じゃないと思って。」パーカー姿は頭を掻いた。神経質そうな男は小さく舌打ちをして、朋樹に声をかけた。
 「永井さんだね、まあ、ここに掛けてください。いろいろ訊きたいことがあるんですよ。単刀直入に訊くけれど、どうやって形跡のない侵入ができた?」
 「待ってよ。なんのことかさっぱりだ。説明してもらわないと。」スーツ姿はパーカー姿に一瞬厳しい視線を送り、そして説明を始めた。
 「ねえ、永井さん。あなたのパソコンとスマホはね、押収させてもらって、解析したんだが、証拠は出ていない。君がとぼけていたって、なんらこっちには君のしっぽを掴めないんだから、しょうがないわけだ。だがね、君のスマホにはちょっと前から、こちらから仕掛けをさせてもらっていたんだよ。怪しい人物として君が浮上していたからね。そうせざるを得なかった。こっちのスタッフが侵入して、スマホをどう使用しているか、誰と連絡をよくとりあっているか、調べさせてもらった。あとブログも読んだよ。」
 「スマホの調子が悪くなったのはあんたらの仕業だったんだな。俺はハッキングなんてできない。そんな技術も知識もない。」
 「じゃあ、松尾亜実さん。彼女から聴くべきかな?」スーツ姿は右の口角だけを持ちあげて笑いかけてきた。
 「どうして亜実が!」朋樹はあまりに独断的な嫌疑をかけられている怒りと、不意に亜実の名を出され土足でプライベートに踏みこまれたことへの嫌悪感で、狼狽した。
 「実は、彼女のスマホにも侵入させてもらったし、君のと同じ仕掛けを施している。」
 「それで、亜実は怪しかったか?」唾を吐きでもするように朋樹は言った。
 「それがだ、よくわからないんだよ。」朋樹の強い態度もそよ風であるかのように意に介さず、スーツ姿は足を組み替え、続けた。
 「我々は、ゴーストと呼んでいるんだ。その犯人を君であるとしているが、ゴーストはまったくその形跡を残さない侵入の仕方で、重要なシステムに入りこんでくる。ログすら残さないように細工までする。追跡もできない。あっと思った時には、雪のように消えて無くなる、あるいは名付けた通り幽霊のようにな。その動機、目的、方法を話せと言うんだよ。……まあ、いいさ。長期戦で行くとするか。」そこまで言ってスーツ姿は立ち上がり、パーカー姿をはじめとする周囲の数人に身ぶりと短い言葉でなにか指図すると、奥のエレベーターへ向かい、その場を去ったのだった。すると、
 「土門英三郎の量子論と集団無意識の話、とても面白かったっすよ。」とパーカー姿の太った男が微笑みを浮かべて話しかけてきた。朋樹が返事をせずに睨みつけていると、太った男はさらに続けた。
 「でもね、量子論のコペンハーゲン解釈なんていう現代物理学のマジな話だとしても、そんな話は空想レベルだとぼくらは思うわけ。なぜって、たとえば量子論の解釈の話は他にも多世界解釈っていう代表的なものがあるでしょ。コペンハーゲン解釈は収縮っていってさ、もやもやした確率的な状態から観測によってひとつの世界に決定するっていう解釈だけど、多世界解釈はもやもやした確率の数だけパラレルワールドがあるっていう解釈だったっすよね。そして、どちらの解釈も、立証されていない。いや、できない。だから、そんな頭の中だけでこねあげた屁理屈みたいな解釈なんて僕らは空想の話だと思うわけっすよ。でね、ここが肝心なんだけどさ、僕らはそんな空想の話だとかをオカルトと捉えるの。でもって、オカルトをこの世の中で最悪なものとして憎んでるっす。」太った男の崩れない薄笑いのなかで目の光だけが鋭くなった。朋樹はまだ沈黙の陣を張っている。
 「僕らのネズミ捕りサイトは、ユング関連もそうっすが、幽霊、予言、UFOやチャネリングなんかの王道なものを好む輩がとくに引っかかるように作っているんすよ。サイトの数も三百以上ありますしね。そうやって、オカルト愛好者リストを作っていて、ここぞの時に使うんすよ。ね、永井さん、君に対してみたいに。」
 「そうか。あのユングのサイトを見たときにスマホがフリーズしたんだった。ということは、俺が犯人じゃない事を、お前らは承知の上でここに連れてきたんだな。」怒りがこみ上げてきたが、制する冷たいものが朋樹のなかにはあった。
 「そういうことっす。あくまで今ここにいる我々はそのうえで君が犯人だと上層部に進言したっす。まあ、ここからが交渉ということっすね。オカルト愛好者なんて社会の毒にも薬にもならない。政治にしても経済にしても、社会的事件や社会的案件に対しても、これは大事だろうと思うことよりもずっとオカルトを優先しますからね。社会的に去勢されてるんすよ。僕らみたいな、世の中を護ろうっていう意志の強い連中からすれば、ゴミ屑にしか見えないっすよ。で、永井さんは、ブログに書いていたように偶然ってものに翻弄されているようですが、どうですか、まだコペンハーゲン解釈や集団的無意識にこだわりますか?」仮面をまとったように、変わらない表情で太った男は言った。
 「そこはわからない。確信なんてできない。だけど、ブログに書いたようなこと以外に、どうやってあんな偶然の連続から意味をとればいいというんだよ。」朋樹は少しばかり教えを乞うような口調になった。
 「意味がないものから意味を取り出そうとしないことっすよ。わかりますか。偶然に意味なんてないんすよ。意味があるものからその意味を知ろうとするのは大切なことっす。でも、意味がないものから意味を取り出そうとしないことも、同じように大切なんすよ。」そう聞いて朋樹は場違いにも急に視界が開けたようなすがすがしい気分になった。雲の厚い山頂からやっと下界を見渡せたというように。同時に『びぃ、くうる』のマスターが、偶然はどのくらい珍しいか、あるいは珍しくないのか考えてみたらどうだろう、と言っていたのを思い出した。これは意味があるのかないのかを判断する大きなポイントになると思った。
 咄嗟に口をついて出る。
 「じゃ、偶然は、そこから意味をとるのは無意味なくらいに珍しくないものだっていうのか?」太った男はひとつ大きく頷くと右手の人差し指を立てながらこう言った。いつしか薄ら笑いの仮面を脱ぎ取っていて、目には真剣味が宿っている。
 「平たく言えばね、大数の法則っすよ。大数の法則はわかりますか?わからない?じゃ、そこから解説しましょうか。要するに確率と統計の話なんすよね。サイコロを例に出しましょう。サイコロは1から6の目まで、それを振ったときにそれぞれの目が1/6の確率で表になります。これはわかりますね?で、現実的にどうなるか。三十回サイコロを振ったとしましょう。そうすると、確率に揺らぎが出てくるものなんですよ。実際やってみればわかりますよ。三十回振るんですから、それぞれの目が五回ずつ出れば1/6の確率ぴったりなんすがね、1の目が二回しか出なかったり5の目が八回も出たりという偏りが生じるんすよ。この三十回だけを見てみれば、お分かりのように確率はすべての目が1/6にはなってないっす。でもっすよ。ここからが肝心なところでね、まあ、そうね、サイコロを一万回振るとする。そうすると、最初は確率が1/15になってしまっていた1の目もやがて連続して表に出る機会が瞬間的に訪れたりもして、結局一万回後には限りなく1/6の確率に近くなっているんですよ。これは他の目も同じっす。確率の収束ってやつでね、偏りが緩和される。これが大数の法則と呼ばれるんすよ。」そこまでは朋樹にもわかった。多くの回数をこなせば確率通りになっていく。それで、と次を促す。
 「サイコロには1/6っていう確率の6という分母がある。さて、人生におけるあらゆる種類の偶然がそれぞれ起こる確率の分母はわかりません。でもね、八〇年の人生だとしたって、それで確率が収束しきるかといえば、まだまだ足りないんじゃないかと仮定して考えてみることはできるんすよね。仮に一万年生きてこそおおよそ収束してくる種類の確率の中で僕らは生きているんだとすれば、八〇年の人生で偶然が目いっぱい起こったとしても、もしもその後九九二〇年生きられるとしたら、その後の人生で偶然は少なくなって他の人と偶然に見舞われた回数はほとんど変わらなくなるっす。つまりね、ある人は最初の一〇年に偶然が頻発し、ある人は六〇年目頃に偶然が多くなる。またある人は二〇〇年生きていたとすればそのときに偶然に多く降りかかられただろうし、ある人は一万年のスパンで考えれば平均して偶然が起こる人生になっているかもしれない。偶然とはそういうものっすよ。ね、大数の法則で考えるとイメージがつかめるでしょ。」言い終えると太った男は鼻から長く太い息を吐いた。
 朋樹のほうも立場を忘れ、満足のいく説明を聞けて今すぐブログの記事にまとめたいと思うくらい得心していた。なにより、この視点から偶然について亜実に語れば、彼女が感じている嫌悪感や恐怖感を払拭できそうに思えた。なんだ、どうってことないんですね、と微笑む亜実が傍らに立っているような気がした。
 「わかったよ。よくわかった。あんたの言う通りだと思う。」少しだけ頭を垂れた姿勢で朋樹は言った。
 「物わかりのいい人で良かったっす。じゃ、いいっすね、この件は。で、問題は永井さん、君をどうしようかということ。」いつしかまた薄笑いの仮面を被った顔で太った男は思案気に顎をさすってみせる。
 そうなのだ。朋樹は自分がここから解放されるために最大限うまくやる必要があった。さっきのスーツ姿はここにいるパーカー姿達の、朋樹がハッキングの犯人だという報告を真に受けている。どう振る舞えばパーカー姿たちの意に添って、スーツ姿を欺いたまま解放されるのか。パーカー姿達の目的を知ることが重要だった。そして、一方的に巻き込まれ不服ながらも、彼らとの妥協点を探らねばならなかった。いや、と朋樹は考え直す。どうしようもないことだが、最初から妥協点などという朋樹に対等な権利が認められている状況ではないのだった。そこまで深い落とし穴に嵌まっているのだ。もはや要点はどこまで彼らの要求を飲めるかだった。
 「一応、上の連中に示しはついた形ではあるんすよね。こっちもいつまでもゴーストを捕まえられないと、だらだらやってると思われて、せっかくここまで潜り込めたのに切られちゃいますからね。」
 「ここはもしかすると国の組織だな。自衛隊のどこかなのか?」
 「詮索はよすことです。自分の身も亜実さんの身も可愛いならね。これ以上の巻き添えにはしたくないんすよ。」太ったパーカー姿の男はさっきまでスーツ姿が座っていた朋樹の正面の椅子に腰を落としながら冷たく言った。
 「あんたらの目的も訊くべきじゃないってことかな。それで、どうすれば解放してもらえる。」頭を垂れた前傾姿勢のまま、朋樹は両手の指を組合わせた恰好で言った。
 「証拠不十分の誤認逮捕みたいな感じになります。上の人は長期戦だって言ってたっすけど、僕らが間違いの可能性が高いといえばすぐに解放っすよ。」
 「なにか条件がありそうだ。」朋樹の慎重そうな表情を見て、でへへ、と太った男は笑った。
 「まあ、あるっすね。君は君のスマホを大事にね、壊さないように、無くさないように、しばらく大切にしておいて欲しいんすよ。それだけです。それだけで結構なんですよ。」
 「盗聴でもされるのか?」
 「詮索しないこと。」パーカー姿は右の人指し指で朋樹のほうへ宙をつついて笑った。薄笑いの仮面は照明を背後から浴びて影の中にある。解放までの話がついたこともあるが、朋樹はこれ以上この影を帯びた仮面の薄気味の悪さに対して堪え切ろうなどと思えなくなり、もうその先まで話す気もなくなった。
 
 自室に戻ると午前三時を過ぎていた。あの薄暗い部屋から目隠しをして出され、車に乗せられてアパートまで運ばれてきたのだ。財布やカード入れとともに、細工されただろうスマホとノートパソコンを返された。職場には、親戚の不幸で欠勤という扱いになっているという。話を合わせるんだぞ、と車内で釘をさされた。
 さて、どうする、と朋樹は考えながらベッドに横になる。スマホは持ち歩かずに、部屋に置いたままにしよう。あとは『びぃ、くうる』のマスターに事情を説明した上で相談したい。やつらに勘付かれないようにしてだ。朋樹は、やつらは国の組織に食い込んだハッカー集団だと見ていた。何をしたいのか、具体的なことはわからないので、いろいろと想像ばかりがふくらむ。サイバー空間を制圧して、内乱でも起こす気なのか。はたまた、やつらは他国と繋がっているのではないのか。それとも、内部の腐敗を取り除いて日本のためにセキュリティ面を強化したいのではないか。どの可能性が本当かによって、朋樹の立場は重いものから取るに足りないものまで変化した。命を脅かされる危険性はどこまであるのか。ただのフェイクな存在で、もうやつらにとって価値のないものなのか。
 考えてもはっきりした答えはでなかったが、用心に越したことはない。出過ぎた真似をしてやつらの注意をひかない程度に自分と亜実を護るための策を講じることだ。そう、亜実が心配だった。まだ偶然の連続で気が滅入っている亜実に、やつらから聞いた偶然の理解の仕方を教えなければいけなかった。亜実が本当にまいってしまう前にそれだけでも伝える、それが先決だった。『びぃ、くうる』へは、客の引けた午後の時間帯に行くことにした。それまでの間、朋樹はひとまず眠ることにした。
 目覚めてテレビのスイッチを入れる。昼のニュース番組が画面に映っているのを、音声だけ聞こうともせずに聞いて、履きなれたワークパンツに足を通したり、シャツを羽織ったりしている。番組が、札幌市でハッカー集団が逮捕されたニュースを告げているのが聞こえて、朋樹は歯磨きに向かう足をとめた。特例として、民間のコンピューター技術者の協力を自衛隊が得ていたのだが、データを捏造して自分たちの契約に有利になる報告をしていたかどで逮捕されたのだという。朋樹は思案気に画面を見つめる。連行される男たちのなかに見覚えのあるパーカー姿の男がいるのを確認したので、朋樹を拉致した組織のあのハッカー集団が逮捕されたのは間違いないとしても、報道されている嫌疑については本当かどうかはわからない。これはたぶん、彼らがゴーストと呼んでいた現象がでっちあげであるとばれたのだろう。表面的にはそれで辻褄は合う。しかし、パーカー姿の太った男が言っていたあの集団のねらいとしての企みのしっぽがつかまれていたならば、ニュースとしては一段扱いが上になりもする。自衛隊にしろ国にしろ、世間の目を引かないほうが得策と考えれば、もっとも表面的で皮相な部分だけ衆目にさらすことをするだろう。ただ、そのカモフラージュに違和感を感じる種類の人間もいると思える。週刊誌の記者やフリーライターなどだ。もしも、彼らがこの件にひっかかりを感じて動き出すことになれば、きっと朋樹にも取材の手が及ぶことになる。そのときにはどこまで喋らずにいて済むのだろう、と朋樹は行く末に不安を感じた。人生がこれ以上ごたつくのはうんざりだったからだ。
 『びぃ、くうる』に着くとマスターしかいなかった。亜実は辞めたのだという。マスターとしても、亜実は少しゆっくりした時間の中で休息を取るのがいいのだろう、との判断があったので、無理に引きとめたりはせず、また働きたくなったらいつでもおいでとだけ言ったとのことだった。
 「朋樹にも悪いことをしたな。いろいろ調べてもらったり考えてもらったり。でも、もういいんだ。」やはりマスターに元気はない。
 「なに、言ってるんですか。亜実を元気にできそうな偶然に対しての理解の仕方、わかりましたよ。しょうがないな、亜実の家まで行ってくるか。」朋樹は踵を返すところだ。
 「ユングも量子論も、あれじゃおかしな方向に迷いこませるだけだぞ。証拠というかだな、証明されたちゃんとした論理じゃなきゃだめなんだ。さらにだな、ちゃんと話として腑に落ちるものじゃなきゃだめだ。」両肘を突っ張って両手をテーブルに押し付けた姿勢で、マスターは少しだけ顔をあげて注文を付けた。
 「偶然がどれくらい珍しいものか、はたまたそうじゃないか。そっちの線で考えてみたらどうかってこないだマスターも言ってたでしょ。そっちからの視点での答えをある筋から教えてもらったんですよ。そんなわけだから、ね、だめじゃないでしょ。」ドアに向かった朋樹は顔だけ横に向けて言った。
 
 『びぃ、くうる』から亜実の家まで車で十分弱の距離だ。スマホは念のため部屋に置いてきたので、連絡もせぬまま突然の訪問になる。チャイムを鳴らすと、亜実の母親がドアを開けてくれた。いっとき女優をやっていたくらいだから美しい母親だった。こじんまりとした鼻の形が亜実と一緒だ。しかし、亜実は最近食欲も元気も無くて仕事も辞めてしまってとても心配していると訴えながら眉を寄せた困り顔に変わってしまい、その美しさは険のある表情にかき消されてしまった。
 朋樹は亜実に大事な話があるから呼んでくれませんか、と母親に頼んだ。それから十五分ほどして玄関先に亜実はあらわれ、車に乗せてドライブをすることにした。もしも車内での会話で元気になれたら、そのときはドライブの最後に『びぃ、くうる』へ連れて行こうと朋樹は考えていた。
 「マスターからいろいろ聞いてたよ。偶然のこと。困ってたんだろ?俺にも相談して欲しかったね。」朋樹は運転しながらちらりと目だけを助手席に動かす。亜実は、ごめんなさい、とうつむきながら小さく一言だけ口にした。いや、そうじゃない、と朋樹は心の中で慌てた。亜実を責めるためにこうやって連れ出したのではない。
 「ごめん、そういう話じゃないんだった。亜実に起こっている偶然ってなんなのか、率直に言うから聞いていてくれないか。」
 そうして、朋樹は確率や統計の面から見えてくる偶然の話をした。パーカー姿の太った男に教えてもらったように、サイコロの目の出方を例にとり、大数の法則も時間をかけて説明した。そのうえで、袋小路に入ってしまいやすい道だとして、ユングの集団的無意識と量子論的意識の話をした。亜実は疲れた感じではあったけれど、うんうん、と朋樹の長い話に集中してくれたようだった。
 「意味のないものから意味を取り出しちゃいけないってところ、すごく身に沁みてわかるというか、そこで私は躓いたんだなってわかりました。」亜実はさっきよりもずいぶん穏やか表情になっていた。
 「どうだい、すっきりしたかな。」亜実の表情をちらりと見た朋樹は嬉しくなって微笑む。
 「ええ、かなり。でもやっぱり、しこりみたいなものが残るんですよね。理性ではわかることができても、気持ちのほうで偶然の連発に引っ張られてしまうところがあるような気がします。」亜実は落ち着いていたが、それは諦めのようでもあった。
 「そっか。そうだよなあ。論理は感情に勝てないっていうもんなあ。それに集団的無意識にしろ量子論的な意識観にしろ、それら自体は絶対に間違っているとは言い切れないものだとは思うんだ。それでも、理性では抗ってみることって大切だと思うよ。大数の法則からすれば、亜実に起こっている偶然の連発は収束する可能性はとても高い。つまり抵抗しているうちに過ぎ去ってしまってまた平穏はやってくるはずなんだから。集団的無意識だとかと今回の亜実に起きている偶然の頻発は実は別々のことのようにも見えるし、とりあえずそっちは留保しておいて、落ち着いてからまだ考えたければ考えるべきことなんじゃないだろうか。」朋樹の言葉は力強かった。朋樹自身、自分の言葉で亜実を包みこんであげたく思っていた。
 「そうですよね。ありがとうございます。今回の一連のことで、私って無力で孤独だなって感じてたんです。でも、朋樹さんやマスターがこんなに親身になってくれて、感謝してます。」前方に集中して運転中の朋樹のほうを向いて亜実は頭を下げた。目の端でその姿を見た朋樹は、「いいっていいって。」と照れながら、
 「亜実な、俺もマスターもお前が好きだよ。ちょっと調子が良すぎやしないかって思うときもあったけど、そういうのも誠実さの裏返しだったりするんだよな。おまけに愛嬌もあって真っすぐで、悪い人間じゃない。土門英三郎が自分の父親かもしれないっていうのだとか、いろいろ嘘をついただろ?あれだってマスターはわかってたんだけど、偶然を煙に巻くための手段だったんだな。必死だったんだもんな。もっと早く異変に気づいてやれなくて、ごめん。俺、お前が好きだよ。亜実、お前がきっちり立ち直るまで寄り添っていたいよ。だめかな?頼ってくれてまったく構わないんだ。むしろ、全面的に頼ってくれたほうが、亜実一人でふらふらしているより好ましいんだ。どうかな?」一気に言った。朋樹の頬がほんのり赤みがかっている。
 「私、そんな素晴らしい人間なんかじゃないですよ。悪いところはいっぱいあるし。私が朋樹さんに頼るなんてそんなのとんでもないことですよ。私、大丈夫ですから。」亜実は軽く手を振ってやんわりと拒んでみせる。
 「嘘つき。大丈夫なはずないじゃないか。『びぃ、くうる』だって辞めちゃって、なにが大丈夫なもんか。俺が嫌いだっていうんならしょうがないけど。」
 「嫌いじゃありません。」亜実は大仰に首を振る。
 「それなら、俺に頼りなよ。まずは今ついた嘘をきっかけに、存分に嘘を取り戻すんだ。な、亜実。嘘を取り戻せ。偶然なんかに窮屈にさせられてたまるもんか。」最後のほうは、左手で拳を作り、力を込めて言ってのけた。朋樹の気持ちは本気だ。亜実は、はい、と短く答えると、くぐもった声で小さく、嬉しい、と言って目をこすった。
 
 亜実は朋樹が好きだった。せっかくの好きだという気持ちをシンクロニシティに掻き乱されたくなくて、偶然の頻発が落ち着くまでと思い、その気持ちを隠し続け、ずっと偽っていた。それは偶然によって壊されたくない、一番の嘘だった。

 それからいくつかの信号を通りすぎ、二人を乗せた車は『びぃ、くうる』の駐車場に入っていった。店内ではマスターが皿を磨いていて、二人をみると一瞬驚いた表情になったが、二人のなごやかな雰囲気を見てとるとすぐに上機嫌になり、さっそく店内のスピーカーから、いつかのようにビル・エバンスの『From Left To Right』を流れさせたのだった。

【終】
 
参考文献
*『ニュートン2018年3月号「シュレーディンガーのネコ」』 ニュートンプレス
*『まじめなとんでもない世界』 奥建夫 海鳴社
*『たまたま』 レナード・ムロディナウ 田中三彦:訳 ダイヤモンド社
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