Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

一様な価値観が、人を排除する。

2014-12-04 23:34:01 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ、
為末大さんの『負けを生かす技術』から
ヒントを得ているのですが、
たとえば、僕が高校生くらいだった20年くらい前の、
僕の家庭や周囲の幸せへの価値観、
そしてもっと広げると日本全体の幸せへの価値観って、
大きく見れば、三つくらいしかなかったんじゃないかって思えるんです。

一つは、いい大学を出て、いい企業にはいって、
そこにしがみついてお金をたくさんもらうこと。

二つ目に、安定した国の仕事(公務員)について、
それなりのお金をもらって、高望みせずに安定した暮らしをすること。

三つ目に、自分の本当にやりたいことをみつけて、
それで稼いで暮らしていくこと。

大体は、この三つじゃないでしょうか。
ほか、この三つに近い価値観でそれにならったかたちのもの、
たとえば、三流大学をでても、出来る限りのいい会社にはいって、
出来る限り稼いでいく、というような種類。

単純にいえば、そこには「出来るだけ多くのお金を」
という志向しかないわけです。
それは、幸せというのは、お金の豊かさで、
不自由せずに食べていけることだ、とするような考え方である。
これはなにも大間違いではないですが、
そこには強迫観念めいたものがあったり、
この価値観から外れようものならば、嘲笑したり愚弄したり、
もっと言えば、そんな、道を外れた人など面倒も何もみてやらない、
「のたれ死んだって構うものか」というような姿勢があったと思います。
この最後のところなんかは、日本人の冷たさとも言われるところに
繋がるのですが、これって、ベースには食べられるか食べられないか
の瀬戸際で苦しんでいた時代の名残でもあるんじゃないでしょうか。
ただ当時との違いは、当時の「のたれ死んだって構うものか」
というセリフに、その話者の心の痛みを感じるのと違って、
現代ではそのセリフに傲慢さと残酷さが感じられるということです。
現代人は、昔の人のセリフのその形式にのみ、あぐらをかいているのです。

戦後、民主主義になっても生きずらいのには、
ひとつにこのような、人生に少ない選択肢を迫る、
お金を中心にしすぎる価値観が暗黙のうちに
幅を利かせてしまっていることがあげられると思います。
それで、僕はこう違う人生を生きたい、こんな道から外れたい、
そういう無意識に近い意識を持つ人の多さが世相にも反映して、
尾崎豊やMr.Childrenなどのようなミュージシャンを
生んだような気さえします。

社会的排除についても、ここまで言えば理解できるのではないでしょうか。
前にも書いたことがありますが、社会的排除の例としては

失業した→
親戚や友人に会うのが恥ずかしくなり一人でいることが多くなる→
頼れる人がいなくなる。

というのがまずあげられます。
そうやって、社会の一人一人とのつながりが希薄になり失われ、
ひとりぼっちになっていくのが社会的排除です。

どうして社会的に孤立して排除されてしまうのかといえば、
世の中の価値観が一様だからなんじゃないでしょうか。
幸せの形が、前述のように大きく三つしかない社会だから、
つまり、多様な幸せのかたちが無い、あるいは
多様な幸せの形を認められない社会だから、
社会的排除って起こるのでしょう。
多様な幸せの形があって、それぞれに認められる社会であれば、
チンピラだとかそういう類の人でなければ、
排除されないようにイメージできないでしょうか。
多様な人々の生き方を認めて、敬意を持てる社会、
それこそが成熟した社会なのだと思います。

それでですが、僕は最初に20年前くらいなら
こんな三つの価値観に支配されていた、
というように書き始めましたが、
では、今は違うのかと言えば、違うと思うのです。
物心ついてからずっとデフレ社会で生きてきた人たちが、
もう成人している時代です。
「デフレカルチャー」なんていう言葉があるようで、
詳しくは知らないのでそこに夢をみるということなのですが、
節約して、お金そのものを目的としないで、
そしてネットの日進月歩の発展を享受してきた人たちが
今の若者だと思いますが、
そういった人たちの価値観の形成に、
先にあげたお金を豊かさとしすぎる価値観が
説得力を弱めてしまっているというのがあると思うのです。
そういった若者は自然に、価値観を多様に形成しているのではないかと、
僕は楽観的に推測するのですが、
そういったフィールドワークの本かなにかがあれば読みたいですね。

だけれども、政治家だとか、既得権益にしがみつく人たちは
それをよしとはしないでしょう。国力が落ちるだとか、
自分の権力が弱まるだとか、あるからです。
そんなに無理をしてまで世界のリーダーになりたいでしょうか。
それは見栄なのではないかとさえ邪推してしまいます。

豊かさというものは、
ヒエラルキーのピラミッドの頂点に立つことだけなのか、
今一度、問い直していく必要があるように思います。
競争のための競争ではなく、人の幸せのための競争であるべきで、
そうやって発展するのならば、
誰も騙されているようには感じないでしょう。

デフレによって、社会的排除が軽減されるようになるならば、
もっとデフレは続いてやればいい。
多くの人がハッと気づくまで、デフレは続けばいいのかもしれない。
多様な価値観を認め合い敬意を持ちあえる社会こそ、
到来が待たれる社会なのだと思います。

と、締めくくりはちょっと過激になりましたね。

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