Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『新美南吉童話集』

2014-11-12 15:54:10 | 読書。
読書。
『新美南吉童話集』 新美南吉
を読んだ。

小学校の教科書で「ごんぎつね」を読んだのが、
新美南吉作品に触れた、最初で最後の体験だったかなと
思っていたのですけれども、
いつどこで読んだのかわかりませんが、
「手袋を買いに」という、これも狐が主人公の話も覚えていて、
意外に自分の子ども時代の情操ってものに影響は受けているの
かもしれないな、と思いなおすことになりました。

いわゆる童話なんですが、
大人でもふつうに読めてしまうのは、
まずその、著者の感性の清いところにあります。
子ども時分の、まだ大人のように理性の厚い鎧で身が守られていない
瑞々しい、感じやすいこころで感じられる、
こころのうちの変容や、こころの中で生成されるウソじゃない感情は、
童話の中で簡単な言葉で表現されていますが、
ほとんどそういった本当のこころのあり様とブレがないように
感じられました。

そして、次に、作品の根底にある
新美南吉の思想が深かったことにあります。
悲しみといったものをとくによく表現しています、
それも、物悲しいというか、うら寂しいというか、
そういったものまでを含む、幾種類もの悲しみを
いろいろな作品で一つずつ
(二つ以上ある作品もあったかも)扱っている。
人は、孤独を通してそこから自己犠牲と報いを求めない愛の
築設につとめなければならない、というような
南吉の思想があって、そこには確信があったでしょう、
だからこそ、しっかりと子どものこころを導くような、
そして大人の心にも修正を欲する気持ちをおこさせるような
効果があるのだと思います。

南吉は30歳目前にして亡くなってしまった人です。
それでこれだけの作品を残しました。
若くして深い思想を持って、作品を作るという行動にでていたこと、
それは、昔の人の迷いの無さ(情報量の少なさも関係しているとは思いますが)、
密度の濃い生き方が想像されます。
こういう人の作品に触れたりすると、昔の人のほうが、
頭を使う時間が多かったんじゃないかっていつも思うところです。

最後に、ひとつ、彼の作風なんかを忘れ去ってしまっている
このブログ記事を読んでくれた人のこころに風を吹かせるべく、
引用を載せます。

____

或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。
しかし或る悲しみは泣くことができません。
泣いたって、どうしたって消すことはできないのです。

「小さい太郎の悲しみ」より
____

こういう種類の悲しみを、悲しみなんだととらえること、
あるいは見つめることを、現代人はしなくなりがち
だったりしないでしょうか。
こういった感情をうっちゃっておかないことで、
建設的にこころは広がったり深くなったりすると思います。


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