大阪府唯一の村、千早赤坂村にある楠木正成一族の氏神、建水分(たけみくまり)神社に行ってきました。
この神社は、延喜式神名帳(927年)に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されていて、元の鎮座地は現在地より約100m北の水越川のほとりにあったようです。
境内の絵馬社
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇に応じた楠木正成が、すぐ近くにある下赤坂城で挙兵、この地が鎌倉幕府軍の攻撃を受けた際に兵火にかかり一時荒廃していたようです。
左が建水分神社、右は南木神社の鳥居
しかし、建武の中興がなった1334年、後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し、1337年正一位の神階を授けられています。
鳥居と狛犬
境内の左にある大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額は、楠木正行(?~1348年)が奉納した額を1705年に金銅製にして修復したものです。
大鳥居から石段を上がった場所にある拝殿からの参拝となりますが、その裏にある本殿は 中央に一間社の春日造、左殿と右殿に二間社の流造を配す全国唯一の様式で重要文化財となっています。
しかし、この本殿は、拝殿があるために残念ながらその一部が僅かに見えるだけでした。
参道を上がった正面にあるのは、祭神、楠木正成の楠を分解した南木神社で、由緒によれば、1336年に正成戦死の報を聞いた後醍醐天皇が正成の像を刻み、祀った神社です。
1697年、この地の領主石川総茂が本殿裏に祀られていた社殿を現社地へ再興、この社殿は1934年の室戸台風で崩壊しましたが、1940年に再度造営され、2004年にも修復されています。
なお建水分神社は、金剛山の総鎮守だったために、旧海軍の戦艦「金剛」(1913年完成)の艦内に建水分神が勧請され、就航後大阪港へ寄港の際には艦長以下、乗組員が千早赤坂村まで武運長久の参拝にきていたようです。
拝殿の中
1944年11月、戦艦金剛(3万2千トン)は、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、台湾の基隆沖で島崎利雄艦長(海兵44期48歳、死後中将)以下乗組員1300名と沈没していますが、完成から31年間に何度の参拝があったのでしょうか。
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