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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1348年、足利軍の吉野攻撃について太平記(巻26)は、「笠鳥居、銅鳥居、仁王門、北野天神社、蔵王堂、72間の廻廊、38箇所の行化神などが灰塵となった」と記しているので、鎌倉幕府の攻撃から15年を経た吉野には既に多くの堂宇が再建されていたようです。

蔵王堂の南にある稲荷社



若い後村上天皇(1328~1368年)は、この兵火を避けて14キロ南西にある賀名生(奈良県五條市)に移って難を逃れますが、そこまでの幕府軍の追及は無かったようです。

蔵王堂



吉野にある堂々とした仁王門(国宝)もその兵火で焼失していますが、軒先に吊るしていた風鐸の銘から1456年に再興されたことが判っています。

仁王門



仁王門の背後にある金峰山寺の本堂蔵王堂(国宝)は、足利軍の攻撃から244年を経た1592年に豊臣秀吉(1537~1598年)の寄進で再興されたことが扉金具の銘から判明しているようです。



現在の蔵王堂は、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートルもあり、現存する木造古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模を誇っています。



蔵王堂がある丘の敷地から西側にある急な階段を下りると吉野朝宮址という石碑が建っていて、そこに南朝の政庁が(1336~1348年の間)置かれていたようです。



敷地の最も奥には、後醍醐天皇の行宮があったとされ、今は三重塔(南朝妙法殿)が建っていました。



南朝が賀名生に移って以降、足利幕府に内訌が発生したため南朝は立ち直り、1352年に一時京を奪還、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王を拉致して帰還しています。



1354年、京都奪還を狙う後村上天皇は、賀名生から京に近い河内金剛寺へ移り、その後住吉大社の正印殿を行宮(住吉行宮)とし、北朝の上皇と皇太子もそこに移されています。

住吉大社に程近い住吉行宮跡



後村上天皇は、さらに京都に近い住吉に行宮を移しますが、1368年に住吉で崩御され、南朝第3代の長慶天皇が即位しています。


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