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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



近鉄郡山駅で降りて、線路沿いを北に10分くらい歩くと、近鉄の線路を西に横断する踏み切りがあり、その突き当たりが鉄門跡の石垣である。

江戸期の郡山城の地図、(ロ)の場所が鉄門



鉄門から北の方角を見ると櫓が見え、盆梅展の会場案内もそちらを示していたので、堀を左に見ながら北に向かって歩くことにした。

堀の向こうは毘沙門郭という本丸に続く重要な城郭で、高い石垣が築かれているが、石垣が直線でなく中央部分が掘に少し張り出しているのが珍しい。



北の突き当たりの石垣の上には追手東隅櫓、その西側に梅林門櫓、その向かい側の石垣の上には追手向櫓があり江戸期の城の雰囲気を良く出している。



これらの櫓と門は1983年に再建されたようで、梅林門の両側には未だつぼみの紅白の盆梅が置いてあった。



梅林門を入ったさらに北側の常盤郭には、1908年に奈良県最初の県立図書館として奈良公園内に建てられ、1968年に郡山城内に移築された大和郡山市民会館があったが、この建物は江戸期には無かったので少し奇妙な存在であった。



梅林門の2階にあたる櫓の入り口が郡山城盆梅展の入り口で、入場料を払って櫓の中に入ると、長浜の盆梅に負けないくらい古い株や、巨大なものが多数展示されている。



しかし時期が早いので、いずれもつぼみの状態で、開花した梅は少ししかなかったのが残念である。



盆梅展の会場は梅林門櫓から追手向櫓まで続き、盆梅の質量共に長浜の盆梅を上回っているかも知れない。

盆梅は櫓の外にも展示されている



盆梅展の会場から毘沙門郭まで少し歩くと、旧柳沢伯爵家の迎賓館として建てられた柳沢文庫がある。



建物の正確な建築年代は不明だが、大広間などは1906年頃とされ、車寄せと玄関は1923年の関東大震災後に港区芝の柳沢本邸の一部を運んで1928年に完成、当主の帰郷の際に使われていたという。



建物は1960年になってから、当時の柳沢家当主であった柳沢保承(やすつぐ)氏から財団法人柳沢文庫保存会に寄贈されている。

追手向櫓と梅林門



柳沢文庫の中は大広間(和室)を使った展示室と、図書室(洋室)があり、展示室には江戸期の郡山藩に関連する資料が展示されていたが、柳沢家が版籍奉還した明治になってからの建物なので江戸期の大名の居宅のような豪華な建築ではなかった。


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顕如(1543~1592年)の時代に本願寺教団は、管領や公家との縁戚関係を深め石山本願寺を拠点として教団の最盛期を迎えている。



石山(大坂)本願寺の境内には御影堂、阿弥陀堂を中心に6町、2千軒という町屋が並んでいたというので、恐らく現在の大阪城公園の敷地はすべて本願寺の境内であったらしい。

大手門の北ににある千貫櫓



1570年(永禄13年)石山本願寺は、天下統一を目指す織田信長の退去命令に反旗を翻して11年にも及ぶ石山合戦が始まっている。

大手門内の見付石108トンと2番石85トン(巨石第4、5位)



1580年(天正8年)に和議が整い、本願寺は鷺の森、貝塚に本拠を移したが、1585年になって豊臣秀吉と和解し、秀吉が建設した大坂天満の本願寺に転居している。

桜門内の蛸石130トン(巨石第1位)



さらに1591年に秀吉によって京都の七条堀川の地に寺地を与えられ、山科本願寺以来59年ぶりに京都に本願寺教団を再興したのである。

京橋口の肥後石120トン(巨石第2位)



しかし、1592年に顕如が没すると、石山本願寺退去時の信長への対応をめぐって顕如と意見の食い違いがあった長男の教如に代わり、三男の准如が十二世門主に立てられることになった。

大手門の内側にある多門櫓



教如は准如に門主を譲ったあと、大阪道修町にあった大谷本願寺に入ったと言われ、その大谷本願寺という刻銘のある1596年鋳造された梵鐘が今も御堂筋に面した南御堂(東本願寺の難波別院)に残されている。



教団内部の対立の中、1602年、徳川家康による寺地の寄進がなされ、長男教如と彼を支持する勢力は徳川家の後援を得て独立して東本願寺を建立、本願寺は、准如の本願寺(西本願寺)と教如の東本願寺とに分裂し現在に至っている。

太鼓櫓跡の石垣



石山(大坂)本願寺は、織田信長との石山合戦に破れたあと破壊され、秀吉の大坂城築城で埋められ、徳川氏の大坂城でさらに大規模な土木工事が施工されているのでその遺構は未だに発見されていない。

従って石山本願寺推定地の石碑は、蓮如の石碑の場所から300mくらい西にある太鼓櫓跡の近くにも建てられている。



蓮如上人碑と、南無阿弥陀と彫られた円柱の石碑の西には内堀があり、堀に沿ったスロープ状の道を北に降りると大坂城の梅林である。



1774年(昭和49年)に開園されたこの梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付したことがきっかけで、今では約1,7ヘクタールの広さに1200本の梅が植えられ、大阪市民に親しまれている。



今年は暖冬のせいか2月の第二週にもかかわらず、梅は3分咲きで、結構楽しむことができた。



梅園の東側にある東外堀の上に出ると、公園の管理員が石垣によじ登って、雑草の清掃をしていたが、あと2週間くらいすれば梅の花も見頃となるのではなかろうか。




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大坂城の玉造口から入って本丸の入り口、桜門に向かってしばらく歩くと、蓮如上人袈裟懸の松という碑がある。



実際に今でも枯れた松の根が残っていて、江戸期を通じて本願寺の聖なる場所とされていたようである。



蓮如は、本願寺7世門主「存如」の子として1415年に生まれ、1457年存如の逝去に伴って本願寺8世に就任しているが、就任前に兄弟との激しい相続争いがあったようである。

大手門



兄弟による相続争いは、蓮如相続から135年後にも再発し、その際に本願寺が東西に分裂することとなる。

蓮如は生涯5人の妻を娶り、13男、14女をもうけているので、公私ともにかなりエネルギッシュな人物であったようである。

京橋口



70歳を過ぎてから5番目の妻との間に7人の子供を作っていて、最後に生まれた実従という13男は、驚くことに蓮如が82歳のときの子供であるという。

蓮如は、1496年(明応5年)81歳で大坂坊舎を建立し1499年まで、大坂に居住したという記録があり、そこに大坂の地名が歴史にはじめて登場するのである。

極楽橋



蓮如上人袈裟懸の松の西側には、1929年(昭和4年)5月に建立された石山本願寺の由緒が書かれた蓮如上人碑と、南無阿弥陀仏と彫られた円柱の石碑が建っている。



1929年の10月には、世界大恐慌の引き金となったニューヨーク株式市場での株の大暴落がおきているが、石碑はその直前に建立されたものである。



1532年(天文元年)本願寺第10代門主の証如上人は、六角定頼によって焼かれた京都山科本願寺を退去してこの地に移り、ここに本願寺教団の本拠地となる石山(大坂)本願寺が誕生している。

青屋門



証如(1516~1554年)は、父親が早世したために9代門主であった祖父「実如」の跡を継いで第10代門主になったが、当時10歳と若かったために母方の祖父、「蓮淳」(1464~1550)の後見を受けている。

乾櫓と外堀西の石垣



蓮如の6男であった「蓮淳」は、父親の「蓮如」と良く似たエネルギッシュな人物であったようで、孫の証如が33才となるまで本願寺を切り盛りし、父親をしのぐ85歳という長寿を全うしている。

蓮淳は、各地の戦国大名に対抗して教団の統率力を高め、1532年には、管領細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、細川家中における随一の勢力にまでなった三好元長(三好長慶の父)を敗死に追いやっている。

外堀の西側



六角定頼によって山科本願寺が焼かれ、京都を追われたのも管領細川晴元が蓮淳の指導する教団の力を恐れたことが原因らしい。

6番櫓



1554年、証如は37歳という若さで亡くなり、11歳の顕如が11世門主を継いでいる。


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1709年、綱吉が63歳で亡くなり、その3年後には牧野成貞も死亡すると、幕府は三河吉田藩主であった貞明の孫、幼少の藩主牧野成央に対して、石高が同じ8万石の日向延岡藩に移封を命じている。

大坂城天守閣 西面



その牧野成央から延岡藩を相続した貞明の3男牧野貞通は、奏者番・寺社奉行・京都所司代を歴任して、1740年に常陸 笠間藩に移封され笠間牧野氏の初代となっている。

辺境の日向延岡から、江戸に比較的近い笠間藩に移封を成功させた貞通は、3人の子息(忠敬、忠利、忠寛)を、牧野宗家の越後長岡藩主に養子として出している。

外堀北西角の重要文化財の乾櫓



この当時、血縁としてはかなり遠くなっていた長岡藩牧野家に嫡子を養子に出したため笠間牧野家は、三河以来の名家牧野家の支藩として広く認められることになるのである。

しかし、長岡家と笠間家との実力が伯仲して競争相手になっていたため、長岡藩と、笠間藩の不仲を伝える逸話や文献が多く残っているという。

外堀南側



1868年1月3日から6日に起こった鳥羽・伏見の戦いの直後の8日夜、慶喜は僅かな側近と老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に夜陰にまぎれて密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却している。

恐らくこのときに幕府重要幹部であった大阪城代牧野貞明も同行したのであろう。

焼失前の大坂城



城代監察と官軍代表尾張藩への城明け渡しの儀式が予定されていたが、翌1月9日に城内から不審火が上がり、大坂城は2日間に渡る火災で焼失している。

玉造口への通路



この火災の時に大阪城内では多くの人が焼死したようで、半年後に掘り出された骨を埋葬して城中焼亡埋骨墳が大坂城玉造口南に建立されている。

場所は下の地図の「現在地」表示のすぐ下



板垣退助、伊地知正治らが率いる新政府軍は会津へ向かい、4月から開始された白河口の戦いでは白河城をめぐる攻防戦が3か月余りも続いている。



7月には新政府軍と長岡藩が交戦、7月末には長岡城が陥落し、負傷した河井継之助は会津へ敗走したが、最後の大阪城代を出していた笠間藩はちゃっかり官軍側についている。

牧野貞明が半年前まで城代であった大阪城には、慶応4年(1868年)7月と記された城中焼亡埋骨墳があり、朝敵となった牧野宗家の長岡城陥落の時期に建立されていた。

墓石の裏には年月の下に薩州、長州と大書してある



同時期の慶応4年7月には、江戸を東京とする旨の詔書がだされ、この時より江戸は東京となったのである。



明治の元勲大久保利通の次男、牧野伸顕(文部、外務、宮内、内大臣を歴任後伯爵、長女雪子は吉田茂と結婚)は、牧野貞明の常陸笠間藩牧野家を継承している。

吉田茂と雪子の3女和子は、麻生セメントの麻生太賀吉と結婚、その長男が麻生太郎現外務大臣である。


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大阪夏の陣で落城した大坂城は、初め家康の外孫松平忠明に与えられるが、1619年に幕府直轄領(天領)に編入され、翌1620年から徳川秀忠によって再建が始められ、1629年に完成している。

現在の大阪城天守閣



10年がかりで再建された徳川氏の大坂城は、豊臣氏の大坂城の石垣と堀を徹底して破壊して、全体に数メートルの盛り土をした上、さらに高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれてしまったという。



幕府直轄の徳川大坂城の城主は、徳川将軍家の歴代将軍自身であり、大身の譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、小身の譜代大名から選ばれる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当したらしい。

外堀



幕末の1868年(慶応4年)1月に起こった鳥羽伏見の戦いの時の大阪城代(最後の城代)は、8万石の笠間藩主(茨城県笠間市)牧野貞明である。

重要文化財の1番櫓



牧野貞明の先祖となる牧野康成は、徳川家康に先祖代々仕えた譜代の家臣ではなく、家康が桶狭間の合戦後に、三河を平定して行く過程で征服された家臣であった。

家康の家臣となった牧野康成は、多くの合戦に参加し家康が関東に入国した後、上野国勢多郡大胡で2万石の大名になっている。

大阪城の搦手となる玉造口へのスロープ



関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して、真田昌幸が守る信濃上田城攻めに参加し、秀忠軍が関が原に間に合わなかった原因を作ったとして蟄居を命じられているが、どうやら秀忠遅参の責任を自ら被ったようである。

そのせいか牧野康成の嫡子牧野忠成が、大坂夏の陣で戦果を挙げたとして2万石から一挙に越後国長岡藩7万4千石を与えられている。

玉造門



宗家としての牧野家は、幕末まで長岡を領し、戊辰戦争時の家老であった河井継之助の活躍は、司馬遼太郎の小説にも書かれて有名である。

秀忠は、家康の死後に牧野康成の庶子であった牧野成儀も2千石の旗本に取り立てているので、関が原遅参の罪を被った牧野康成は、秀忠から相当に高く評価されていたようである。

玉造口の解説



笠間藩の初代、牧野成貞(1634~1712年)は、秀忠から旗本に登用された牧野成儀の庶子、つまり庶子家の庶子であった。

3代将軍徳川家光の4男、綱吉(1646~1709年)が部屋住みの時代、牧野成貞が、旗本の本家から分家して、8歳年下の綱吉に200俵の側衆として仕えたのが旗本の庶子であった牧野家発展の起源となっている。

玉造口の内側



主人として仕えた綱吉が、館林藩主(25万石)になり、1680年には34歳で5代将軍となるに至って、家老職に就いていた42歳の牧野成貞は出世街道を驀進することになる。

内堀を渡る本丸桜門へのスロープ(南面)



ちなみに後に綱吉の側用人となる柳沢吉保(1658~1714年)は、館林藩主綱吉の小姓からスタートし、綱吉が将軍職に就いたときには弱冠22歳であった。

牧野成貞は、館林藩家老(3千石)、将軍側衆(1万1千石)、将軍側用人(7万3千石)、隠居後には越後の宗家である牧野家(7万4千石)を凌ぐ8万石にまで出世している。

内堀東面の高い石垣



一方、牧野成貞の父、牧野成儀の嫡男が相続した旗本本家の牧野家は、後に断絶しているので人生はわからないものである。


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本町のすぐ南、船場センタービルのある中央大通りは228、さらに南の伊藤忠ビルは234という。



御堂筋を暫く歩いていない人はご存じないであろうが、南御堂の北側、距離標249の場所にギリシャ建築風の派手なビルがあっという間にできていた。



長堀通りは、305という表示があったので、ここまでくると梅田と難波間の4分の3を歩いたことになる。



朝、御堂筋と長堀通り交差点を歩いてみると、太陽の光を反射して朱色に光る新宮晋(すすむ)氏の巨大な立体彫刻「星の旅人」が設置されている。



今年70歳となる豊中市生まれの新宮氏は、1960年東京芸術大学絵画科を卒業し同年、ローマ国立美術学校に留学している。

留学中に絵画から立体作品へと関心を移し、動く立体造形を手がけはじめ、1966年に帰国後、風や水を動力にした作品を次々に発表している。



その後「風のアーティスト」として注目を集め、主な作品に関西国際空港の国際線出発ロビーの「はてしない空」などがある。



距離標の354は、御堂筋に面した古刹である三津寺の前、399は村野藤吾氏がデザインした歌舞伎座の前となる。



距離標の最終ポイントは、難波西口交差点にある西415(阪急百貨店前から4150m)の地点で、ちょうど高島屋難波店、南海難波駅ビルの前にあたる。



今年から御堂筋に面したビルに職場のある人は、自社の前にある外灯に付けられた距離標の数字を記憶しておくと便利である。

但し、外灯の近くに放置された自転車のために、残念ながら折角の距離標が良く見えない場所がかなりある。



国道事務所、大阪市、警察は御堂筋の景観を害し、歩道を狭める放置自転車と、歩行者すれすれに猛スピードで歩道を走り抜ける自転車を何とかして欲しいものである。

御堂筋の歩道は、駐輪と自転車の走行を24時間禁止し、違反者は駐車監視員が厳しく取り締まるようにすれば大幅に改善されると思う。



大阪が世界に誇るメインストリート御堂筋の歩行環境は、早急に整備して貰いたいものである。


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今年1月9日、近畿地方整備局大阪国道事務所は、御堂筋の両側にある外灯のポールに距離標をつけたと発表している。

大丸前の距離標



大阪国道事務所HPの中の距離標マップによれば、御堂筋の中心部分が、阪急百貨店前から離れてゆく距離を10m単位で表しているらしい。

さっそく昼休みに梅田まで出かけてみたが、梅田から梅新交差点の北側には距離標が見当たらない。

梅田新道交差点



仕方なく梅田新道交差点を渡ると、交差点南側の外灯ポールにちゃんと48(阪急百貨店前から480m)という数字の入った距離標がつけられているではないか。



後でHPを良く調べてみると、距離標は梅新交差点南からスタートしていると書いてあったので、そこから北側をいくら探しても無いわけである。

しかし梅田から梅新交差点までの間にも外灯はあるので、48以下の数字の入った距離標もつけて貰いたいものである。

日銀大阪支店前は96



距離標は、御堂筋の西側と東側の両方にあるが、西側が159箇所と東側よりも15個所多く表示されている。

梅新交差点の距離標48と最終の415の間は3670mあるので、西側の表示個所数159で割れば平均23m毎に距離標表示があることになる。



梅田から約940m、距離標94は大阪市庁舎前でこの場所は、梅田を経由して通勤する市役所の職員が、程よいウオーキングを楽しむことができる絶好のポジションにあった。

かなり細かに設置された距離標を使えば、日本生命本社は東125、西160は大阪ガス本社というように住所代わりに使えそうである。



又、大阪ガス本社が西160であることを知っていれば、御堂筋の現在地にある外灯の距離標の数字との差し引きで、大阪ガスまでの凡その歩行距離が判るようになっている。

距離標の数字の意味を知っておくと歩数計を使って、かなりの精度で自分の歩幅を知ることができるので、ウオーキングには非常に便利である。



さっそく歩数と距離標から私の歩幅を算出してみたら、1歩が72センチということが判った。



難波までの距離の半分202の距離標は、本町3丁目交差点近くにあるので本町通りは、御堂筋の南北をほぼ同じ距離で半分に区切っていることになる。


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原題のThe Pursuit of Happynessの「ハピネス」は正式な綴りのHappinessではないが、その理由は映画の中に出てくる。



ホームレスから億万長者となった実在の人物、クリス・ガードナーの半生をウィル・スミス(38歳)が熱演している。



実際に映画の中では、ウィル・スミスが必死になって走るシーンが多用され、役者もあれだけ走らされると大変であろう。

チケットはインターネットで買って入り口の自動券売機VITで発券



妻に逃げられた貧しい医療機器のセールスマン、クリス・ガードナーが、家賃の払えないアパートやモーテルから追い出され、親子のホームレスとなって、無給の証券会社社員研修コースに6ヶ月間通うというストーリーである。

VITは空いているのに窓口には長い行列



ウィル・スミスの実の息子、ジェイデン・スミスが映画の中でも息子役を演じているので、父子二人の演技は自然で無理が無く、作品にリアリティと深みを与えている。



ジェイデン・スミスはウィル・スミスと前妻との間の子であるが、二人が言葉で遊ぶシーンでは、アドリブでやっているような、ほのぼのとしたところが実に良かった。

監督は、イタリア人のガブリエレ・ムッチーノで、最初から最後まで父子愛のドラマとして描き上げている。

好演しているウイルスミスの実の息子



映画は、クリス・ガードナーが20名の研修生の中から、たった1人の正式採用社員に見事選ばれた段階で終わるのであるが、父子が貧しい生活を送るシーンが多く、何故彼が選ばれたのかがちょっと判りにくい。

又、証券会社の正社員に選ばれた後、億万長者になるまでの生活が少しも描かれていないのも物足らなかった。



映画の帰りに大丸心斎橋店まで歩き、地下2階のスイーツの売り場を物色して、ジェラールミュロのロールケーキを買って帰った。

この店の一番人気はクーフリボールというケーキで、チョコでコーティングされた表面に大理石のような模様が入った美しいケーキである。



オーナーのジェラール・ミュロ氏(53歳)は、1976年23歳の若さでパリの店をオープンさせ、フランスで最優秀パティシエ賞を受賞するなど、パリの菓子職人の中の権威者であるという。

看板のロゴ



しかし、ジェラール・ミュロ氏はフランスよりも日本での店舗展開に熱心なようで、パリに2店舗しかないのに日本には既に7店舗もあるという。

クーフリボールの断面



ロールケーキは、カステラ生地がしっとりフワフワ、カットフルーツの酸味が程よく利いた甘すぎない生クリームが良かった。



しかし、前回高島屋で買った、グラマシーニューヨークの「栗のロールケーキの」方が少し上であったように思う。


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明石城は徳川家康の長男、徳川信康の娘である登久姫と小笠原秀政との間にできた次男、小笠原忠真(家康の外孫)が1619年に築城した城である。

城の正門入り口から見た坤(ひつじさる)櫓



1615年、大阪夏の陣で小笠原秀政と長男小笠原忠脩が戦死したために、小笠原の家督は次男小笠原忠真が継ぐことになり、父と兄の戦功によって信州松本8万石から10万石に加増されて1617年に明石に移ってきている。

小笠原忠真は、当初明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城したが、将軍徳川秀忠から10万石の譜代大名としてふさわしい城郭を建設するようとの築城命令があったらしい。

明石城の二の丸への石段



築城に当たって坤(ひつじさる)櫓は伏見城、巽(たつみ)櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられていて着工から3年後の1619年に完成したという。

明石城天守台から見た坤(ひつじさる)櫓



このとき天守閣は、台石まで積まれたが、譜代とはいえ幕府に遠慮したせいか建てられなかったようである。

城主の小笠原忠真に請われた剣豪宮本武蔵が、明石城の南側一帯の沼地を埋め立て都市計画をしたといわれており、その場所は現在明石市の中心地となっている。

本丸と二の丸との間にある石垣(門の跡か)



明石城築城から13年後の1632年、小笠原忠真は豊前国小倉に転封となり、小笠原氏は小倉藩15万石の大名として、明治維新までの235年間、10代に渡って連綿と続いたのである。

小笠原氏の後、1633年松平(戸田)康直が入城、その後1639年大久保季任、1649年松平(藤井)忠国、1679年本多政利と譜代大名の居城となっている。

本丸と二の丸との谷を渡る狭い通路



1682年、本多氏に代わって越前大野から徳川親藩の松平直明が6万石で入城、以後明治維新まで松平氏の居城となっている。

松平直明の父親である松平直良は、徳川家康の次男、結城秀康の6男であったので、明石城主松平直明は徳川家康のひ孫に当たることになる。

二の丸庭園



明石城の櫓は解体した城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く1739年には大修築が行われている。

明石松平家は、1840年に将軍徳川家斉の26男!!斉宣を養子として迎えたお陰で2万石加増されて8万石となっている。

坤(ひつじさる)櫓と城壁



11代将軍の徳川家斉は、40人以上の妻妾を持ち、男子28人・女子27人の子をもうけ、息子たちは諸国の大名に養子に出されている。

これら53人の子供たちの養育費や、養子に出す時に付ける養子先への加増や持参金などで、逼迫していた幕府の財政は更に圧迫され、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなったという。

明石城東口



徳川家の滅亡した原因は、11代将軍が精力絶倫であったせいという説があるくらいである。

徳川親藩の明石藩は、鳥羽伏見の戦いで、幕府方として出兵したせいで、明治になってすぐの1874年に廃城となり、1881年艮(うしとら)櫓が、1901年には北西の乾(いぬい)櫓が無残にも解体されている。

東の丸から見た明石市内



明治初期まであった2つの櫓の写真は、探せばどこかに現存していると思われるので、それを参考にして是非再建して貰いたいものである。


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明石城の高い石垣と重要文化財の2つの櫓は、阪神大震災で相当な被害を受けたので、直後から修復作業が開始され、1999年になってようやく完了したという。

巽櫓



その際に巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓を繋ぐ塀が復元されたので、今では江戸期の築城当時のような白亜の城壁と美しい櫓を見ることができるようになっている。

坤櫓



坤櫓の北側には、本丸の敷地から5~6m高くなった1619年に築造されたという天守台の石垣があったので、そこに上ってみた。

天守台の上には、30m四方くらいの広場があったが、後で調べてみると明石の歴代城主は、幕府に遠慮して天守閣を築造しなかったらしい。



道理で、本丸から天守台に上る石段が雑に造られていて上り難かった訳である。



天守台に明石城のシンボルとなる天守閣を再建して欲しい、という要望もあるかもしれないが、天守閣はもともと存在しなかったのでこれからも築造されることは無いのである。

387年前からある天守台の敷地



高台となっている明石城の本丸の敷地は、まばらに樹木が植えられた花木園となっているが、もともと敷地の4隅に4つの櫓があったという。

明石駅を向いた南側の巽櫓と坤櫓は重要文化財として現存しているが、北側の艮(うしとら)櫓と乾(いぬい)櫓は残念ながら失われている。



その乾櫓のあった場所から石垣沿いに下の稲荷曲輪に降りるスロープが残っていたが、江戸期の雰囲気を良く残している場所であった。



本丸敷地の建っていた説明看板によれば、艮櫓は明治初期の1881年に学校建築用の資材として再利用するために解体されてしまったらしい。

江戸時代の明石城を蘇らせるために、この巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の再建を是非果たしてもらいたいものである。



本丸から東側となり二の丸に戻り、さらに東の丸の端から南東を見れば、明石海峡大橋の塔が良く見える。

二の丸の北側にある石垣



東の丸の出口となる東口から、城外に出ると高台に明石文化博物館があったので入場料500円を払って中に入ってみた。



博物館には、残念ながら明石城にちなむ資料が乏しかったが、昭和30年代の庶民生活の資料展示が充実していた。



しかし、入場料を払ってまで見る価値は無いと思ったのは私だけであろうか。



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JR明石駅の駅ホームから北側を見ると間近に明石城が見えるので、いつか尋ねてみたいと思っていたが、先日やっと時間が取れたので行ってきた。

明石駅の北側を通る道の向こう側は、すぐ明石城の堀となっていて、対岸の石垣で囲まれた城跡の敷地は兵庫県立明石公園となっている。



県立明石公園の敷地面積は、55万㎡にも及ぶので、江戸期の城郭面積がほぼ保存されているようである。



先日訪問した旧高松城(元は66万㎡もあったという)の玉藻公園の現在敷地面積は、8万㎡しかないので、その7倍もある広大な公園であった。



南から掘を渡って入る明石公園の入り口には、明石市出身というマルハ(旧大洋漁業)の創業者中部幾次郎氏の銅像が建っていた。



以前城門があったと思われるクランク状の石垣を曲がると広場があり、正面の高い石垣の上に白亜の巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓が聳え建っていた。



公園の東側には、明石城主の小笠原氏の命によって宮本武蔵が造ったとされる「武蔵の庭園」が復元されていたが、入り口から見える庭だけを写真に撮って本丸を目指すことにした。



この「武蔵の庭園」は、現在陸上競技場となっている明石城西側にあった城主遊興のための庭園「樹木屋敷」が復元のモデルになっているという。

石垣の上、櫓(やぐら)のある高台に至る石段を上ると、江戸初期に築かれた石垣のカーブと石段の途中から見た白い漆喰塗りの巽櫓が青空に映えて美しい。



石段を上り詰めた場所が二の丸で、明石城は自然の丘をうまく使い、無数の石垣で補強して築城された城で、石垣で囲まれた城郭部分の面積は4ヘクタールもあるという。



二の丸から橋のようになった狭い通路を通り、谷を挟んだ西の丘にある本丸に渡ると、1957年に重要文化財に指定された巽(たつみ)櫓がある。



その巽櫓と坤(ひつじさる)櫓との間には展望台があり、明石市街地と明石海峡大橋の塔、さらに淡路島をも見晴らすことができるので、江戸期の城主の気持ちを伺うことができる。

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中之島緑道西から8番目の作品は石田 眞利の石を素材とした「くもの椅子」



女性彫刻家の石田は1963年生まれ。多摩美術大学大学院彫刻科卒という、この作品のすぐそばにはホームレスの寝床となっているダンボールが散乱していて残念である。

9番目の作品は斉藤 均の「風標」で、十魚架と同じ中之島緑道の南側に設置されているので、写真を撮ろうとするといつも逆光状態となるのが難点である。



斉藤は1948年神戸生まれ京都在住、ステンレスを使った幾何学的な彫刻を次々と発表している。

10番目の作品は藤木 康成の「日だまりに遊ぶ」



藤木は1952年滋賀県生まれ、京都在住の二紀会所属の彫刻家である。

中之島緑道の彫刻は以上の10点であるが、御堂筋を渡って土佐堀川北側をさらに東に進むと大阪市役所の南側に出る。



市役所の南側公園には、大同生命本社ビルの前にも作品が設置されている本郷 新の力作「緑の賛歌」があった。

この作品は、石の架台の上にあるブロンズ像で、高さが4,3mもり、1973年に制作、設置されたものという。



「緑の賛歌」のさらに東に進むと、東洋陶磁器美術館の北に清水多嘉示の作品である関一市長像がある。

1923年に第7代大阪市長となった関市長は、幅6mの狭い道だった御堂筋を、1926年から11年かけて道幅44m、全長約4kmの大阪のメイン道路に作り直している。



又関一市長は、1935年室戸台風による災害復旧を陣頭指揮する最中、任期半ばで逝去したので、その功績を顕彰するために市民がこの銅像を寄付したらしい。

作者の清水は画家として出発したが、1923年渡仏、ブールデルに師事し、彫刻を学び、帰国後は彫刻家として活躍し、御堂筋の彫刻作品「みどりのリズム」の作者でもある。



中之島から北浜に出ようと、難波橋を渡ると、橋の入り口には阿吽のライオン像が設置されていた。



堺筋が土佐堀川と堂島川を渡るための難波橋は、1915年に架け替えられているが、当時の大阪市内を南北に結ぶメインストリートは御堂筋ではなく堺筋だったので、このライオンも大阪のメインストリートのシンボルとして設置されたのであろう。

難波橋



難波橋のライオン像は、大阪の彫刻家、天岡均一氏の作品で、1915年難波橋の開通時に制作されたものらしいので90年以上が経過している古い彫刻作品である。



北浜の大阪証券取引所の前に来ると若々しい姿の五代友厚像が聳え立っていたが、残念ながら作品の製作者名の表示は無かった。


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中之島緑道の彫刻はすべてが1989年に設置されたものなので、すでに18年が経過していることになるが、幸いにも目だった痛みは見られない。



中之島緑道を散歩していると、川の手すりにユリカモメが留まっており、人が近づいても逃げようとしないので、かなり人に馴れているようである。



ユリカモメは冬に日本にやってきて、春とともに大陸に渡って営巣する渡り鳥であるが、以前はあまり見かけなかったので中之島周辺の環境が改善してきたのかもしれない。

中之島緑道の彫刻作品の3番目は、堀 義幸の「空間の軌跡」である。



堀は1958年~名古屋市生まれ、1981年 名古屋造形芸術短期大学専攻科修了、現在 一宮女子短期大学専任講師、名古屋造形芸術大学特別講師という。

メビウスの輪のような形をした黒御影石を使った直径1,5mくらいある抽象作品で、こういう作品は御堂筋の彫刻では見ることができない。

4番目の作品は河合 隆三の「日溜」である。



河合は1935年大阪生まれ、東京芸術大学彫刻科を卒業後、彫刻家としての道を歩み、石像を中心とした作品を数多く創作、石の彫刻では代表的な作家で前・大阪芸術大学彫刻科教授。

大きさと材質共に、先に紹介した北田吉正の「花の天女」と良く似た作品であるが、こちらの作品のほうがざらついた仕上げとなっている。

5番目の作品は冨長 敦也の「広場-鳩のいる風景」



冨長は1961年大阪市生まれ、1986年金沢美術工芸大学大学院修了、作品のテーマである鳩が留まっていて、文字通り鳩のいる風景作品であった。

6番目の作品は天野 裕夫の「十魚架」で、作品が中之島緑道の南側に設置されていて、逆光状態となるのでカメラの撮影位置が難しい。



天野は1954年~岐阜県生まれ、多摩美術大学大学院彫刻科修了、ユニークな作品が多く1999年には第2回ユーモア陶彫展大賞を受賞している。

天野氏の作品には、スターウオーズに出てくる宇宙人キャラクターに良く似たものが多いのは何故であろう。

7番目の作品は増田 正和の「一対の座」



増田は1931~1992年 兵庫県生まれ、1955年、京都市立美術大学西洋画科を卒業し石を使った巨大な座布団の彫刻で有名である。

これら石やブロンズでできた彫刻作品は、18年くらいの年月では風化することなく、都市の住民にチョットした潤いを与えてくれる貴重な存在であると思うので大切にしたいものである。



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