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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪府島本町の史蹟桜井駅址には、1912年5月に建立された「楠公父子訣別之所」陸軍大将乃木希典謹書と書かれた石碑があり、乃木の几帳面な性格が筆跡に出ている。



乃木大将(1849~1912年)は、1912年9月、明治天皇大葬の日の夜に妻と一緒に自刃しているので、その4か月前に書かれたものであろう。

碑の裏側に書かれた漢文の由来書には、枢密院顧問官従2位勲1等男爵細川潤次郎とあったが、細川 (1834~1923年)は、幕末の土佐藩藩士・蘭学者で明治・大正時代の法学者・教育家である。



細川は、司法大輔、貴族院副議長を歴任、日本の近代法導入の功績で高く評価されている人物で、1870年には平民に苗字を許す規定を提案している。

3つ目の石碑は、最も巨大で「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」という明治天皇作の和歌を伯爵東郷平八郎(1848~1934年)が揮毫したものである。



筆の運びが自由奔放でかつ気品があり、当時80歳を越えていた東郷の高い精神性を窺うことができると思った。

石碑の裏には、頼山陽の桜井駅の漢詩が彫りこまれ、第四師団長 林 弥三吉とある。



林 弥三吉中将が第四師団長(大阪)に在任していたのは、1928~1930年(昭和3年~5年)であるが、現地の由緒書では昭和6年建造とあった。

東郷平八郎は1913年に天皇の軍務顧問である元帥に列されているので、終身「元帥海軍大将」という肩書きが使えたのに、この石碑への署名は何故か伯爵だけであるのが面白い。



ちなみに同じ伯爵であった乃木希典には元帥の発令は無かったが、連隊長心得として出陣した西南戦争で、西郷軍に軍旗を奪われたことがその理由かもしれない。

それにしても大阪府の北部にある水無瀬という辺鄙な場所に、日露戦争の陸軍と海軍の英雄二人が揮毫した巨大な石碑が今も残っているのが興味深い。



林 弥三吉は、第4師団長を終えた2年後の1932年に予備役になったが、1940年「大楠公」という著書を出しているので、相当な楠木正成ファンであったようである。

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