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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



顕如(1543~1592年)の時代に本願寺教団は、管領や公家との縁戚関係を深め石山本願寺を拠点として教団の最盛期を迎えている。



石山(大坂)本願寺の境内には御影堂、阿弥陀堂を中心に6町、2千軒という町屋が並んでいたというので、恐らく現在の大阪城公園の敷地はすべて本願寺の境内であったらしい。

大手門の北ににある千貫櫓



1570年(永禄13年)石山本願寺は、天下統一を目指す織田信長の退去命令に反旗を翻して11年にも及ぶ石山合戦が始まっている。

大手門内の見付石108トンと2番石85トン(巨石第4、5位)



1580年(天正8年)に和議が整い、本願寺は鷺の森、貝塚に本拠を移したが、1585年になって豊臣秀吉と和解し、秀吉が建設した大坂天満の本願寺に転居している。

桜門内の蛸石130トン(巨石第1位)



さらに1591年に秀吉によって京都の七条堀川の地に寺地を与えられ、山科本願寺以来59年ぶりに京都に本願寺教団を再興したのである。

京橋口の肥後石120トン(巨石第2位)



しかし、1592年に顕如が没すると、石山本願寺退去時の信長への対応をめぐって顕如と意見の食い違いがあった長男の教如に代わり、三男の准如が十二世門主に立てられることになった。

大手門の内側にある多門櫓



教如は准如に門主を譲ったあと、大阪道修町にあった大谷本願寺に入ったと言われ、その大谷本願寺という刻銘のある1596年鋳造された梵鐘が今も御堂筋に面した南御堂(東本願寺の難波別院)に残されている。



教団内部の対立の中、1602年、徳川家康による寺地の寄進がなされ、長男教如と彼を支持する勢力は徳川家の後援を得て独立して東本願寺を建立、本願寺は、准如の本願寺(西本願寺)と教如の東本願寺とに分裂し現在に至っている。

太鼓櫓跡の石垣



石山(大坂)本願寺は、織田信長との石山合戦に破れたあと破壊され、秀吉の大坂城築城で埋められ、徳川氏の大坂城でさらに大規模な土木工事が施工されているのでその遺構は未だに発見されていない。

従って石山本願寺推定地の石碑は、蓮如の石碑の場所から300mくらい西にある太鼓櫓跡の近くにも建てられている。



蓮如上人碑と、南無阿弥陀と彫られた円柱の石碑の西には内堀があり、堀に沿ったスロープ状の道を北に降りると大坂城の梅林である。



1774年(昭和49年)に開園されたこの梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付したことがきっかけで、今では約1,7ヘクタールの広さに1200本の梅が植えられ、大阪市民に親しまれている。



今年は暖冬のせいか2月の第二週にもかかわらず、梅は3分咲きで、結構楽しむことができた。



梅園の東側にある東外堀の上に出ると、公園の管理員が石垣によじ登って、雑草の清掃をしていたが、あと2週間くらいすれば梅の花も見頃となるのではなかろうか。




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